伝えたい想い
「えっ!? 九段さんが!?」


祖母からの知らせに驚き、梓は携帯電話を手にしたまま息を呑んだ。
一瞬、頭が真っ白になり、今自分がいる場所が学校であることを忘れ、思わず大きな声を上げてしまった。そのため、教室内にいた級友たちの視線を浴びることになってしまったが、暫くの間その視線にすら気付かなかった。

この時梓の心を占めていたのは、ただ、恋人を心配する思いだけだったのだ。





◇ ◇ ◇





『お昼休みに電話を頂戴』

携帯電話に用件だけを伝える短いメールが祖母・千代から届いたのは、昼休み前の授業中のことだった。
授業中は携帯電話の電源を切っているため、梓がそのメールに気付いたのは、午前中の授業が終わり昼休みに入った直後のことだったが、何やら胸騒ぎがして、昼食を摂らず直ぐに祖母に電話を掛けることにした。授業中に祖母がメールを寄越したことなど今までなかったことだったから、きっと緊急の用――そして、それは十中八九、祖父母と共に暮らす恋人に関することだろうと考えたからだった。
梓からの電話を待ち侘びていたのか、呼び出し音が鳴ると同時に電話に出た祖母が口にしたのは、梓が推測した通り、九段に関することだった。
しかも、悪い予感までもが的中していた。
祖母からの知らせは、九段が体調を崩して寝込んでいるというものだったのだ。





「それで、九段さんの容態は!? 大丈夫なの!?」

同級生たちから注目されていることに漸く気付いた梓は、彼女たちの視線から逃れるように背を向けると、声を落として千代に訊ねた。いつになく早口で詰問するような口調になってしまったのは、九段が体調を崩したのがこの世界に来て初めてのことだったからだ。
九段の幼馴染である千代によると、彼は子供の頃から至って健康で、風邪を引くことすら稀であったらしい。

『私が寝込んだ時、九段は必ず見舞いに来てくれたから、お返しに九段が体調を崩した時には私がお見舞いに行こうってずっと思っていたのに、全くその機会がなかったのよ』

いつだったか、千代がそう言って笑っていたことを思い出す。
今まで病気らしい病気に罹ったことのない彼が病を得たのだとしたら、通常より重症化しているかもしれない――。
そんな悪い予感に背筋がぞくりとする。


梓の声音から、電話の向こうにいながらにして孫娘の恋人を心配する気持ちを感じ取ったのか、千代は梓を安心させるように穏やかな口調で九段の容態を伝えた。

「熱は高いけれど、さっきお医者様に診て頂いたから……。今はお薬を飲んで眠っているわ。――インフルエンザだそうよ」
「インフルエンザ!?」
「ええ。……多分、図書館で感染したんじゃないかしらね」

千代の推測に、梓も同意する。図書館は人が集まる場所だ。まだ発症していない感染者がそうとは知らずに出入りしていてもおかしくない。そして、九段は三日にあげず通っていたから、図書館で感染した可能性が高いだろう。

(先週末は家デートだったし、潜伏期間とか考えたら、やっぱり図書館だよね……)

梓が考えを巡らしていると、電話の向こうで千代が「はぁ」と溜息を吐くのが聞こえた。

「だから、『予防接種を受けなさい』って言ったのに……。九段ったら、幾つになっても子供っぽいところが抜けないんだから……」

言うことを聞かない子供にほとほと困り果てた母親のように、千代が言う。
生まれつき肺が弱い千代は、インフルエンザに感染しても軽症で済むよう、毎年冬になる前に、進之助と一緒に掛かりつけの病院で予防接種を受けている。今年はこちらの世界で初めての冬を迎える九段にも勧めたのだが、九段は「注射は嫌いだ」と、断固として拒否したらしい。

(九段さん…、人参だけじゃなく注射も嫌いなんだ……)

「年上なのに子供っぽいところがある」とは、かつて千代が梓に話した幼馴染に対する評価であるが、嫌いなものに対する態度に特にその傾向が強く表れるようだ。しかし、彼が偶に見せる子供っぽいところも「可愛い」と思ってしまうのは、やはり惚れた弱みというものなのだろうか。もちろん、彼が予防接種を拒否した理由は注射が嫌いだからというだけでなく、これまで病気らしい病気に罹ったことがない健康な自分の身体に、絶対的な自信があったからだろうが――。

「分かった。授業が終わったら、すぐにおばあちゃんちに行くね。九段さんの病状も気になるし……」

お見舞いに何か食べやすそうな物でも買って行こうかと考えながら梓がそう告げると、千代は少し言い難そうに切り出した。

「実はね…。九段から梓に伝言を頼まれているのよ」

その言葉に驚きながらも、梓は授業中にメールを寄越してまで千代が急ぎ伝えようとしていた用件が実のところこちらが主だったのだと察した。

「九段さんからの伝言って、何? 何か食べたい物があるなら買って行くけど……」

熱があるなら然しもの九段も食欲がないだろうし、食べられる物も限られるであろうが、食いしん坊な彼が最も喜ぶのはやはり食べ物――特に甘味なので、リクエストがあるなら応えたいと思ったのだ。
ところが、千代から返って来たのは、梓が予期していなかった言葉だった。

「そうじゃなくてね、『完治するまで家に来ないでくれ』――ですって」
「ええっ!? どうしてそんなこと……!」

梓は驚いて声を上げた。再び同級生たちの注目を浴びることになったが、もはや気に留めなかった。
九段が体調を崩して寝込んでいるのであれば、看病するのは当然恋人である自分の役目だと、梓は思っている。――というより、彼を看病する役目を他の誰にも譲りたくはないのだ。たとえそれが、彼の幼馴染である、梓が大好きな祖母であっても――。
それに、自分のためによく見舞いに来てくれた九段のために千代がそうしたいと考えたのと同じように、梓も自分の世界を捨ててこの世界に来てくれた彼のために何かしたいと、ずっと考えていた。こうしている間にも高熱に苦しんでいるであろう九段には悪いが、梓にとってはその願いを叶える絶好の機会なのである。
しかし、梓の気持ちなどお見通しの祖母は、諭すように梓に告げた。

「九段は梓に移したくないのよ。分かるでしょ?」

言われてみれば、九段が最も口にしそうな言葉である。いつも自分のことより他人のことに一生懸命な彼のことだから、自分の身体よりも梓に移してしまうことの方が心配なのだろう。
そんな梓の推測は、続く千代の言葉によって裏付けられることになった。

「――実は私も、『二階には絶対に来るな』と言われているの。仕方がないから、様子を見に行ったりするのはおじいちゃんに任せているのだけど……。朝から本当に大変だったのよ。九段はあれで頑なところがあるから……。終いには、部屋の入り口に結界を張られてしまってね。追い出されてしまったわ」
「結界っ!?」
「ええ。九段曰く、『龍神の神子――つまり、梓と私――を弾く結界』だそうよ。具合が悪いのに力を使ったりしたら身体に障るでしょうから、『二階には絶対行かない』と約束して、なんとか解除させたのだけど……」

再び声を上げた梓に、千代がそう説明する。
邪神の鱗を頭から外す際に星の一族の力を失くした九段だが、陰陽術師としての力を失くしたわけではないらしい。梓と千代を危険から守るために作ってくれた清めの造花をあしらった腕輪のように、星の一族の力を絡めたまじないは、今では使えないようだが。
しかしながら、こちらの世界に来て以来、少なくとも梓が知る限り、九段が力を行使することはなかった。かつて本人が言っていた通り、神子を守るために手に入れた力であったからだろう。この世界では、彼が術を行使しなくてはならないような危険な場面に梓と千代が出くわすことなど、殆どないと言って良い。

(それにしても、体調が悪いのに力を使うなんて……。相変わらず人のことばかり心配して、自分のことは無頓着なんだから……)

梓が呆れたように溜息を吐くのと同時に、千代もまた疲れたように溜息を吐いた。
恐らく千代も自分と同じ考えなのだろうと考えていると、案の定、千代はそれを肯定する言葉を発した。

「昔から身体が弱い私のことを心配してくれているのは分かるけど、自分が倒れたら梓や私が心配するっていうことには思い至らないのかしらね。本当に、肝心なところで鈍いんだから……」

「馬鹿よね、本当に」――と、幼馴染に対して千代は容赦ない。
千代の言葉を聞いて、梓は思わず笑いを漏らしていた。普通なら恋人を貶されていると取るところであろうが、千代のその言葉には、珍しく病に倒れた幼馴染を心配する気持ちが見え隠れしていたからだ。

(本当は九段さんのことが心配なくせに……。おばあちゃんったら、素直じゃないんだから……)

梓が異世界で友人になった対の存在の面影を祖母に見るのは、こんな時だ。少し意地っ張りで照れ屋なところは、今も変わらないのだろう。
梓は笑みを収め、表情を改めると祖母に告げた。

「おばあちゃん。私、やっぱり帰りに寄るよ」
「梓……」
「『来るな』って言われても、やっぱり九段さんのことが心配だもの。それに、インフルエンザなら、私も予防接種を受けているから大丈夫だと思うし……。第一、毎日会っていたんだもの。移るのなら、とっくに移ってるよ」

梓は視線を窓の外に向けた。無意識に祖父母の家が在る方角に目が向く。
薬を飲んで安静にしているという話だが、自分が行く頃、九段の熱は少しは下がっているのだろうか。
病床にある恋人の姿を思い描いたその時、帝都で過ごした最後の夜、身体に異常を来たして床に倒れ込んだ九段の姿が脳裏を過ぎった。
あの時は、黒龍の力のおかげで九段の頭痛は治まったけれど、黒龍の力が病に効くわけではないだろうし、そもそも神子の務めを終えた今、梓には何の力もない。体調を崩した恋人のために今できることと言えば、傍にいて看病することだけだ。
梓は胸に当てた手をぎゅっと握り締めた。そして、宣言するように千代に告げる。

「わざわざおばあちゃんに伝言を頼んでまで私のことを気遣ってくれた九段さんの気持ちを無視することになってしまうけれど、後でなんて言われてもいい。私が会いたいんだから……」

口にしてみて、改めて彼に会いたい気持ちが大きくなっていることに気付く。たとえ彼と祖母の言いつけに背くことになっても、ただ顔を見たかったのだ。
てっきり反対されると思っていた梓だったが、意外なことに電話の向こうから聞こえてきたのはフフフという、どこか嬉しそうな祖母の笑い声だった。

「おばあちゃん?」
「あなたならそう言うと思っていたわ、梓。思い通りにならなくて、九段には悪いけど……」

訝しげに問いかけた孫娘に、千代はそう言いながら、楽しそうにクスリと笑う。梓が九段の言いなりにならなかったことが、何故か愉快らしい。
心配していながら時折意地悪な態度を見せる、仲の良い幼馴染に対する千代の接し方は、いつもながら少し屈折していた。

「もう、おばあちゃんったら……」

時空を越え、互いの年齢が大幅に逆転してしまった現在も全く変わらない祖母と恋人の関係に、梓は思わず苦笑を漏らした。
漸く梓が笑ったことに安心したのか、千代も笑い声を上げる。


二人して一頻り笑った後、千代が梓に言った。

「――それじゃ、待っているわ、梓。気を付けていらっしゃい」
「うん、分かった」

通話を切った後、梓は窓の外に広がる空に目を遣った。
今日は生憎、雪でも降りそうな濃い灰色の雲が空一面を覆っている。まるで、いつも元気な恋人の急病の知らせを受けて、すっかり曇ってしまった自分の心の内を映しているかのような曇天だと梓は思う。きっと、午後の授業は身が入らないに違いない。
浮かない顔で、ふう、と溜息を吐いた時、ある考えが閃いた。
それは、お見舞いに食べ物を買って行く代わりに、九段がいつでも食べられるよう、アイスクリンを作っておくことだった。

(そうだ。アイスクリンなら喉越しも良いし、熱があっても食べられるかもしれない……)

アイスクリンが大好物な九段のことだ。さすがに今日は食欲がないかもしれないが、熱が下がって快復に向かい始めたら、きっと喜んで食べてくれることだろう。
祖父母の家で初めて九段のためにアイスクリンを作った時、嬉しそうに食べていた彼の顔を思い出して、梓の顔は自然と綻んだ。
生憎明日も学校があるので泊まることはできないが、祖父母の了承が得られれば、帰る時間をいつもより遅らせることは可能だろう。そうすれば、アイスクリンを作る時間を確保できそうだ。どうせ仕事が忙しい両親の帰宅は遅いのだから、いつもより多少帰宅時間が遅くなったところで問題あるまい。

(学校が終わったら、直ぐにおじいちゃんとおばあちゃんの家に行こう)

そう決意すると、梓は携帯電話を鞄の中に片付け、昼食を摂ることにした。





◇ ◇ ◇





午後の授業が終わると、梓は友人たちへの挨拶もそこそこに、祖父母の家へと向かった。
学校と祖父母の家は然程離れてはないが、それでも電車の中ではまだ着かないのかと気が急いたし、駅からの道も自然と早足になっていた。その所為か、いつもより早く祖父母宅に着くことができたようだ。


「お帰り、梓。早かったわね」
「ただいま、おばあちゃん。……九段さんの具合はどう?」

玄関先で千代に迎えられると、梓は階段の先に視線を遣りながら、まずそう訊ねた。薬が効いて、少しでも九段の熱が下がっていることを期待しての問い掛けだったのだが、千代から返って来た答えは梓が期待したものではなかった。

「さっきおじいちゃんが様子を見に行ってくれたんだけど、まだ熱は高いらしいわ」
「そう……」

忽ち梓の顔が曇る。
だが、直ぐに表情を戻すと、千代の目を見て言った。

「私、ちょっと様子を見て来る。――それと、後でキッチンを使わせてね」

そう言うと、千代が驚いたように目を瞠った。

「あら、何を作るの?」
「アイスクリンを作って、冷やしておこうと思って。九段さんがいつ目覚めても食べられるように……。あ、だから、今日は少し遅くまで居させてね。お母さんには『少し遅くなる』ってメールしておいたから……」
「まあ……」

梓の答えを聞いて、千代は微笑みを浮かべた。

「それは、きっと九段が喜ぶわ。材料なら買いに行かなくても家にあるから、使っていいわよ」
「ありがとう。じゃあ……」
「あ、梓。ちょっと待って!」

階段に向かおうとした梓を千代が呼び止めた。

「何?」

振り返った梓に千代が差し出したのは、マスクだった。
差し出された物を見て目を瞠った梓に、千代が告げる。

「これをしておきなさい。まだ眠っているそうだけど、万一九段が目を覚ましても、マスクをしていれば言い訳できるでしょ?」

千代の言葉を聞いて、梓はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
確かに、梓が部屋にいる間に九段が目を覚ましても、マスクをしていれば何とか言い逃れは出来そうだ。今日梓がこの家に来たことが、彼が千代に託した伝言に込めた思いに背く行為だったとしても、彼が最も心配しているであろう「梓に病気を移すこと」だけは、マスクをすることによって避けられると説明することが出来るから。
祖母の提案に「なるほど」と思った梓だったが、ふと気が付いた。

(それなら、おばあちゃんもマスクをすれば大丈夫なんじゃ……)

部屋に入れてもらえなかったという祖母も、きっと幼馴染のことを心配しているはず――。
そう思い、梓は祖母を誘ってみることにした。

「……じゃあ、おばあちゃんも一緒に来る?」

すると、今度は千代が驚いたように目を瞠った。梓の言葉が想定外だったのだろう。
しかしそれも一瞬のことで、千代はふう、と息を吐いた後、小さく首を横に振りながら、こう言った。

「私は遠慮しておくわ。マスクをしていても、また九段が騒ぎそうだから。――今朝、本当に大変だったのよ」

言いながら悪戯っぽく笑う祖母は、帝都で親友になった、あの千代そのものだ。
そして、千代が付け足した言葉から、梓は千代がマスクを着けて九段の看病をしようとしたのだろうと推測した。だが、九段が拒否したのだろう。彼は生まれつき身体が弱い幼馴染のことを、誰よりも心配していたから。

(本当に、今でも私が嫉妬したくなるくらい仲が良いものね、九段さんとおばあちゃんは……)

そう言えば、祖父である進之助が似たようなことを話していたことがあった。
千代の実家である駒野の邸で書生として住み込んでいた進之助は、千代に一目惚れしたものの、隣家に住む九段を千代の恋人だと思い、千代への恋心を諦めようとしたらしい。それが勘違いだったことは直ぐに分かったのだが、ただの幼馴染だと知っても、仲が良すぎる二人の関係に嫉妬したことがあるのだという。

――でも、千代さんと萩尾様が昔のように仲良く話しているのを見るのが、なんだか嬉しいんだよ。

そう言って微笑んだ祖父と、梓も同じ気持ちだった。
当の千代と九段は、進之助や梓がそんな事を考えているとは想像だにしていないだろうが。

梓が考え事をしている間、今朝の騒ぎを思い出したのか一頻りクスクスと笑っていた千代が、漸く笑いを収めて言葉を継いだ。

「でも、梓なら大丈夫だと思うわ。梓に移したくないというのも本音でしょうけど、本当は梓に傍にいて欲しいと思っているはずよ。九段は今まで病気らしい病気をしたことがないから、きっと不安で心細いと感じているはずだもの」

千代は、幼馴染が口にすることがなかった胸の内を代弁するように言った。確信しているのか、その口調はきっぱりとしている。幼い頃からの長い付き合いがそうさせるのか、九段と千代は互いの考えを正確に汲み取ることに長けていた。こういうところはまだまだ千代には及ばないと、梓は感じている。

「もう、おばあちゃんったら……」

少し頬を赤らめながらそう言うと、梓は千代からマスクを受け取った。それを装着すると、「ちゃんと着けたよ」と言わんばかりに祖母に微笑みかけた後、再び階段に向かう。
トントントンと規則正しい足音を立てて階段を上って行く孫娘の背中を見送りながら、千代が呟いた。

「幸せ者ねぇ、九段は……」

かつて、一族の使命に殉じるあまり、自分の幸せを追うことのなかった幼馴染の将来を心配していた千代だが、今ではその必要は全くなくなった。こちらの世界で再会して以来、九段は本当に幸せそうなのだ。
それは言うまでもなく、梓のおかげだった。
帝都で共に暮らした頃、千代が早くそうなれば良いのにと望んだ通りに、恋人同士となった親友と幼馴染――。
二人の仲睦まじい姿を見るのが、現在、千代の一番の楽しみとなっている。

(本当に、梓が高校を卒業したら、婚約だけでも早く済ませてくれないものかしらねぇ)

進之助と千代が熱心に推していることもあり、息子夫婦も九段のことを気に入っているようだ。彼らも九段の人柄や二人の間に存在する強い絆を知っているし、千代が上手く根回ししているので、梓の高校卒業と同時に二人を婚約させても「まだ早すぎる」と文句を言われることはないだろうと思われた。
将来的に結婚するとなれば、梓の両親が唯一心配するであろう九段の収入についても、恐らく大丈夫だろうと千代は踏んでいる。九段は昨年から占い師として本格的に活動し始め、間もなくよく当たると評判になって、このところ仕事が増えてきているのだ。

――いつまでも進之助と千代の世話になるばかりではいけないからな。

そう言って、九段は収入の大部分を家に入れてくれるようになったが、最初のうちは少額だったそれが、占いを生業と定めて数か月も経たないうちに、一人分の下宿代としては十分過ぎる金額となっていた。
向こうの世界では、占術に長けると言われる星の一族の末裔でありながら、九段の占いは当たらないと噂されていたことを千代も知っていたから、彼がこちらの世界で占いを始めた時は、本音を言えば大丈夫なのだろうかと思ったものだった。しかし不思議な事に、一族の力を失くした現在の方が九段の占いはよく当たるらしく、今では常連客も付き始めているらしい。真摯に相談を受けるその態度だけでなく、良くない結果が出ても、必ず良い方向に導くための前向きなアドバイスをしてくれることも、良い評判に繋がっているのだという。
それに、占いに関してだけではなく、世間知らずで天然なその人柄も「可愛い」と騒がれ、特に若い女性に人気となっているのだと梓から教えられた。梓によると、彼独特の古風な話し方も、若者には新鮮に映るのか受けているらしい。梓の友人たちも九段のファンで、彼が占いを始めた頃から客となり、SNSを使って評判を広めたりしてくれていたようだ。
自分の恋人が人気者となっていることを喜びつつも、やはり梓は複雑な思いを抱いているようではあったが――。

(本当は、梓が高校を卒業したらすぐ結婚してくれると嬉しいのだけど……。一日も早く梓の花嫁姿を見たいものだわ)

梓は黒龍の神子として帝都に召喚される前、介護福祉について専門的に学ぶため大学へ進学することを希望していたが、今はどうなのだろうか。
梓と九段の結婚式に出席することと、二人の間に生まれた子を自らの手で抱くことは、千代にとって何としても叶えたい夢ではあるが、梓が何か夢を抱いているのであれば、それを諦めることなく叶えて欲しいとも思う。梓が大学に進学すれば、最短でも四年間、千代の夢の一つである二人の結婚式は先に延びるであろうが、これまでだって、梓が黒龍の神子に選ばれる日を長年待ち続けて来たのだ。これからも、夢が叶う日が来るのを楽しみに待てるだろう。

(曾孫の顔を見る日まで、長生きしなくちゃねぇ)

うふふと笑いながら、千代は進之助が待つ居間へと戻った。










「……九段さん…? 入りますよ?」


九段の部屋の前で小さくそう声を掛けた後、梓は音を立てないよう、そっと襖戸を開けた。

この六畳の和室は、梓の父親が子供の頃に使っていた部屋だと祖父母から聞いているが、今となってはその頃の面影は全くなく、現在の部屋の主の趣味に合わせて、純和風の調度が揃えられている。――とは言っても、着物を掛けるための衣桁とレトロな雰囲気の和箪笥と文机が部屋の隅に置かれている以外に調度と呼べる物はなく、殺風景な部屋と言っても良いくらいなのだが。
九段に会うため毎日のようにこの家を訪れてはいるが、大抵の場合祖父母がいる一階で過ごしていたので、この部屋に入ることは殆どなかった。それでも、彼がここで暮らし始めて半年以上経つのに物があまり増えていないことが、梓にも分かる。和風な調度に囲まれたこの和室の佇まいは、思いがけず二か月半の間過ごすことになったあの世界を懐かしく思い出させるもので、梓は好きだった。

梓は部屋の中に入ると、静かに襖戸を閉めた。
九段は室内の中央に調えられた床に横たわっていた。祖母から聞いた通り、眠っているようだ。
枕元には、今朝医者に処方された薬と水が入ったピッチャーとガラスコップを載せた盆、そしてその傍らには汗を拭うためのタオルと彼がこの世界に来た際連絡用にと買った携帯電話が置かれ、部屋の片隅では普段は祖父母が日中の大半の時間を過ごす居間に置かれている加湿器が白い蒸気を吐き出している。
それをちらりと見た後、梓は床に近付き、傍らに腰を下ろした。
眠っている恋人の顔を心配そうに覗き込む。
「まだ熱は高い」という千代の言葉の通り、九段の呼吸は荒く、乱れていた。眠っているにもかかわらず眉根を寄せたその表情は、如何にも苦しそうに見える。汗も酷く、くせっ毛の梓が密かに羨んでいるさらさらの髪が汗に濡れて、冷却シートを貼った額や頬に張り付いていた。
ふと、額から汗が流れ落ちようとしているのが目に入り、梓はタオルを手に取ると、それを拭った。額に浮いた汗や頬を濡らす汗も、起こさないよう気を付けながら、丁寧に拭き取る。
それが終わるとタオルを元の位置に戻し、再び九段の額に手を伸ばすと、額に張り付いていた前髪を指で梳き上げた。普段、さらさらとして手触りの良い細い髪が汗で濡れているのが分かる。

(本当に、酷い汗だ……。九段さんが目を覚ましたら、先に水分を摂ってもらわなきゃ。このままじゃ、脱水症状を起こしてしまいそうだし……。こういう時の水分補給って、やっぱりミネラルウォーターよりスポーツドリンクの方が良いのかな? 確か、近所に置いてある自動販売機にスポーツドリンクが入っていたはずだけど……)

アイスクリンが凍り始めるのを待つ間にスポーツドリンクを買いに行こうと考えながら、半ば無意識に九段の髪を梳いていると、「ん……」という微かな声が梓の耳に届いた。ほぼ同時に髪を梳いていた手を止める。
起こしてしまったのだろうかと思い、顔を覗き込んでみるが、九段が目を覚ました様子はない。ただ、眠っている彼の表情が先程より少し和らいだ気がして、梓は驚いた。

(……九段さん?)

呼吸はまだ乱れているし、熱に浮かされて苦しそうな表情は変わらないのに、そんな表情の中に一瞬微かに笑みが浮かんだように見えたのだ。

――もしかして、前髪を梳かれるのが心地良かったのだろうか――。

そう思って再び髪を梳き始めると、今度は九段が微笑みを浮かべたことがはっきりと見て取れた。


そして――…


「……あ……ず…さ……」


耳に届いた微かな呟きに、思わずドキリとする。
病の所為か、普段の彼の声とは違う、少し掠れた声は、梓の耳に艶かしく響いたのだ。

「……九段さん?」

小さな声で呼びかけてみるが、応えはなかった。

(……寝言……だったのかな?)

恋人にいつになく艶っぽい声で名を呼ばれ、俄かに頬が紅潮した。手を触れてみると、熱を帯びていることが分かる。
九段の純粋で飾らない真っ直ぐな言葉に赤面させられることは多いが、名前を呼ばれただけで頬が赤く染まったのは初めてだった。
でも、恥ずかしいけれど、なんだか嬉しい。

(一体、どんな夢を見ているんだろう……)

夢の中でも、自分はこの人に寄り添えているのだろうか。
名前を呼んでくれるほど、傍に……。

夢は、九段にとって、ある意味特別なものであると、梓は思っている。
星の一族の末裔として生まれつき先見の力を持っていた九段は、夢の中に未来に起きる出来事を見ていたのだという。帝都を救うため、梓と共に行動していた頃にも、よく未来の夢を見ると言っていた。
あの頃は帝都が滅亡の未来に向かっていた所為か、ほぼ良くない未来を暗示する夢だったようだが、彼が夢で見た未来を梓に語ることはなかった。恐らく余計な心配をかけまいと、自分の胸の内だけに仕舞い込んでいたのだろうが。
しかし、そんな彼の優しい心遣いを、梓は少し淋しいと感じていた。

――何故、未来を視る力を持っているというだけで、この人だけがこんな辛い思いをしなければならないのだろう。その辛さを一人で抱え込まず、私にも分けてくれればいいのに――。

心からそう思ったのだ。
そして、夢で予知した悪い未来を、一族の掟であるとは言え誰かに告げることもせず、一人抱え込んだまま、ただひたすら良い未来に変えるため努力していた九段のことを傍にいて支えたいと思った時、彼に強く惹かれている自分に気が付いた。彼への想いをもう誤魔化すことは出来ないと自覚したのは、それより少し後――九段から千代紙で作った花束を贈られた夜のことだったけれど。

あの、凌雲閣での出来事があって以降、先見の力を失くした九段が未来の夢を見ることはなくなったと聞いている。彼はどんなに悪い未来を視たとしても決して悲観することはせず、それを良い未来に変えるために常に前向きに努力する人だったけれど、梓としてはやはり大切な人に辛い思いをして欲しくないと考えていたので、先見の力を失くしたと九段から聞いた時、彼には悪いと思いつつ、実は少しほっとしてしまったのだ。これで九段が辛いを思いをせずに済むと考えたからである。

――これからは、この世界で二人で紡いで行く明るい未来だけを夢見て欲しい。

真剣にそう願っていたから、もし今、病床にある彼が見ている夢が明るく幸せな夢であるなら良いと思う。


九段の髪を梳きながら暫し物思いに耽っていた梓の口元は、いつの間にか綻んでいた。彼のことを想う時、いつも温かく優しい空気に包まれた心地がする。それは、いつも穏やかで誰に対しても優しい彼が纏う気のようだと梓は思う。
恋人の顔をふと見ると、柔らかな笑みを浮かべた後、また深く寝入ってしまったらしい。先程よりも、心なしか呼吸の乱れが小さくなったように感じる。

『梓に移したくないというのも本音でしょうけど、本当は梓に傍にいて欲しいと思っているはずよ。九段は今まで病気らしい病気をしたことがないから、きっと不安で心細いと感じているはずだもの』

千代が言っていた通り、自分が傍にいることで少しでも九段が安らげるのならば、もう少しだけ傍にいよう。
先にアイスクリンを作り始めた方が段取りが良いと分かってはいるのだが、もう少しの間だけ、こうしていたい――。

自らの思いを確認すると、梓はもう一度室内を見回した。
九段の様子を確認した後直ぐにアイスクリンを作り始めるつもりで畳の上に直接正座していたので、足が痛くなってきたのだ。もう暫くここにいるのなら、座布団が欲しいところだった。

(えっと……。座布団は、と……)

室内を見回すと、文机の前に一つだけ座布団が置いてあった。書き物をする時や本を読む時、九段が使っているものだろう。以前梓がこの部屋に入った時、同じ柄の座布団を使ったので他にもあるはずだが、普段は押入れにでも仕舞っているのか室内には見当たらなかった。

(勝手に押入れを開けるのも気が引けるし、九段さんのを借りるね)

眠る恋人に心の中だけでそう声を掛け、再び文机の前に置かれた座布団に目を遣った時、文机の上に置かれたままになっていた千代紙の束に気が付いた。梓が花のくす玉の作り方を教えて欲しいと九段に頼み、日曜日に使ったものの残りだった。

梓は吸い寄せられるように文机に近寄ると、座布団に膝を突き、千代紙に手を伸ばした。一番上の一枚を手に取り、指先で表面を撫でてみると、和紙独特のざらざらとした手触りを感じることができた。
帝都で九段が花のくす玉や六角箱や花束を作ってくれた時使っていたものに似た風合いのこの千代紙は、梓の依頼を快諾した九段が和雑貨を扱う店に自ら足を運び、買って来てくれたものだった。彼が洋紙の折り紙ではなく、わざわざ和紙で作られたこの千代紙を探して買って来てくれた理由を、梓は理解していた。
それは、多分、花のくす玉の作り方を教えて欲しいと乞うた時、梓が彼に語った理由を受けてのことだろう。

――せっかく作ってもらった折り紙を軍邸に置いたまま、こちらの世界に帰って来てしまったから……。それに、できれば自分でも作ってみたくて――。

梓は九段にそう説明したのだ。
まだ想い想われる関係になる以前のことではあったが、初めて九段がプレゼントしてくれたものだったので、あの時彼が作ってくれた折り紙を置いて来てしまったことを、梓はとても残念に思っていた。
可愛くて気に入っていた花のくす玉はもちろんだが、中でも梓が後悔していたのは、想いが通じ合っていることを互いに知るきっかけとなった、あの折り紙の花束を置いて来てしまったことだ。
その気持ちを正直に九段に告げると、

『折り紙など、梓が望むならいつでも、いくつでも作ってやるぞ』

と、少し照れたように微笑みながら言ってくれた。照れ臭そうでありながらどこか嬉しそうな笑みを浮かべた彼の頬が薄紅色に染まっているのを見て、梓も頬を染めて微笑み返したのだった。
結局、週末に二人で作る約束をして、互いに作ったものを交換することにしたのである。
九段に教えてもらいながら梓が作った花のくす玉は、室内の衣桁に取り付けられた帽子掛けに飾られていた。生まれて初めて作ったものだったので少し不格好な部分はあったが、彼は宝物を手にした子供のように嬉しそうに受け取ってくれた。「ぬしとお揃いだな」――と言いながら。
千代紙の手触りを楽しみながら、先週末の幸せだった時間を思い出していると、不意に千代の声が梓の耳に蘇った。

『私が寝込んだ時、九段は必ず見舞いに来てくれたから、お返しに九段が体調を崩した時には私がお見舞いに行こうってずっと思っていたのに、全くその機会がなかったのよ』

あの世界の京都に在った九段の実家の隣家に生まれ育った千代は、梓が知らない幼い頃の彼との思い出を共有している。それを羨む気持ちがないわけではないが、進之助と同様に梓自身も彼らにはいつまでも仲の良い幼馴染でいて欲しいという思いを抱いていた。
ただ、ひとつだけ、微笑ましく思いつつも千代が羨ましいと梓が考えている、幼馴染二人だけの幼い日の思い出があった。
それは、帝都で千代が話してくれた、千代と九段が親しい友人になるきっかけとなった出来事――幼い頃風邪を引いて寝込んだ千代を、九段が毎日のように折り鶴を届けて見舞ってくれたという話だ。折り鶴の羽の部分に九段が添えた短い見舞いの言葉に励まされ、千代は九段が見た未来よりも早く快復したのだと、九段からも聞いている。
千代が将来白龍の神子となる娘であることを知っていたと九段は言っていたが、彼は神子に仕える星の一族として千代を見舞ったのだろうか。

(ううん、きっと違う……)

軽く首を横に振りながら、その考えを梓は否定した。
もちろん、千代が神子となるべき娘であったことも理由の一つではあるだろう。彼は幼い頃から一族の使命を果たすことを第一と考えて生きて来た人だったから。
だが、恐らくそれだけではないと梓は思う。当時はまだ千代とはそれほど親しくなかったと聞いているが、九段は心優しい人だから、千代が病気で寝込む未来を夢に見て、隣家に住まう幼馴染として千代を心配し、見舞ったのだろう。直接部屋を訪ねるのではなく、黙って窓辺に折り鶴を置いていったのも、休んでいる千代を起こしたくないという気遣いからだったのだろうと梓は推測している。

(本当に、千代が羨ましくなってしまうな……)

自分には決して持ち得ない、幼い頃の彼との思い出だから。
多分、自分が寝込んでも、優しい彼は同じように心配し、見舞ってくれることだろう。それについては疑ってはいないけれど――…。

色とりどりの千代紙を見つめながら小さく溜息を吐いた瞬間、ふと閃いた。

(そうだ! この千代紙で鶴を折って、九段さんが早く快復するよう祈ろう)

九段が幼い日の千代にしたように、メッセージを添えて――…。
薬を飲んで眠っている九段は、梓がアイスクリンを作り終えて帰るまでに目覚める可能性は低いと思われた。だから、直接話すことが出来ないのならば、せめて自分がとても心配していることだけは伝えたいと思う。
「完治するまで家に来ないでくれ」と言った彼の意に反してここに来てしまったことを知られてしまうことになるが、それでも良いと思った。



ただ、この想いを伝えたい――。



梓は座布団の上に座り直すと、千代紙を一枚手に取り、鶴を折り始めた。
一折するたび、

――早く、九段さんの熱が下がりますように……。
――早く、九段さんが元気になりますように……。

そう祈りながら心を込めて鶴を形作っていく。


そして数羽の鶴を折り終えた後、梓は鞄の中からボールペンを取出し、折り鶴の羽の部分に一言ずつメッセージを書き添えた。
この折り鶴を見た九段が、かつて九段が見舞いに置いていった折り鶴を見て彼が見た未来よりも早く治癒したという千代のように、早く良くなってくれればいいと思う。


――想いの力が未来を変える――。


そのことを、誰よりも知っているから――…。



梓は出来上がった折り鶴を手に再び九段の傍に戻ると、枕元にそれを並べた。

(九段さん、喜んでくれるかな?)

梓が作った花のくす玉を手渡した時彼が浮かべた嬉しそうな笑みを思い出し、梓の顔も綻んだ。



「早く良くなってくださいね」



布団を掛け直し、もう一度眠る恋人の前髪を梳くと、梓は祈るように呟いた。







〜了〜


あ と が き
ゲームで千代が梓に語っていた九段さんと千代の幼い日の思い出話を、九段×梓で再現してみたくて作ったお話です。但し、この話で病床にあるのは梓ではなく九段さんです。九段さんは思った事を素直に口にするので、梓への想いも頻繁に口にしているイメージがあるのですが、逆に梓の方は意外と恥ずかしがり屋で、なかなか自分の想いを言葉にして伝えられないんじゃないか――そう思い、梓に普段あまり口にしない自らの想いを折り鶴に託して病床の九段さんに伝えてもらうことにしました。
書いている間に、梓サイドと九段サイドに分けた方が良さそうだと思い始めたので、こちらは梓サイドの話として書いています。なので、九段さんは最初から最後まで眠ったままです(笑)。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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