01 桜花
穏やかに晴れた春の日の午後―――


鷹通はあかねと共に公園の桜並木を歩いていた。
今日から新学期であるが大学はまだ休講が多い。折角だからと、始業式のため午前中で下校するあかねと落ち合い、二人で今が盛りの桜の花を見に行くことにしたのだ。
京を捨て、あかねと共にこの世界にやって来たのは、ちょうど一年前の桜の季節――。
あの頃はまだこの世界に慣れることに必死だったため、花を楽しむ余裕などなかったのだが、あかねや天真、そして詩紋の助けも借りて、今ではこの世界の人間として不自由なく過ごしている。



「わあ、綺麗!」
公園内の歩道をゆっくりと歩きながら頭上を見上げたあかねは、感嘆の声を上げてその場に立ち止まった。
歩道の両側に植えられた桜の木が歩道の上を覆うように枝を伸ばし、まるで桜で出来たアーチのようになっている。それぞれの枝には競うように薄紅色の花が咲き誇っていた。
歩道の中程で立ち止まって桜に見入るあかねに倣い、鷹通も足を止めて薄紅色の花を見上げた。
穏やかな春風に煽られて、満開の時期を迎えた桜の花が一枚、また一枚と、五弁の花弁を散らせている光景が、喩えようもない程美しい。
暫しその光景に見惚れていた鷹通は、隣で言葉もなく頭上を見上げたまま佇んでいたあかねが再び歩き始めたのに気付いて、視線を彼女の方に戻した。あかねは二、三歩歩いた場所で再び立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り向いた。
くるくると表情がよく変わる顔に、今は柔らかな微笑みが浮かんでいる。
その微笑みを受け止めた鷹通の顔にも笑みが浮かんだ。
あかねの大好きな優しい微笑み――。
元より穏和な性格の鷹通であるが、彼の微笑みは本当に温かくて優しい。
眼鏡越しに柔らかく瞬く瞳に見つめられると、あかねはいつも頬を薄紅に染めてしまう。
彼の笑顔は、まるで辺りを優しく包み込む春風のようだとあかねは思う。
(怒ると怖いんだけどね……)
京で幾度も鷹通に叱られたあかねは、自分を叱る時の彼の表情を思い出した。
普段は知的で優しい眼差しが、一瞬にして厳しい表情に変わる。その後滔々とお説教を聞かさせる羽目になるのだが、あかねにとってそれは嫌なことではなかったのだ。
厳しい表情と口調の中に、彼が誰よりも自分を心配してくれていることを感じ取り、叱られているのに胸が温かくなるからだった。
――結局自分は彼と居られるだけで温かい気持ちになれるらしい。
そう思ったあかねは、くすりと笑った。

「どうかしましたか?」
突然あかねが小さく笑ったのを見て、鷹通が訊ねた。
「ううん。何でもないです」
その返答にまだ怪訝そうな表情の鷹通に、あかねは笑顔でそう答えた。
薄紅の花弁を舞い散らせている微風が、鷹通の髪を優しく梳くように撫でて行く。
京に居た頃、首の後ろで一つに束ねられていた長い髪は、今は短く切り揃えられている。さらさらの髪が穏やかな風に揺さ振られるのを見て、「短い髪も似合っていて素敵」などと思いつつも、怨霊と対峙した時、長く真っ直ぐな髪が風に靡く様に思わず見惚れる事の多かったあかねとしては、こちらの世界にやって来た後鷹通が髪を切ってしまったことが非常に残念だった。
しかし、何故髪を切ってしまったのかとの問いに対する彼の答えを聞いて、そんな気持ちは何処かに行ってしまったのだ。

『私は、貴女と共にこの世界で生きるために、京を捨てて此処にやって来たのです。こちらの世界の習慣に従うのが当然でしょう。それに――…』
僅かに頬を染め、照れ臭さを隠すように眼鏡に手を遣りながら、鷹通はあかねに告げた。
『貴女と一緒に居られるのなら、髪を切るぐらい、どうということはありません。京さえ捨ててしまっても惜しくはなかったのですから……』

―――嬉しかった……。
一緒に居るためなら京さえ捨てても惜しくはなかったと言ってくれた彼の言葉が。
鷹通がどれ程京を愛していたか、あかねは知っていた。京の町を散策する道すがら様々な事を彼と話したが、その言葉の端々に彼の故郷に対する想いを感じることが出来たからだ。
だからあの日、「京に残りたい」と鷹通に告げるつもりだった。
ところが彼は、何もかも捨ててあかねと共にこちらの世界に来る決意をしてくれた。
嬉しかったけれど、こちらの世界に慣れる努力をしている鷹通の姿を見て、あれ程彼が大事にしていた京を捨てさせてしまったことを、あかねは負い目に感じてもいた。
そんな時に聞いた彼の言葉に救われたような気がしたのだ。

―――貴方と一緒に居られるのなら――…。

その思いは、あかねの中にもあった。
彼が同じ思いを抱いてくれていることが嬉しい。
じっとこちらを見つめている鷹通に、あかねは再び微笑み掛けた。


微笑みを浮かべたあかねがこちらを見つめている。
真っ直ぐに見つめて来る緑色の瞳は、初めて会った時から変わらない。
その瞳を受け止めた鷹通は、春風に煽られて揺れる朱鷺色の髪に、薄紅色の花弁が降り注いでいるのを見て、「美しい」と思った。

「桜は、鷹通さんの好きな花でしたよね?」
不意にあかねが口を開いた。
「ええ」
「私も大好きなんです」
頷きながら答える鷹通に、あかねが言葉を継ぐ。
自分が好きな花を彼も好きだと知り、喜んだことを思い出す。
「だから、物忌みの文には絶対桜の花を添えようと思ったの」
あかねは再び頭上の桜を見上げた。
僅かな枝の隙間から、春の麗らかな日差しが漏れている。
眩しそうに目を細めたあかねは、鷹通に視線を戻した。
「でも不思議だったんですよね」
あかねの言葉に、鷹通は小首を傾げる仕草を見せた。その動きに合わせて、微風に揺れていた濃緑の髪が微かに流れる。
「何がですか?」
「桜ってすぐに散っちゃうでしょう?それなのに、具現化で手に入れた桜の花って、夏まで散らずに花を咲かせたままだったから……」
夏になって石楠花の花を手に入れるまで、その桜が散ることはなかったのだとあかねが話す。
「それは、やはり龍神の力が働いていたのかもしれませんね」
あかねが龍神の神子として京に召喚されたのは、まだ桜の花が咲き誇っていた頃だった。それ以後何度かあった物忌みの日の前夜送られて来た文には、いつも花を付けた桜の小枝が添えられていたのだ。桜の頃が過ぎ、京の町や周辺の山々の桜がすべて散った後もずっと。自然界では有り得ないことだから、龍神が何らかの力を働かせたと考えるのが妥当だろう。
「もしかしたら、龍神様が私の願いを聞いてくれたのかもしれない……」
ぽつりと呟いたあかねに、鷹通が問い掛けるような視線を向けた。
それに気付いたあかねが、くすりと笑って言った。

「物忌みには、ずっと鷹通さんの好きな桜の花を贈りたいって、そう思ったの……」

その言葉に驚いたのか目を瞠ったまま言葉もなく呆然と見つめている鷹通を、あかねは真っ直ぐに見つめ返した。


不意に、強い風が吹き抜けて行った。
公園内の木々が、ざわざわと葉擦れの音を立てた。
二人の頭上の桜も、突然吹き抜けた風に煽られ、無数の花弁を舞い散らせた。
口を噤んだまま見つめ合っていた二人が、同時に舞い落ちる桜花に目を遣った。
乱れ散る花弁が、まるで薄紅色の薄衣のように目の前に広がった。
一瞬にして起きた桜吹雪に、二人とも暫し言葉もなく見入っていた。

「綺麗……」
やがて、あかねが溜息交じりの声を上げた。
「本当に……」
相槌を打った鷹通は、静かにあかねの隣に歩み寄った。

不意に起きた強風はすぐに収まり、また元のように一枚ずつゆっくりと花弁が舞う。
その様子に目を遣ったまま、あかねは言った。
「すぐに散るから、桜は美しいんですね……」
鷹通は、呟くように語るあかねの横顔に目を転じた。彼女は微笑みを浮かべた優しい表情で、舞い落ちる花弁と咲き誇る桜の花を見つめていた。

年に一度、数日間だけ咲く桜花――…。
まるで一年分の輝きをその数日間に凝縮させたかのように咲き誇り、美しい姿のまま潔く花を散らせる。
―――だからこそ、美しい。
満開の桜も、それが散りゆく姿も……。

「ずっと咲いていて欲しいなんて、余計な事を願ってしまったかもしれない……」

――花弁が舞い散る姿もこんなに綺麗なのに……。

独り言のようにぽつりと呟かれた言葉が、心なしか沈んだように聞こえた。
さっきまで微笑みを浮かべていたあかねの顔から笑みが消えている。
それを見て、鷹通はあかねには分からないくらい小さく息を吐いた後、口元を綻ばせた。
常に他者を思い遣る心を持つ彼女らしい考えだ。

「そんなことはありませんよ」
耳に届いたこの上なく優しい声に、あかねは弾かれたように傍らに立つ鷹通を見た。
あかねの大好きな優しい笑顔がこちらを見つめている。
「貴女が私の好きな花を贈るためにそう願ってくれたことを、私は嬉しく思っています」
その言葉に、緑色の瞳が大きく見開き瞬いた。
「それに、文に添えられていた桜は、私にとってはこの桜以上に美しいと思えるものでした」

物忌み前夜、あかねから届いた文に添えられていた桜花――。
それはいつも、彼女の暖かく優しい気を纏っていた。
だから、あかねから贈られた桜は、花瓶に生けてずっと部屋に飾ってあったのだ。
彼女の物忌みの日が巡って来る度、一本ずつ増えていく桜を見て、随分と癒されたことを思い出す。
造花のように散ることのない桜は、それでいていつまでも瑞々しく、鷹通にとってはどんな花よりも美しく感じられたのだ。

「ですから、貴女からの文を、私はいつも待っていました」

吹き抜ける春風に煽られた花弁が、朱鷺色の髪に降り注ぐ。
その様子を眩しげに見つめていた鷹通を見上げる顔が、ゆっくりと綻ぶ。

年に一度数日間だけ咲き誇る桜の花より、彼女のほうがずっと美しい……。
そう思った時、頬が微かに熱くなったのを感じた。


「あっ…!」
不意にあかねが声を上げて桜の木を見上げた。
再び吹き抜けて行った風に、桜吹雪が沸き起こったのだ。

「もうすぐ、桜も終わりですね……」
残念そうにあかねが言う。
次に降る雨は、確実に花散らしの雨となることだろう。
「ええ。ですが、また来年も美しく咲き乱れることでしょう」
少し淋しげな様子のあかねに鷹通が答えた。

「また来年、二人で桜を見に来ましょう」

―――来年も、再来年も。これからずっと……。

「ずっと、貴女と一緒にいたいのです……」

眼鏡越しに見つめて来る薄茶色の真摯な瞳。
それを受け止めたあかねは、はにかんだ笑みを浮かべて頷いた。
「私も、そう思っています」
あかねの言葉に、鷹通の顔にも微笑みが戻る。




どんなに努力しても得られることのないものを望み、あがいていた自分を変えたのはあかねとの出逢いだった。
そして、決して得られぬと思っていた彼女と、今こうして共に在る幸運に恵まれた。

だから、これからも同じ時間を過ごしたい。

(貴女と共に……)



見つめ合う二人の上に、薄紅色の花弁が静かに舞い降りた。







〜了〜


あ と が き
初書きの鷹通×あかねです。
桜は遙か世界を代表するような花ですから、誰の話としても書けそうだったのですが、「桜花」というお題は2ではなく1の八葉の誰かで書きたいと思っていました。CD「君恋ふる歌」の語りの印象が強いせいか、これは泰明さんかなと思わなくもなかったのですが、私は頼久さんか鷹通さんで書こうと思ったのです。頼久さんのは京編でお兄さん絡みかなとか。でも頼久さんは他のお題でも書けるかなと思ったので、他のお題で出番がないかもしれない(←オイっ!)鷹通さんの話にしてみました。
私にとっては、鷹通さんは京エンディングのモノローグの「花を愛でましょう」の印象が強いので、「桜花」というお題に登場して頂いた訳です。でも京ED後の話にはせず、敢えて現代ED後の話にしてみました。ちなみに、うちでは現代ED後の鷹通さんは大学生という設定になっております。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
themes' index top