旅立ち、別れの時。
(いつの間にか、夜が明けていたようだな……)

帽子のつばを少し押し上げて空を見上げると、村雨は眩しそうに目を細めた。


龍の宝玉により八葉に選ばれた村雨と、村雨と同じく玄武と呼応する力を宿すこととなった九段、そして黒龍の神子・高塚梓の三人が禍津迦具土神を退けると、帝都の空を覆い尽くすように広がっていた瘴気が、禍津迦具土神の姿が霧散するのと同時に、一瞬にして消え去った。
巨大な蛇神がその鱗を纏った身体を巻き付けたことにより上部が破壊され、瓦礫の山が築かれた凌雲閣の周辺にも、帝都の明るい未来を暗示するかのように、陽光が燦々と降り注いでいる。


――終焉の予言は回避されたのだ。


帝国軍と鬼の一族――。
そのどちらにも属さず、独自の立場で帝都の未来を憂い、同志たちと共に立ち上がった村雨にとっても、禍津迦具土神との戦いは意味深いものだった。これまで対立していた帝国軍に属する者と鬼の一族が共に八葉に選ばれ、帝都の滅亡を防ぐために力を合わせて戦ったからだ。
この分だと帝都の復興も、有馬とダリウスを中心に、二つの勢力が協力しながら進めて行けるに違いない。
どちらにも属さない村雨も、無論、「結実なき花」の同志たちと共に、軍政が倒れた後の新たな国造りに関わっていくつもりだった。


誰もが帝都の明るい未来を予感する中、黒龍の神子としての役目を終えた梓との別れの時が訪れようとしていた。





◇ ◇ ◇





「――ということで、梓は任を外れ、我も共に、梓の世界へ旅立とうと思う……」


九段がそう宣言した時、彼の部下に当たる精鋭分隊の隊長と副隊長は、揃って度肝を抜かれたような表情を浮かべていた。
だが、「梓と共に異世界へ行く」という九段の言葉を聞いても、村雨に驚きはなかった。

――やはり、な。

滅多に見られないであろう精鋭分隊隊長の呆気にとられた顔を面白そうに眺めながら、そう思っただけだ。
約一か月という短い期間だったとはいえ、九段とは同じ屋根の下で暮らしたことがあるのだ。彼の突拍子もない言動に驚かされることは未だにあるとは言っても、有馬や秋兵に比べれば、九段の性格は熟知しているつもりである。
だから、むしろ黒龍から元の世界に帰るよう言われた梓を九段が黙って見送ることの方がおかしく、違和感を覚えていたくらいだった。
恐らく、特別な役目を担う家に生まれ、一般とは異なる育ち方をして来た九段にとって、初めて覚えた恋であったろう。その恋を叶えた今、九段が梓について行くと言い出すであろうことは、村雨には十分予測できたことだった。このおっとりとした年下の恩人は、見かけによらず、時折途轍もない決断力と行動力を発揮することがあることを知っていたからだ。

怨霊討伐に付き合わされ、二人と共に行動することが多かった村雨は、本人が自覚する以前から、九段が梓に好意を抱いているらしいことに気付いていた。同じく毎日のように共に行動し、彼らと一緒に軍邸に住んでいた千代も、幼馴染の恋心に気付いていたようだが、こちらは見守るだけでは飽き足らず、幼馴染と対の存在の仲を結ぼうと、あれこれと画策していたようだ。村雨としては、自分が相手に恋心を抱いている自覚がないまま、九段が過保護なくらいに梓の世話を焼いていたことから、彼の想いが梓の迷惑になっているのではと考えたこともあったのだが――。
しかし、結局のところ、暴動の日以降村雨が二人と袂を分かっている間に、千代の希望通りに初心な恋人たちは互いの想いに気付き、上手く纏まっていたらしい。千代の時空移動に巻き込まれ、一度元の世界に帰っていたという梓が再び帝都に戻って来た時、その証拠を見せ付けられた。
そして今、彼らは人目を憚ることなく、仲間たちの目の前で微笑ましい恋愛劇を見せている。
若い二人の恋路をそれとなく見守って来た村雨も、彼らの初々しさに当てられ苦笑を浮かべながらも、仲間たちと共にその様子を見つめていたのだった。


――おや?――と、村雨が思ったのは、仲間たちが口々に贐の言葉を述べている時だった。


「きっとそっちの世界も、そう悪いところじゃないだろう」

村雨がそう話した時、九段が一瞬だけ見せた表情が、何故か引っ掛かったのだ。
彼にしては珍しく、何か言いたそうだが言うのを躊躇っているような、そんな表情に見えたからだ。
それが気のせいではなかったことが判明したのは、皆が一通り声を掛け終わった後のことだった。

「――村雨、ぬしと二人きりで話したいことがあるのだが…。少し構わないだろうか?」

そう声を掛けて来た九段は、先程まで浮かべていた穏やかな笑みを消し、どこか真剣な面持ちだった。
やはり何か話したいことがあるらしいと分かり、村雨が承諾すると、九段は「暫く村雨と二人で外すから」と梓に断った後、村雨を伴い仲間たちがいる場所から少し離れた場所に移動した。ここなら話し声が届かないだろうと判断したらしく、漸く足を止める。

「――で? 話ってのは、一体なんだ? 京都にいる両親に、お宅が高塚と一緒に別の世界へ旅立ったと知らせて欲しいってことか?」

千代がこの世界から姿を消した今、京都に在る九段の実家の住所を知っているのは、恐らく村雨だけだろう。だから、実家に連絡する間もなくこの世界を離れることになった自分の代わりに、両親に事の次第を知らせて欲しいという依頼なのかと思ったのだ。

「それとも、龍の宝玉を京都の実家まで届けて欲しい――とか?」

龍の宝玉は星の一族の家宝だと、九段から聞いている。九段によれば、帝都から危機が去った今、任を外れた八葉たちの身体から抜けた宝珠は、元の宝玉の姿に戻るのだという。それを、いなくなる自分の代わりに実家に返しに行ってもらいたい、という依頼もあり得るなと思い、村雨はそう付け足した。軍邸に九段が残した私物は、落ち着いたら整理して彼の実家に送ることになるだろうが、さすがに星の一族の家宝をそれらの荷物と一緒に送るのはまずいだろうと考えたからだ。
だが、いずれの村雨の推測に対しても、九段は首を横に振った。意外そうに目を瞠った村雨に、九段は次のように説明した。

「龍の宝玉は、神子と八葉が役目を終えた後、星の一族の元へと戻る。恐らく、宝玉自ら在るべき場所へと還るだろう」
「『宝玉自ら』…か。便利なものだな」

話しながら、村雨は無意識に右頬に手を遣っていた。右目の下の辺りに、まだ宝珠が埋まっていることを確認する。

(龍の宝玉は八葉を選ぶだけでなく、自らの守護者をも選ぶということか……)

萩尾家は星の一族の本家、五摂家の一つである二条家の傍系の血筋である。しかし、傍系とは言っても、九段の母親は二条本家の生まれであるから、九段自身は極めて直系に近い濃い血を持っていることになる。
それ故の力の強さなのだろう。
少なくとも村雨が萩尾の邸で世話になっていた頃には、既に宝玉の守護は九段に任されていたようだったが、彼が去った後は誰が守護していくことになるのだろうか。九段によれば、明治改元の後、天皇の行幸と共に東京に移った本家に代わり、京都に残った萩尾家が、龍の宝玉と星の一族に伝わる伝承や古文書を守って来たのだというが――。

村雨がそんな事を考えていると、九段はもう一つの推測について、意外なことを告げた。

「それと、我の実家への連絡は不要だ」
「……本当に良いのか?」

九段の言葉に村雨は驚いた。
九段に兄弟はいない。傍系とはいえ、彼の家は由緒ある家柄だ。その跡取り息子であるのに、実家に連絡も入れず消息を絶つことになっても良いのか、彼の家族と面識があるだけに気になり、村雨は重ねて確認した。
すると、村雨が危惧していることを察したのか、九段は笑みを浮かべながら答えた。

「うむ。我の決意は、父上と母上には既に電話で話してあったしな。そして、我の気持ちを理解して頂いた。……だが、もし機会があれば、我は一族の使命を全うし、元気に旅立った――そのように伝えてくれ」

――なんとも素早い…。
思い立ったら即行動に移す性格の九段は、梓に想いが通じたことを知るや否や、帝都が救われた後、彼女と共に異世界へ旅立つことを決意し、さっさと両親に報告して了解を得ていたらしい。
普段のおっとりした振る舞いからは想像することができない用意周到ぶりに、感心半ば、呆れ半ばの表情で九段を見ていると、彼は呆れ顔の村雨を暫く見つめた後、表情を改め、話を切り出した。

「そんなことより、ぬしに確かめたいことがあったのだ」
「――なんだ、改まって」

九段の表情に、村雨は徒ならぬものを感じた。こんな時、九段がこちらが全く予期していなかったことを口にするということは、これまで何度も経験している。あの、デモを止めるよう忠告して来た日もそうだった。
だから、村雨は思わず身構えて九段の次の言葉を待った。
相手が平静を装いつつも身体を緊張させたことに気付いているのか、それとも気付いていないのか、九段は村雨の瞳を真っ直ぐに見据え、村雨が予想した通り、全く想定外の言葉を口にした。


「――ぬしは、元の世界に帰らぬつもりなのか?」


九段が発した言葉を聞いて、村雨は驚きのあまり、はっと息を呑んだ。そのまま、呼吸することすら忘れたかのように全ての動きを止め、ぎょっとして相手の顔を見つめる。
物に動じることの少ない昔からの知己の珍しい反応を見た所為か、九段は相手を気遣うような表情でこちらを見つめている。
やがて最初の驚きが去った後、心を落ち着かせるためか無意識に帽子に手を遣り、それを被り直してから、村雨は九段に問い掛けた。

「……お宅…どうして……。一体、いつから知っていた?」

この世界に、村雨が他の世界から来た人間であることを知っている者はいない――はずだった。
あの日、病院の屋上で、黒龍の神子としてこの世界に召喚されようとしていた梓を助けようとして彼女の時空移動に巻き込まれ、今から五年前の京都に辿り着いて以降、誰にも話したことのない事実だ。ハイカラヤのマスターはもちろんのこと、本人が気付いていないようだったので、こちらの世界で再会した梓にすら話してはいない。
村雨は、この世界に召喚された頃のことを思い起こした。


萩尾の邸の庭に迷い込む前、京都の町を行く当てもなく彷徨い歩いた。長時間歩き回り腹が減ったため、何か食べ物を買おうと入った店で持っていた金を使おうとしたところ、店主に胡散臭そうな目で見られた上、店から追い出されてしまった。村雨が持っていたのが、この世界では使われているはずのない、未来の紙幣だったからだ。
その時点ではまだ、SF映画や小説のネタによくあるタイムスリップにでも巻き込まれたのかと考えていた。ここが、自分が生まれ育った世界の過去の世界ではなく、全く異なる時空に存在する大正時代によく似た世界なのだと理解したのは、九段に拾われ、彼から色々な話を聞いてからだった。
知られると面倒な事になりそうだと考えたから、異世界から来た人間であることをひたすら隠し、こちらにやって来た時に持っていた鞄の中に入っていたボールペンなど、この世界にまだ存在しないであろう物は、過去の世界に来てしまったらしいと分かった日以来使わないようにしていた。
――紙幣の件で懲りたからだ。
それは、現代でのみ使われている新語や時事用語の使用に関しても同様であり、行き倒れたところを九段に助けられ、彼の邸で暮らしていた間も、特に気を配っていたことだった。新聞記者として、日々文章を書いたり読んだりしていたから、ヘマをしない自信があった。
九段のほうも、今まで村雨の秘密を知っている素振りを見せたことはなかったので、てっきり知られていないものと思い込んでいたのだ。
――あれほど言動には注意を払っていたのに、一体、いつ九段に知られたのか――。
考えてみたが、思い当たる節はなかった。


村雨が驚きを隠せないまま茫然としていると、九段が村雨の問いに答えた。

「確信を抱いたのは、神子召喚の儀式で梓が召喚されて来た時だが――」

九段は村雨の反応を気にするように一旦言葉を切ったが、やがて覚悟を決めたように続けた。

「――実は、邸の庭でぬしを助けた時から、薄々感じてはいた。『この者の気は他の者とは異なるようだ』、と思ったのでな」
「――って、ほぼ最初からじゃないか!」

突っ込む村雨に、九段は苦笑しながら頷くと、そう推測した理由を説明し始めた。

「ぬしも知っての通り、我ら星の一族には、過去に召喚された神子の記録が残されている。――現在から最も近い記録は江戸時代末期のものだが、その際異世界から召喚された白龍の神子と黒龍の神子は同じ世界の住人で、しかも従姉妹同士であったそうだ。さらに時代を遡れば、神子と共に、神子と同じ世界から八葉が召喚された例もある」

だから、「もしや村雨は他の世界の住人なのでは」と考えたのだと九段は話す。一族に伝えられている過去の事例だけではなく、龍神の神子や星の一族、鬼の一族など、この世界の住人ならば常識として知っているようなことを、出逢った頃の村雨が全く知らなかったという事実も、そう考える根拠となったらしい。

「だが、あの時はまだ召喚の儀式は行われてはいなかった。それ故、確信が持てなかったのだ」

神子を召喚してもいないのに、異世界の人間がこの世界に迷い込むことなどあるのか、当時の九段には分からなかったのだという。
そうこうするうちに、村雨は黙って邸から立ち去った。今よりも更に世間知らずな少年だった九段に、生涯忘れられぬ程の強い印象を残して。
それから数か月が過ぎて、村雨から謝礼金と処女作が掲載された文芸雑誌が送られて来た時、将来上京する機会があったら、必ず彼に会いに行こうと決意した。
そして二年前、図らずも怨霊が蔓延るという、帝都の危機的な状況が齎されるに至り、その機会が訪れることとなったのである。

「上京してぬしと再会し、帝国軍が我の進言を受け入れ、神子の召喚儀式を執り行うと決まった頃、過去の記録を読み返していて、ふと、思い出したのだ。神子と共に異世界から召喚された八葉の中には、神子が着いた時点から数年前の時空に辿り着き、この世界で数年間過ごした後、召喚された神子と再会し、八葉に選ばれた例があったことを……」

それは、九段から聞いたことがない話だ。彼自身もその時まで忘れていたようなので当然なのだが、自分の場合との類似に気付き、村雨は大きく目を瞠った。
果たして、九段もその事例を思い出した時に、村雨が今考えたのと同じことを考えたようだ。

「だから、もしやと思ってはいたのだが、梓が召喚されて来た時、その気を感じて我は漸く確信したのだ。『村雨は梓と同じ世界から来た人間だ』、とな」
「……その割にはお宅、俺には一度も訊ねて来たことはなかったな」
「ぬしが隠している以上、我が口にするべきではないと思ったのだ。他の者に知れれば面倒な事になりそうなのは、さすがに我にも推測できた。それに、何よりぬしは既にこの世界にしっかりと根を下ろして生活しているようだったからな」

帰る術がなかったからかもしれないが、それでも帝都で再会した村雨は、この世界で小説家として成功し、こちらの世界の人間として普通に暮らしていた。その適応力にも感服したのだと九段は話した。


九段が言葉を切ると、村雨は長い溜息を吐いた。

「……俺も、ダリウスの意見に賛成だ」

村雨がそう言うと、意味が解らなかったのか、九段はきょとんとした顔をしている。彼と出逢った五年前と変わらぬ、どこか幼さの残る表情だ。
(この表情も見納めかもしれんな……)
そう考えた自分を可笑しく感じ、村雨はフッと笑い声を漏らした。相手はこの後、別世界へと旅立つのだ。“かもしれない”という言葉は相応しくないだろう。
突然笑い声を漏らした村雨を訝しげに九段が見つめている。それに気付き、村雨は言葉を継いだ。

「――星の一族は侮れない、ということさ」

先程、鬼の首領が口にした言葉を拝借して言うと、九段は今度は首を傾げている。
どうやら、誰よりも素直な相棒には、変化球は通じないらしい。
再び零れそうになった笑みを堪え、村雨は九段に言った。

「なに、褒め言葉だと受け取っておけ。正直、お宅がそこまで見抜いているとは思わなかったからな」

――隠し事や嘘を吐くのが下手な奴だと思っていたのに、まんまと騙された。
村雨がそう付け足すと、九段は漸く笑みを浮かべた。

「ほう、“褒め言葉”、とな? ぬしが我を褒めるとは、珍しいこともあるものだな」

嬉しそうなその表情があまりに無邪気で、村雨は思わず苦笑する。
確かに言葉にして九段を褒めたことは殆どなかったかもしれないが、この自分より遥かに年下の相手に感服させられることが全くなかったわけではない。
京都から上京して来て、帝都の現状をその目で見るや、帝国軍の最高権力者である参謀総長・片霧清四郎に掛け合い、精鋭分隊を設立したことを本人から聞いた時は、本当に吃驚したし感心したのだ。九段が昔から使命第一なことは知っていたが、世間知らずでおっとりとした、如何にも育ちの良いお坊ちゃんだと思っていたから、己の使命を果たすためにそこまでの行動力を発揮するとは思ってもみなかったからだ。

(まあ、そんな事を面と向かって告げる気がなかったのは確かだが……)

こうも無邪気に喜ばれては、反対にこちらの方が反応に困ってしまうからだ。純粋で真っ直ぐすぎる九段の言動に、村雨は調子を狂わされることが多かったのである。


「それで、お宅の質問に対する答えだが――」


村雨が苦笑を収めて話を元に戻すと、九段もまた表情を改め、真剣な表情でこちらを見つめている。
その瞳を真っ直ぐに見つめ返すと、村雨はきっぱりとした口調で言った。


「――俺は残るよ……」


相手の表情の変化を確かめるが、九段に驚いた様子はなく、村雨の返答を聞いて、ただ目を伏せて小さく溜息を吐いただけだった。
恐らく、村雨がそう答えるであろうことを予期していたのだろう。答えが分かっていながら、確かめずにはいられなかった――「話がある」と声を掛けて来た時の彼の態度から、そんなところだろうと村雨は推測した。

「こっちでまだやるべきことがあるしな。それに、向こうの世界に未練はない」
「……本当に? 向こうには、ぬしの家族もいるのであろう?」

サバサバとした顔で村雨が告げると、九段は心配そうな表情を浮かべてそう訊ねて来た。
それを見て、村雨は呆れたように大きく溜息を吐いた。

「九段……。お宅がそれを言うのかね?」
「あ……。言われてみれば、そうであった……」

この世界を捨てて向こうの世界に旅立とうとしている九段も同じ立場だろうと、村雨が指摘してやると、九段は村雨に言われて初めて気付いたかのように、口元に手を遣り目を見開いている。
相変わらずな反応だと思い、村雨は思わず苦笑してしまう。
しかし、直ぐに苦笑を消して真顔に戻った。村雨が梓と同じ世界の人間であると九段が知っているのならば、彼に一つだけ念を押しておきたいことがあったからだ。

「だが、向こうの世界に行った後も、この事は高塚には言わんでくれ。あの娘なら、俺がこの世界に召喚されたのは自分の所為だと、自分を責めかねんからな」

梓は、自分が召喚された際、助けようとした村雨が時空移動に巻き込まれたことを知らない。こちらの世界で再会してからも、村雨が彼女にその事実を告げたことはなかった。梓が知れば、きっと責任を感じ、自分を責めるだろうと考えたからだ。彼女は自らの意思に依らず見ず知らずの世界に連れて来られ、神子としての役目を強要されたにもかかわらず、この世界を救おうと力を尽くす優しい娘であったから。

「無論、言わぬ」

村雨の言葉に頷くと、九段は短く答えた。
そして、村雨から視線を逸らすと、少しの間を置いて言葉を付け加えた。

「ぬしが神子召喚に巻き込まれたのであれば、梓の責任ではない。責められるべきは、召喚の儀式を行った我であろう」
「九段……」

九段が漏らした言葉を聞いて、村雨は驚いた。村雨自身はそんな事を考えたことはなかったからだ。
だから、九段の言葉を否定しようとしたのだが、村雨が否定の言葉を発するよりも前に、視線を正面に戻して九段が続けた。

「黒龍の神子召喚に巻き込まれたぬしが我の邸に辿り着いたこと、我は偶然だとは思ってはおらぬ」

村雨にとって九段のその言葉は、今まで想像したこともなかった意外な言葉だった。
この世界に召喚された時、昔の京都と思しき町に迷い込んだらしいということは分かったものの、現代の東京に生まれ育った村雨に土地勘があるわけでもなく、よく分からぬまま町の中を彷徨い歩いた。そして、萩尾の邸に辿り着いた頃には、空腹やら疲労やらで既に意識が朦朧としていたので、偶々目の前に在った邸の庭に迷い込んだだけだと思っていたのである。
しかし、どうやら九段は別の考えを持っているようだ。

「……つまり、必然だった、と?」
「その通りだ」

問い返した村雨に確信がある様子で頷くと、九段は自らの考えを口にした。

「恐らく、黒龍の意思であろう。神子召喚に巻き込まれたぬしが、いずれ神子と深い関わりを持つであろうことを、龍神は知っていたのかもしれぬ。だから、将来、神子召喚の儀式を執り行うはずであった我の元に、ぬしを導いたのではないかと我は考えている。――白龍の神子に選ばれるべき娘が隣人であったことも、恐らくは白龍の意思であったのであろうしな」

九段が口を閉ざすと、村雨は顎に手を遣り少し考えた後、彼に問い返した。

「つまり、なんだ。『自分が召喚した者の世話は自分でしろ』と、龍神がお宅に言ったとでも?」
「言われたわけではないが…。召喚されて来た者のために心を砕くのは、星の一族としての義務だ」

実際、村雨の目から見ても、九段は召喚されて来た神子二人に対して、献身的とも言えるくらいに気を配っていたように思う。それが星の一族としての役目だと彼は言うのだが、帝都を救うという役目を課せられた神子はともかく、自分の場合は違うだろうと村雨は考えた。
村雨からすれば、目の前で時空の渦に飲み込まれようとしていた少女を助けようと、自ら渦の中に飛び込んだのだから、こうなったのも自業自得なのだ。第一、九段も儀式で神子以外の者が召喚されて来るなど想定外であったろう。儀式の執行はしても、その後は龍神と龍の宝玉が対象を選ぶだけであるので、星の一族とはいえ、動き始めた儀式に対して九段が干渉できるわけではない。先程、神子と共に八葉が召喚された例があると話してはいたが、神子となるべき少女の傍にいて巻き込まれた人間が、儀式が行われるより前の時間軸に飛ばされるなど、それこそ全く予想していなかったに違いない。
だから、村雨には九段を責める気など毛頭なかった。そもそも、行き倒れて危うく命を落としかけたところを彼に助けられたのであるし。

「言っておくが、俺はお宅を責める気などないぞ。大体、あの頃はまだ――」
「だが、召喚の儀式の責任が我にあるのは事実だ」

――九段自身も神子以外の者が召喚されて来ることなど知りようがなかっただろう。
そう続けようとした村雨の言葉に被せるように、九段が反論する。
九段と話していると、話の腰を折られることが多いが、この時、村雨はいつになくムッとした表情を見せた。

「だからこそ、龍神は我に――」
「ああ、もう! 少しは人の話を聞けっ!!」

なおも言い募ろうとする九段を、村雨は珍しく大声を出して制止する。

「まったく……」

目を丸くして漸く黙った九段を見つめながら、村雨は溜息を吐いた。
九段と話していて疲れを感じるのはこういう時だ。全く意識することなく他人の調子を狂わすような言葉を発するところもそうなのだが、マイペースな彼はとにかく相手の話を最後まで聞かないのだ。そして、あくまでも自分のペースで話を進めようとする。村雨としては、正直なところ「勘弁してくれ」と思うことが多かった。

「――ん?」

ふと視線を感じ、村雨が仲間たちの方を振り返ると、突然村雨が上げた大声に驚いたのか、皆二人の方を見つめていた。
それを見て、ばつの悪そうな表情を浮かべた後、村雨は仲間たちに背を向け、声を落として九段に告げた。

「あの頃はまだ、お宅自身も儀式の結果など知りようがなかっただろうが。それに、高塚の召喚に巻き込まれたのは誰の所為でもなく、俺自身の責任だ」
「しかし…!」
「念のために言っておくが――」

口を挟もうとした九段を手で制すると、村雨は続けた。

「お宅には危うく野垂れ死ぬところを助けられたんだ。感謝しているよ」

萩尾の邸を出る時と謝礼金を郵送した時に手紙で謝意を伝えてはいたが、今まで面と向かって彼への感謝を伝えたことがなかったことを思い出し、今のうちに伝えておくことにした。彼が命の恩人であることは、紛れもない事実であったから。

「さっき、『そっちの世界も、きっとそう悪いところじゃない』と言ったが、俺にとっては良いことばかりがあった世界でもないんでね。むしろ、この世界で新たな生き方を模索することが出来て、俺はこの運命に感謝したいくらいなんだ。――だから、俺のことなど気にするな」
「村雨……」

自分の言葉を聞いて、今にも泣きだしそうな瞳をした九段に笑い掛けると、村雨は新たな世界へと旅立つ友に激励の言葉を贈った。

「そんな顔しなさんな。お宅もこれから違う世界へ旅立つんだろ? 俺がこの世界で新たな生き方を見つけたように、お宅もあの世界で自分らしい生き方を見つけられるよう、祈っているよ」

ちょうど、九段自身が言っていたように、自分だけの物語を紡いでいけるよう――。

(まあ、こいつなら大丈夫だろうが……)

九段がただの“世間知らずのお坊ちゃん”ではなかったことは、帝都で再会して以降、思い知らされた。彼は自分の道を自分で切り拓いて行ける強さを持っている、と村雨は思う。

(高塚もいることだしな……)

現実的に考えて、まだ高校生の梓に生活面で九段の面倒を見ることは不可能だろうが、どういうわけか自分より一回り以上若い二人を心配する気持ちは湧いて来なかった。
――独りじゃないんだ。何とかなるだろう。
そんな楽観的な考えが浮かんで消えないのは、恐らく能天気なくらいに前向きな、この年若い友の影響なのだろう。
そんな事を考えていると、ふと、千代のことに思いが及んだ。
凌雲閣の地下での出来事は、ダリウスからの連絡を待って「結実なき花」の同志たちと共に参謀本部の近くで待機していた村雨は詳しくは知らないが、白龍の神子である少女は、彼女の身体を気遣った白龍に別の時空に送られたのだと聞いた。
彼女も、彼女の幼馴染と同様に、自らの手で未来を切り拓く強さを持った少女であったとは思うが、異世界にたった一人で送られて一体どんな生活を送ることになるのか。自分の場合や梓の場合を思い起こし、心配する気持ちが生じた。

「この世界から姿を消したという駒野もそうだと良いんだがな。お宅ら、仲が良かったから、いくら龍神が無事だと言ったからといっても、やはり心配だろう?」
「千代か…。そのことなのだが……」

千代が安寧で生きていることを白龍から教えられたとはいえ、仲の良い幼馴染であった九段はさぞかし心配だろうと思い訊ねてみると、意外な事に、彼は僅かに顔を顰めながら、奥歯に物が挟まったような返答をした。そんな九段の反応を、村雨が怪訝そうな表情を浮かべて見ていると、彼は徐に懐から何かを取り出し、村雨の方に差し出した。
九段が差し出したそれは、村雨にも見覚えがあるものだった。禍津迦具土神と戦う前、元の世界から戻った梓が九段に手渡していたものだ。遠目に見ただけであるが、間違いない。

「それは、確か、高塚がお宅に渡していたものだろう?」
「うむ。梓の祖母からの手紙だ」

説明しながら、何故か九段は眉間に皺を寄せている。

(高塚の祖母さんが、九段に一体何を…?)

珈琲を飲む時以外では珍しく顔を顰めた九段に、村雨は益々訝しい思いを募らせる。

「内容が内容なので、梓には見せられなかったのだが……。ぬしには見せよう……」

読んで良いと言われ、村雨は九段が差し出した梓の祖母からの手紙を受け取った。
手渡された封筒には表書きがなく、裏返してみても差出人の名前はない。それを確認してから、封筒の中から便箋を取り出し、綺麗に折り畳まれたそれを広げる。
便箋に書かれた文字を目で追い始めた直後、村雨は思わず「ぶはっ!」と驚きとも笑いとも取れる素っ頓狂な声を上げていた。

「しっ! 声が大きいぞ、村雨!」

再び仲間たちの注目を浴びていることに気付き、慌てて九段が制止しようとした。しかし、村雨は声を殺そうとはしたものの完全には抑えることが出来ず、忍び笑いが辺りに響いた。

「村雨……。笑い過ぎだ……」
「くくく……。すまん……」

手紙を最後まで読んだ後、とうとう背を向けてしまった村雨に、むっとしたように九段が言うと、村雨はまだ肩を震わせながらも何とか謝罪の言葉を発することに成功する。
一頻り笑った後、「ああ、傑作だ」と言いながら九段の方に向き直った村雨の目には、笑い過ぎた所為か薄らと涙が浮かんでいた。

「お宅も難儀だな」
「む……」

思わず零れ出た言葉に、九段の眉間に刻まれた皺が益々深くなる。
それを見てまた笑いを誘われたが、九段に睨まれ、吹き出すことだけは何とか堪えた。

「占術に長けた星の一族殿も、さすがにこの未来は読めなかったと見える」

当の千代自身も、このような運命が待ち受けているとは、想像だにしなかったに違いない。
――まさか、自分の対の神子として、また友として接していた異世界からの客人が、将来生まれて来る自分の孫だとは――。
それに、千代が独りではなく恋仲だった書生と共に違う時空、しかも村雨の生まれ故郷でもあるあの世界に渡ったと知り、やはり安堵した。梓や九段を介しての知り合い程度の間柄の自分ですらそう思うのだから、幼馴染であり星の一族として白龍の神子である彼女を守って来た九段は、さぞかしほっと胸を撫で下ろしたことだろう。
生涯を共に生きようと約束したばかりの恋人の祖母が、実は時空を越えた自分の幼馴染だったという事実を知り、複雑な思いであることは間違いないだろうが――。

「だがな、九段。却って良かったんじゃないか? お宅だって向こうに行って直ぐ、住む場所やら仕事やらを見つけるのは大変だろう? 俺のように、お宅みたいな世話好きな人間に拾われるとも限らんしな」
「それは…。全く考えなかったわけではないが……」

村雨が指摘した点について、自らも思い及んだことがなかったわけではないことを、九段は認めた。梓と想いが通じ合ったことを喜んでばかりいる場合ではないことは確かだ。村雨のように独りで異世界に行くわけではないから、人様の家の庭で行き倒れることはないだろうが、九段としてはやはり梓に負担はかけたくないところだった。
そんな彼の考えを理解している村雨は、最善と思われる策を提案する。

「だから、自活できるようになるまで、駒野の家に厄介になれば良いさ。お宅なら、あの娘も、あの娘の旦那も歓迎してくれるだろ? 高塚は向こうでは一介の学生だ。お宅の生活の面倒は見られんからな」

幼馴染の手を煩わせることに対しても、九段は難色を示すだろうと予測した村雨は、ここは向こうの世界に渡って数十年が経ち、既に孫がいる歳になっているらしい千代を頼るのが自然な成り行きであり、最善の方法だと諭す。

(この手紙を読んだ限り、駒野は高塚が九段を連れ帰ると確信しているようだからな。九段が自活できるようになるまで、喜んで面倒を見てくれそうだ)

幼馴染として九段とは長い付き合いの千代は、梓が九段を連れ帰るというより、九段が梓について行くと言うであろうことを予測していたようだ。そうでなければ、彼に宛てた手紙に、『梓には私がいいと言うまで伏せること』――などとは書かないだろう。千代が書いたその言葉は、明らかに向こうの世界で九段と再会することを前提としたものだ。
千代はきっと、この世界とは全く違うあの世界に九段が慣れるまで、彼の力になってくれることだろう。この年若い友についてはあまり心配していない村雨だったが、やはり向こうに彼の力になってくれる存在が梓以外にもいると分かり、安堵したのは確かだった。

「まあ、頑張れ。お宅みたいに能天気なくらい前向きでマイペースな人間なら、あの世界でもやっていけるだろうよ」
「まい…ぺーす……?」
「『自分の考えややり方を曲げない人間』ってこった」
「むう…。何やら『頑固者だ』と言われたような気がするが……」

嫌そうに顔を顰めた九段に、村雨は今度は笑いを堪えることはしなかった。

「ハハ。だが、事実だろう? ま、これも褒め言葉だと受け取っておけ。困難な事にぶち当たっても、自分の信じた道を諦めずに前に進み続けることができるのが、お宅の良いところだろうが。それを忘れなければ、向こうの世界でもやっていけると言ってるんだ」

それを聞いた九段の顔から不機嫌な表情が消え、瞳が輝きを帯び始める。

「おお、向こうの世界をよく知るぬしがそう言ってくれるなら、『頑固者』でも良いような気がして来たぞ」

顰め面を忽ちにこにことした笑顔に変えて九段がそう言うのを聞いて、村雨は苦笑するしかなかった。相変わらず単純な奴だと思ったのだ。

「ま、自分らしさを忘れなさんな」

話しながら、村雨は便箋を再び折り畳み、元の通り封筒に入れると、九段に返した。
それを受け取り、再び懐に仕舞うと、九段は顔を上げて真っ直ぐに村雨の方を見つめて来た。
暫くの間、無言のまま見つめ合う。
そんな二人の間を、心地よい風が吹き抜けて行った。



先に沈黙を破ったのは、九段だった。


「何故だろうか。ぬしとはまた逢える――そんな気がしてならないのだ」


ぽつりと呟くように九段が漏らした言葉に、村雨は目を見開いた。
もう間もなく、九段は梓と共に向こうの世界に旅立つのだ。
そして、自分はこの世界に残る。
龍神が一時繋いだ時空が閉ざされれば、もう逢うこともないだろう。九段が言うように、彼とまた逢うことがあるとすれば、それは彼が再びこの世界に帰った時か、村雨自身が元の世界に帰った場合だ。もっとも、村雨は元の世界に帰る気など全くないし、九段が梓と別れてこの世界に帰って来ることもないだろうから、いずれにしても有り得ないと思うのだが――。
しかし、他ならぬ九段の言うことだ。戯言と聞き流すことなど、村雨にはできなかった。

「……それは、星の一族の予言かね?」

村雨の問い掛けに驚いたように目を瞠った後、九段は口元を緩め、首を横に振った。


「一族の力は失くした故、未来はもう読めぬ。だから、これはただの勘だ」
「“力を失くした”?」


(そう言えば、さっき高塚にも「もう、未来は読めない」と話していたようだが――)


――九段には未来を視る力がある。

村雨がそう確信したのは、九段がデモを止めるよう説得して来た時だ。他の誰でもなく村雨に忠告して来たということは、村雨がデモの首謀者であると見抜いていたからに他ならない。
今にして思えば、彼の邸に身を寄せていた頃にも、隠してはいたのだろうが、知らず知らずのうちに九段はその力の片鱗を見せていたように思う。
世間では、ここ数十年のうちに星の一族の先見の力は失われたということになっていたが、恐らく何らかの理由で意図的に秘匿されていたということなのだろう。九段は幼馴染で白龍の神子である千代にすら、先見の力を持つことを明かしてはいなかったようだから。
今更そのことについて追及する気はないが、“力を失くした”とはどういうことなのか、その理由が思い付かず、村雨は思わず問い返していた。

「ああ、ぬしは凌雲閣の地下での出来事を知らぬのだったな……」

村雨の問いに一瞬きょとんとした表情を浮かべた九段だったが、直ぐに村雨が鸚鵡返しに問い返した理由を悟り、笑みを浮かべながら説明し始めた。

夜会で起きた憑闇騒ぎの後、憑闇の発生に軍が関係していると確信し、参謀総長に詰め寄ったところ、既に禍津迦具土神に蝕まれていた総長の命を受けた強兵たちに捕えられ、頭に邪神の鱗を埋め込まれた上、その記憶を消されたこと。
頭に埋め込まれた邪神の鱗の所為で、解除のため凌雲閣の結界について考えようとすると激しい頭痛が起きるようになり、梓の黒龍の神子としての力に幾度も助けられたこと。
梓を追って、千代や有馬たちと共に凌雲閣の地下に乗り込んだものの、邪神の鱗の所為で参謀総長に操られ、軍の陰謀を暴こうとしていた梓や鬼の一族たちと敵対する行動を取ってしまったこと。
梓の声が邪神の傀儡となりかけていた心に届き、必死の思いで己の持てる力のすべてを注ぎ込み、邪神の鱗を頭から外すことに成功したこと。

それらの出来事を、普段と変わらぬ穏やかな表情のまま淡々と話す九段を、村雨は驚きと呆れが入り混じったような、ぽかんとした表情で見つめていた。


「――そんなわけで、邪神の鱗を頭から外した時に、我は一族の力を失くしたのだ」


あっけらかんとした様子でそう話を締めくくった九段に、村雨は暫し言葉を失う。

(こいつは、なんでこんなに平然としているんだ?)

全く動じていないどころか、話しながら笑みすら浮かべているのが信じられなかった。
九段の話は、当事者ではない村雨ですら、聞いているだけで腹立たしく思えるような内容だった。村雨が彼の立場であれば、間違いなく参謀総長を憎むだろう。
それなのに、彼は父親に代わり謝罪を申し出た秋兵に「その必要はない」と言い、あっさりと許してしまった。「参謀総長の自分に対する仕打ちは、禍津迦具土神に蝕まれたが故のことだから」、と。総長が禍津迦具土神に操られていたことは事実なのだろうが、だからと言って謝罪なしで済む話ではないと村雨には思えるのだ。村雨と同じ考えだったからこそ、秋兵も父の所業に対して謝罪を申し出たのであろうし。
村雨が知る限り、出会った当初から九段が何よりも大切にしていたのは、星の一族の使命だった。当代の一族の者の中で最も優れた力を持つが故に、幼い頃からいつ神子が降臨しても良いようにと、一族の使命を果たすことのみに専心するよう育てられたのだと、本人からも聞いている。
他の者であれば反発して逃げ出したくなるような環境であったろうに、九段にとってはそれが当り前で、一族を代表して使命を託されたことを誇りにすら思っているようだった。
そんな彼が幼い頃から学校にも行かず、世間一般の子供が送るであろう生活のすべてを犠牲にして、来たる日のために能力を磨き、より高度な術を会得するために努力して来たであろうことを、短い期間ながら彼と共に暮らした村雨は知っていた。そのように、たゆまぬ努力の結果高めて来た力を失くしたというのに、どうしてこんなに平然としていられるのか、村雨には理解できなかったのだ。

(――お人好しにも程があるだろう!)

他者には持ち得ない稀有な能力を失ったにもかかわらず、全く応えていないらしい九段の代わりに、正義感の強い村雨は参謀総長に対して激しい憤りを覚えた。


「『失くした』って…。えらく簡単に言うが、お宅、それで良いのか、九段!?」

思わず強い口調で問い質した村雨に対して、九段は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、直ぐに表情を和らげると、彼独特のおっとりとした口調で次のように答えた。

「良いも悪いもなかろう。梓と千代――二人の龍神の神子のおかげで帝都は救われ、我も星の一族としての使命を果たし終えたのだ。役目を終えた今、一族の力など、なくても問題ないものであるしな」

のほほんとした調子で返された答えを聞いて、村雨は脱力する。
彼の代わりに腹を立てている自分が虚しくなって来たのだ。

(そう言えば、こいつはこういう奴だった……)

一族の使命が何よりも大切で、それを果たすために能力を磨く努力は惜しまないが、その一方で、何よりも大切だった使命を全うし終えた今、失くした力に対する執着心も全くないのだ。
――星の一族の力は、星の一族としての使命を果たすためだけにあればいい。
そのように割り切っているのだろう。
傍でその力の程を見て来た人間としては、勿体無いことこの上ないと思ってしまうのだが――…。

「……まあ、お宅が良いと言うのなら、俺が口出しする話じゃないのかも知れんが……」
「いや。ぬしが我のことを思いそう言ってくれたこと、承知している。――ありがとう…」

渋々納得した様子の村雨に、九段は穏やかに微笑みながらそう言った。
その晴れ晴れとした笑顔を見て、村雨は目を瞠る。
九段の柔らかな笑みに、使命を果たした達成感だけではなく、解放感が表れていることに気付いたからだ。

(――ああ、そうか…)

己を捨てて一心に務めて来た役目を無事果たし終え、彼は漸く幼い頃から束縛され続けて来た一族の使命から解放されたのだ。
そして、自由に飛び立つ翼を手に入れた。
これからは、一族の使命に縛られることなく、物語の主役のように自由に生きられる。
一人の男として、想いを交わした少女と共に――…。
晴れやかな彼の微笑みからは、此処とは異なる時空に旅立つことに対する迷いや不安などは一切感じられなかった。
――何も怖くない…。
そう語った言葉の通りに。

村雨自身も五年前に同じ経験をしているのだが、村雨の場合は自分の世界の過去に似た世界にやって来たこともあり、戸惑いはしたものの、この世界に順応するのも早かった。何よりも、既に社会に出て様々な経験を積んでいたので、それらの経験がこちらで生活する上でも助けとなっていたのだ。
だが、あの頃の村雨よりも更に一回り近く年若い九段は、特殊な生まれ育ちをしているが故に世事に疎く、かなり偏った経験しかしていない。
また、一人暮らしが長かったため生活力を備えていた村雨とは違い、九段は所詮お坊ちゃま育ちである。京都の彼の実家には何人も使用人がいたし、軍邸にも身の回りの世話をする家政婦がいるというから、炊事など最低限の家事すら経験がないはずだ。全ての能力を一族の使命を果たすことに注ぎ込んで来たため、生活力は限りなくゼロに近いというのが村雨の評価だった。
その彼が皆の前で梓の世界に旅立つと宣言した時、内心大丈夫なのだろうかと思ったが、村雨は直ぐに自らのその考えを否定した。
どんな状況でも常にマイペースで、前向きな姿勢を崩さず努力し続ける九段のことだ。新しい世界に初めのうちこそ多少の戸惑いはあるかもしれないが、直ぐに慣れるだろう。
何より、梓が傍にいてくれるのだ。それに、先程見せられた手紙から、向こうの世界では梓の祖母として生きているらしい千代も、九段が来ることを予想し、彼を迎える準備を整えてくれているはずだ。
梓と千代という、彼が大切に守って来た龍神の神子二人が傍にいてくれる。それが、異世界で生きる決意をした九段の、何よりの支えとなることだろう。


『……村雨は、強いな……』

不意に、昔彼に言われた言葉が耳に蘇った。確かまだこちらの世界に来て間もない頃――、彼の邸で世話になっていた頃に、星の一族がかつて持っていたという先見の力について話していた時、九段が漏らした呟きだ。前後の話の流れはよく覚えていないが、九段の様子がいつもと違って見えたので、その言葉だけが強く印象に残っている。
知り合ったばかりのあの頃はまだ、村雨の九段に対する印象は、「世間知らずのお坊ちゃん」、「担うべき役目に縛られた不憫なガキ」というものだった。だが、その印象は、帝都を守るための一連の戦いを経て、明らかに変化してきていると、村雨は感じていた。

「……お宅の方が余程強いだろうに……」

一人の女すら守ることが出来ず権威に屈した失敗者としての過去を捨て去り、名前すら変えて、成り行きから迷い込んだこの世界で新たな人生を歩もうとした自分などより――。
九段や梓の、己の使命や役目に対する迷いない姿勢は、村雨の目には眩しく映った。挫折を知らぬ若さ故――と言ってしまえばそれまでだが、世の中の汚い部分も見て来た擦れた大人には、純粋無垢で曇りのない彼らの瞳が眩しくもあり羨ましくもあった。
だからこそ、若い二人と自分を比べ、自嘲の思いしか湧いて来なかったのだ。

「ん? 何か言ったか、村雨?」

考え事をしながら無意識に零れた小さな呟きを耳聡く聞きつけたらしい九段が、怪訝そうに訊ねて来た。この年齢になっても出逢った頃と変わらず全く擦れてない九段が、村雨が自分や梓に対して密かに抱いている羨望の思いを理解することはないだろう。

「――いや、なんでもない」

思わず我に返ると、苦笑と取れなくもない曖昧な笑いが零れる。


「……さあ、そろそろ戻ろう。奴さんたち、待ちくたびれたのか、雁首揃えてこっちを見ているぞ」
「あ…ああ……。そうだな……」

仲間たちの方を一瞬だけ振り返り、そう答えたものの、九段は直ぐには動かなかった。
穏やかな表情で、じっと村雨の顔を見つめた後、漸く口を開いた。


「元気で。ぬしが我の対であったこと、嬉しく思っている」

「別れは言わんよ。お宅が『また逢えそうだ』と思っているなら、現実になりそうだからな。――ま、その時まで達者でな…」


どちらからともなく差し出した手を、固く握り合った。



生きる世界が分かたれても、きっとこの絆は続いて行く――。



本来であれば有り得ないことであるはずなのに、何故かその考えを否定することは、村雨には出来なかったのだった。





◇ ◇ ◇





「……行っちゃったね……」


残念そうに呟いたコハクに、「そうですね」と秋兵が相槌を打った。


梓と九段の姿がこの世界から消えたのと同時に、八葉たちの身体から宝珠が抜けた。八つの宝珠が集まり、それが一つになって元の龍の宝玉の姿に戻った瞬間、宝玉は目映い光を発したかと思うと、皆が見ている目の前で一瞬にしてその姿を消した。
九段が言った通り、宝玉は自ら星の一族の元へと還ったのだろう。恐らく、京都の萩尾の邸に――。
役目を終えて元の世界に帰る黒龍の神子と彼女と共に旅立った星の一族兼天の玄武、そしてこちらもまた役目を終えた龍の宝玉を残された八葉全員で見送り、皆の間にはそこはかとなく寂寥感が漂っていた。


少し離れた場所で彼らの声を聞きながら、村雨は二人の姿が消えた空間をじっと見つめていた。
果たして彼らが着いた先は、いつの時点の、どの場所なのだろうか。この世界に梓と自分が召喚された、あの時点に戻ったのであれば良い、と村雨は思う。その場合、こちらの世界に残った村雨と九段が入れ替わったことになるのだ。
やはり、彼と自分との間には、龍神が結んだであろう、切っても切れない絆が存在するのだろう。村雨が京都を後にした時一度切れかかった縁が、数年の時を経て帝都で再び結ばれたのも、その所為だったのかもしれない。
実は、礼金と共に処女作が掲載された『文藝睡蓮』と名刺を送った時、九段が訪ねて来る可能性は低いと考えていたのだ。九段から「星の一族は京都の家を離れないものだ」と聞いていたし、新幹線のないこの時代、東京と京都の間を移動するのはお金も時間もかかり、現代で言うなら海外旅行に行くよりも遥かに大事だったからだ。だから、世話になった相手に、一応帝都に落ち着いたことを知らせておくべきだと考えたから送ったに過ぎなかった。
それにもかかわらず彼との再会が実現したことを考えると、先程九段が話していた、「村雨が萩尾の邸の庭に迷い込んだのは黒龍の意思である」という説も、真実だったのかもしれないと思えた。


一人考え事に沈んでいると、こちらに近付く足音が耳に入った。靴音からそれが誰なのか推測できたため、村雨がそちらを振り返ることはなかった。

「さすがの君も、少し淋しそうに見えるね」

隣に並んで立つと、村雨が見つめる先に視線を向け、相手はそう声を掛けて来た。
村雨が推測した通り、声を掛けて来たのは鬼の首領、その人だ。

「ま、いつも振り回されていた相手がいなくなったんだ。『淋しい』と言えるかもしれんな」

――静かになっていいがね。
村雨がそう付け加えると、ダリウスは小さく笑った。普段から斜に構えた男が素直に「淋しい」と認めるのかと思ったら、珍しく強がりとも取れる言葉を口にしたからだ。

「ふうん。――ところで、それって、梓のこと? それとも、星の一族殿のことかな?」
「……両方…だな……。だが、どちらかと言えば九段の方だ。高塚とは振り回されて来た時間の長さが違う」

ダリウスの問いは、明らかにからかいが含まれたものだった。それを感じ取り、僅かに顔を顰めながら、村雨はそう答えた。
すると、鬼の首領はくすりと笑いを漏らしながら、「本当に仲が良いね」と呟いた。
その言葉に村雨の眉がぴくりと動くのを見て、ダリウスはくすくすと笑った。

星の一族である九段と旧知の仲であることを、かつて村雨は「京都にいた頃、九段の邸で世話になったことがあり、彼は自分の恩人だ」と話していたが、他人に打ち解けることが少なく孤高を保っているような部分がある村雨が、梓や九段のようなかなり年下の相手に対して何故か面倒見が良いことを、ダリウスは意外だと感じていたのだ。村雨自身は不憫なガキには優しい性分なのだと言っていたが、それだけが理由ではないように思えた。
(結局は、龍神のお導きってところなのかな……)
こうして、自分たち鬼の一族が、敵であったはずの帝国軍の将校たちと協力し合うことになったことも。
今日から帝都の復興に尽力しなければならないが、その際も軍の良心である有馬や秋兵と共に働くことになるだろう。
革命が成った後のことは、参謀本部でのデモ以来協力関係にある村雨たち「結実なき花」とも大筋の方向性を共有してはいるが、有馬たちと協力し合うのならば、少し計画を変更する必要があるかもしれない。
束の間の黙考の後、ダリウスは黙り込んでしまった村雨に、恐らく他の皆も気にしているであろうことを訊ねることにした。

「彼と何を話していたのか、訊いても良いかな?」
「別に……。大したことじゃない。これからのことだ」

ダリウスの問いに、村雨はぶっきらぼうにそう返す。
先程九段と話した内容は、誰にも話す気はなかった。特に村雨自身の出自に関しては、これまで通り秘匿するつもりである。
千代のことは皆に話していいのかどうか九段に確認しなかったが、自分の口からは話さない方が良いだろうと村雨は判断した。万一、千代の実家に知れたら、「白龍の手引きで好きな男と異世界に駆け落ちした」と思われかねないと考えたからだ。ここは、九段が皆に説明していた通り、「この世界から姿を消したが安寧で生きている」と言うだけにとどめておいた方が良いだろう。

「星の一族殿が予知した帝都の未来は、普段無愛想な君が大笑いするようなものなのかい?」

ダリウスが面白そうに笑いながら、続けて質問を投げかけて来た。
千代からの手紙を見せられた時のことを言われたのだと悟ったが、思わぬ問いに、一瞬言葉に詰まる。

「……笑ったのは、帝都の未来のことじゃない。だが、お宅らには内緒だ。九段の許可を得ていないからな」
「おや。二人だけの秘密かい?」
「……ダリウス…。そんな言い方するな」

やっぱり仲が良いじゃないか、とダリウスが言うと、村雨は今度は明らかに嫌そうな表情を浮かべた。
だが、それは一瞬のことで、直ぐに不機嫌な表情を崩してフッと笑うと、禍津迦具土神の姿が霧散したのを確認した後したように、帽子のつばを上げて眩しそうに空を見上げた。
こうして見上げた空は、向こうの世界の空と変わらない。この空が向こうの世界と繋がっていて、空に浮かんだ雲が流れ行く先は、あの世界なのではないかと錯覚するほどだ。
そんな然もないことを考えながら、村雨は続けた。

「……九段は、『また逢えるような気がする』と言っていたよ。――もっとも、『一族の力は失くしたから、予知ではなく、ただの勘だ』とも言っていたがね」
「へえ……」

村雨の言葉に驚いたのか、ダリウスが珍しく目を瞠っている。

「力を失くしたとはいえ、先見の力を持っていた星の一族殿が感じたことだ。もしかしたら、本当にまたいつか逢えるかもしれないね」
「ああ…。実は俺もそう思ってる」

空間移動の力は鬼の一族特有の力だが、鬼の一族に先見の力を持つ者はいない。それに対し、古来より占術や予知に長けているのが星の一族の特徴だ。だから、九段がそう感じたのであれば、きっと何かあるはず――。彼の一族とは遥か昔から対立して来た鬼の一族の首領も、村雨と同じ感想を抱いたようだ。

「じゃあ、二人と再会する時までに、我々の力で帝都の復興と世直しを進めておかないといけないね。彼らに胸を張って報告できるように」
「――その件だが、少し計画を変更しても良いか?」

村雨の言葉を聞いて、ダリウスは「おや?」という表情浮かべた。

「もちろん、このまま有馬たちと協力するなら、少し変更する必要があると、俺も考えていたけれど?」

村雨たち「結実なき花」の面々は、強兵師団の実態を暴き、それを民衆に知らしめた後、軍中心の政治を変革させ、民中心の社会を実現するため、村雨を代表とする政党を結成し、本格的に政治の世界に乗り出す予定だった。ダリウスたち鬼の一族も、彼らの政治活動を陰から支援することにより、鬼の一族が共生できる社会の実現を目指すことで一致していたのだ。
今回、軍の陰謀が明らかになったことで、軍の上層部は責任を問われ失脚するであろうが、帝国軍という組織が消滅するわけではない。組織を立て直すところから再び始めることになるだろう。帝都の防衛組織を立て直す際には、帝国軍人であり帝都を滅亡の危機から救った功労者でもある有馬と秋兵の力が不可欠だ。彼らと協力関係を築くことで、ダリウスや村雨が推進しようとしている世直しも、進めやすくなるに違いない。
そう考えたダリウスだったが、村雨の言う“計画の変更”は、ダリウスが想像していたものとは全く違う種類のものだった。

「『結実党』の結成準備のため、執筆活動は無期限休止とする予定だったんだが――」

そう切り出した村雨は、一旦言葉を切ってダリウスの顔を見た。
帝都の復興に協力しながら政党を作るには、かなりの労力を要する。結党後も本格的に政治に身を投じるなら、小説家としての活動は休止せざるを得ないのだ。身体は一つしかないのだから、そう何足も草鞋を履くことは出来ない。
だから、村雨は筆を折る覚悟で「結実党」の結成を決めたのである。
しかし、今日、政治家として活動し始める前に、どうしてもやっておきたいと思うことが出来てしまった。

「――小説家・里谷村雨として、執筆活動を休止する前に書いておきたい作品があるんだ。無論、結党準備に差し支えないよう、なるべく空いた時間を使うつもりだが――。それでもやはり、筆が乗っている時は執筆を優先させたい。今回の作品は、長い物語になりそうだからな」

真剣な面持ちで村雨がそう話すのを聞いて、ダリウスはこれまで短編中心に書いて来た小説家・里谷村雨の初の長編小説の内容に興味を引かれたようだ。

「へえ、どんな話か訊いても良いかな?」

村雨はダリウスに向けていた視線を再び空に向けた。
流れ行く雲の行く先に思いを馳せ、つい先程旅立ったばかりの初心な恋人たちのことを想う。
暫しの沈黙を経て、村雨はダリウスの問いに答えた。


「――帝都を救った二人の龍神の神子と、彼女たちに仕えた星の一族の話、だ――」


作品が出来上がるまで誰にも話さないつもりだったのに、何故か訊かれるがままに、鬼の首領に初の長編小説の構想を明かしてしまった。これまで、自身の出自がばれぬよう、他人とは意図的に一歩距離を置いて来たのだが、デモ以来、鬼の一族と共闘するうちに、仲間意識が生まれていたのかもしれない。
それだけではなく、今回の経験で、同じ八葉として――という思いも芽生えているのかもしれないと村雨は思う。ならば、有馬や秋兵に対してもきっと同じだろう。彼らとの間に感じる絆は、やはり「結実なき花」の仲間たちに感じるものとは少し種類が違うと思うのだ。
――まったく、自分らしくもない。
そう思うのに、何故か嫌な気はしない。それどころか、今まで感じたことのないような温かなものが、胸の内に生じているのを感じる。ちょうど、さっき九段との間に感じたのと同じものだ。

(龍神が結んだ絆――と言ったところか……)

空を見上げる村雨の顔には、いつの間にか穏やかな笑みが浮かんでいた。
それを隣で見たダリウスが、大きく目を瞠った後、微笑みを浮かべた。

「それは、良い案だね。完成したら、俺も読んでみたいな」

ダリウスは村雨の作品については代表作をいくつか読んだことがある程度で、秋兵のように全作品を追いかけている愛読者というわけではない。しかし、村雨の最後の作になるかもしれないこの作品は、是非読んでみたいと心から思った。

「元々は、意外と図々しい星の一族殿の発案なんだよ。怨霊退治に付き合っていた頃、『何か良い小説のネタはないか』と訊ねてみたら、九段の奴、『我と神子二人の話にすればいい』、なんて言いやがった。その時は、『訊く相手を間違えた』と思ったんだがな」

どこかつっけんどんな態度で村雨が言うと、ダリウスは小さな笑い声を漏らした。
「九段の相手をしていると調子が狂う」とは、村雨が以前口にした言葉だが、結局この二人は仲が良いのだと思ったからだ。

「だけど、今は君自身が『どうしても書いておきたい』と思っているわけだろう?」
「まあ、な。……だが、一連の出来事は、誰かが記録を残しておく必要があるだろう? そして、九段が去った今、それはきっと俺の役目だ」

覚悟を決めたような、きっぱりとした口調で、村雨が言う。
本来であれば、龍神の神子召喚の顛末は、星の一族が記録し、後世に伝えて行くべきなのだろう。実際、萩尾の邸の書庫には、歴代の星の一族が記した神子召喚の記録があった。かつて、九段に書庫を案内してもらったことがある村雨は、実物を見たことがあるのだ。
しかし、本来その役目を担うべき九段が時空を越えた今、真実を知る誰かがその顛末を記録しておくべきだと村雨は考えたのだ。そして、九段の代わりにその役目を担うのは、自分が最も相応しいと思う。
元・新聞記者、そして文筆家として、という意味だけではなく、村雨は違う世界から来た余所者の目で、この世界をずっと客観的に見て来た。それだけではなく、帝国軍と鬼の一族、いずれの勢力にも属さない第三者の立場で、帝都が抱える問題を見て来たのだ。中立の立場であった自分だからこそ書くことが出来る――そう、村雨は考えている。

「俺が書くと、真実を書いても幻想小説だと受け取られかねんが、それでもいいさ」
「フフ、そもそも幻想のような出来事だったからね」

ダリウスの言葉に、村雨は「そうだな」と短く相槌を打った。
昨夜、凌雲閣に身体を巻き付けた禍津迦具土神の姿を見た者たちも、明るい空の下、上部が崩壊した凌雲閣を見て初めて、昨夜の出来事が夢ではなかったのだと悟るのだろう。ここ二、三年の間に怨霊の出現にすっかり慣れた帝都の市民でさえ現実と捉えられないくらいに、昨夜の出来事は御伽のような出来事だったのだ。

「ついては、お宅ら、鬼の一族にも取材させてもらいたい。特に、凌雲閣の地下で起きたことは、俺はこの目で見ていないんでな」
「いいよ。コハクと虎との契約はこれで切れる予定だったんだけど、それが済むまで契約を延長してもらうようにしようか?」
「頼む」

いつになく神妙な面持ちで頷く村雨を見て、ダリウスは軽く目を瞠った後、笑みを浮かべた。

「なに、俺も君の作品の完成を待ち侘びる読者の一人だからね。お安いご用だよ。その代わりと言っては何だけど、完成したら一番に読ませて欲しいな」
「……随分と調子が良いな」

苦笑を浮かべながら、村雨は応じた。

「だが、今回はお宅の厚意を有り難く受け取っておくよ」
「まあ、君がそれ程までに意気込んでいる作品だ。――願わくば、物語の主役の三人にも読んでもらいたいものだね」

話しながら、ダリウスが空を見上げた。それに釣られたように、村雨も空に目を向ける。
自分が先程そうしたように、この鬼の首領も空の向こうに異世界に旅立った者たちの姿を見ているのだろうか。

迷い込んだこの世界で生きて行くために書き始めた初めての小説は、生まれ育った世界での経験を幻想に仕立てて作品として纏めてみたものだった。その時、たとえ幻想に置き換えてみたところで、元の世界での仄暗い過去を消すことはできないと自覚した。無論、過去を消すために小説を書いたわけではない。どちらかと言えば、いつまでも忘れないために、自戒の意味を込めて書いたのだ。村雨の作品の内、自らの経験を基にした小説は、そういうものが多かった。
だが、今回の作品はそうではない。
別の世界から召喚されたにもかかわらず、縁もゆかりもなかったこの世界のために力を尽くした黒龍の神子と、自らを犠牲にして帝都を救うために祈りを捧げた白龍の神子。そして、彼女たちを支えて来た、村雨の友人でもある星の一族の青年――。
村雨がこの物語を書くのは、この世界を去った三人が中心となり、帝国軍人と鬼の一族が協力し合って帝都の平和を取り戻したことを、民衆に広く伝えるため、そして、大正の世の帝都に降臨した龍神の神子の伝説を、後世に伝えて行くためだ。

そして、もし、叶うのであれば、あの世界に生きる三人に、完成した作品を読んでもらいたいと思う。



「――ああ。俺も、そう思う……」



眩しい光に包まれた空を見上げながら、村雨は静かに呟いた。







〜了〜


あ と が き
「遙か6」の玄武組は年が離れているにもかかわらず仲が良く、また出逢いの設定が興味深かったので、ゲームをプレイしていた頃からこの二人を、できれば村雨視点で創作として書いてみたいと考えていました。読んでお分かりの通り、この話は九段ルートの最終日、九段さんが梓と共に異世界へ旅立つ直前の玄武組の会話となっております。もし、村雨さんが異世界人であることを九段さんが知っていたら――という、IF話でもありますが、ゲームプレイ時から、私は何となくですが、九段さんは知っていたんじゃないかという印象を持っていました。但し、根拠は全くないので、本当に九段好きによる単なる妄想に過ぎません(笑)。
実は、元々この話で書きたかったのは、IF話の部分よりも、九段さんが千代からの手紙を村雨さんに見せた後の部分だったりします。うちの九段ED後の創作では、九段さんは梓の祖父母宅に居候している設定になっているのですが、彼の性格的に千代と進さんに世話を掛けるのを良しとしないと思ったので、現代のことを知っている上、自分自身も時空を越えるという経験をしている村雨さんに、先達の力を借りるのは悪いことではないと背中を押してあげて欲しかったのでした。村雨さんはいつも九段さんの天然かつ純粋で真っ直ぐな言動に振り回されていますが、辟易していながらも邪険に扱うことなく彼と付き合って来たのは、彼が命の恩人だからというだけではなく、特別な役目を担う家に生まれた所為で、子供の頃から果たすべき使命に縛られ自由に生きることが出来ない九段さんのことを、梓と同様「不憫なガキ」と思っていたからなんじゃないかと私は考えています。少年の頃の九段さんを知っている分、千代に次いで彼のことを理解しているでしょうし、村雨さん自身が優しい人なので、別れの時に九段さんを励ます言葉を掛けてくれたんじゃないかなと思いながら、この話を書きました。
村雨さんは自分のルートで梓にプロポーズするために小説を書いていましたが、九段さんが梓と共に現代に行ってしまった場合、帝都を救った龍神の神子のことをノンフィクションとして書くんじゃないかなと思ったので(元・新聞記者だし)、エピローグを追加しました。探索の時の会話で九段さんが言っていた台詞からヒントを得たんだろうなと思ったりしています。その決意を語るべき相手に、村雨さんならダリウスを選びそうだと思ったので、お館様にも登場して頂きました。こういう立ち位置のダリウスが好きなんです。
九段さんが昔村雨さんに言ったという言葉は、玄武組の過去話に出て来る予定です。6の玄武組の関係は面白いと思うし、二人とも大好きなので、また書いてみたいと思います。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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