珈琲とアイスクリンと…
「いらっしゃいませ〜」


カランという軽やかなベルの音がした方に、長年の習慣からほぼ条件反射のようにそう声を掛けたマスターは、ドアを潜って店の中に入って来た客の顔を見て、「あら…?」という声を漏らし、少し驚いたような表情を浮かべた。
来訪者の名は萩尾九段――。マスターが切り盛りするこのカフェー「ハイカラヤ」に間借りしている小説家、里谷村雨の年若い友人である。

京都の実家を出て、この帝都・東京で帝国軍の相談役に就任した九段は、京都にいた頃からの知己である村雨に会うため、以前から一人でこの店に出入りしていた。
しかし、ここ最近は今までとは少々事情が異なっていたのだ。
怨霊が跋扈する帝都を救うため、星の一族として二人の龍神の神子を召喚した九段は、現在神子や帝国軍内に自らが組織した精鋭分隊と共に日々帝都を探索し、怨霊退治の任に当たっている。時折ではあるが、村雨が彼らの任務に協力していることもあり、最近は探索の休憩中に神子たちと共にこの店を訪れることが多かった。
マスターが驚きの表情を見せたのは、彼が久しぶりに一人でこの店に現れたからだった。星の一族は龍神の神子に仕える一族だと聞いていたから、神子召喚後は常に神子に付き従っているものと考えていたのである。


「九段ちゃん、今日は一人? 神子様たちと一緒じゃないの?」

いつものようにゆったりとした足取りでカウンターに歩み寄って来た九段にそう問い掛けると、彼は穏やかな笑みを浮かべ、頷いた。

「うむ。今日は神子二人には有馬と秋兵が同行している。隊長と副隊長が不在故、精鋭分隊の任務に滞りがないか、二人に代わり、屯所に寄って確認して来たところだ」
「あらあ。せっかくお役目がお休みの日なのに、軍のお仕事? 相談役ってのも大変ねぇ」
「いや、精鋭分隊は皆それぞれに優れた者達故、我はいつも助けられている」

そう話す九段は、にこにことした笑顔を向けて来た。その表情には、自らが選抜し組織した精鋭分隊隊員達への信頼が表れているようだ。特に隊長の有馬一と副隊長の片霧秋兵に対する九段の信頼度の高さは、神子や彼らと共にこの店を訪れた際にマスターもこの目で見て知っていた。
精悍な顔立ちの精鋭分隊隊長と、彼とは対照的に穏やかな好青年らしい優しげな風貌の副隊長の顔を思い浮かべた時、マスターはふと先日の出来事を思い出し、話題を変えた。

「ああ、そう言えば、九段ちゃん。この間は有難うね。村雨から聞いているわ。新メニュウ、九段ちゃんが中心になって考えてくれたんですって? おかげさまで、お客さんからも大好評なのよ」

先日、ハイカラヤの新メニュウの考案に頭を悩ませていたマスターと店員が、まさに新メニュウをお披露目する予定だった日、珈琲の飲み過ぎで胃を壊して病院に運ばれた。新メニュウを目当てに開店時間丁度に店を訪れた九段と有馬、そして秋兵がそれを知り、店に一人残っていた村雨を巻き込んで、四人でマスターと店員に代わり店を切り盛りした上、新メニュウまで考案したのである。もっとも、後に村雨から聞いた話によると、九段の言う通り本当に偶然出来上がったメニュウらしいのだが。
偶然の産物とは言え、彼らが考案した「冷やし珈琲・アイスクリン載せ」と「フルーツの盛り合わせ・アイスクリン添え」は、ハイカラヤの新たな名物として常連客から好評を博しているのだった。
マスターが礼を言うと、九段は嬉しそうに微笑みながら答えた。

「なんの。それに、あれは偶然できた産物であったしな。それより、あれ以来ハイカラヤでもアイスクリンをメニュウに加えてくれて、我の方こそマスターに礼を言わねばならないな」

新メニュウにはアイスクリンが欠かせないため、ハイカラヤでも以前は扱っていなかったアイスクリンを仕入れて常備している。そのため、アイスクリンをメニュウの一つとして扱うようになったのである。
甘味に目がない九段だが、中でもアイスクリンは大の好物だ。それがこの店のメニュウに加わり、九段が喜んだのは言うまでもなかった。

「今日のように蒸し暑い日には、アイスクリンやサイダーのような冷たい物が一番だ」

そう言葉を継いだ九段だが、何か閃いたかのような表情を浮かべたかと思うと、ポンと手を打ちながら独り言のように呟いた。

「……サイダー…? そうだ! 『サイダーのアイスクリン載せ』も良いかもしれぬ」

突然手を打った九段に何事かと思ったのだが、どうやら自らが発した言葉から新たなメニュウを思い付いたらしい。その味を想像しているのか、うっとりとした表情を浮かべた九段を、マスターは目を細めて見つめた。

――相変わらず不思議な子だわね――。

新たに思い浮かんだ甘味の味を想像して子供のように目を輝かせている様子は、とても軍の相談役という地位にある者には見えない。
名誉職のようなものとは言え、この年齢で帝国軍の相談役という役職に就き、あの片霧参謀総長を説得して帝国軍内に精鋭分隊を組織させたという行動力ある若者と、古より代々伝承を守り受け継いできた由緒ある家に生まれ育ったおっとりとした甘味好きのお坊ちゃんが、どうしても結びつかないのだ。
いつの間にかマスターは、九段が初めてこの店にやって来た時のことを思い出していた。





九段が初めてハイカラヤを訪れたのは、二年近く前のことだ。


『ここに、“里谷村雨”という者はいるだろうか? この、名刺の者だが……』


差し出された名刺を見るまでもなく、大事そうに抱えていた『文藝睡蓮』を見て直ぐに村雨の客だと分かったが、この客は今まで名刺を持参して村雨を訪ねて来た者達とは明らかに毛色の違う人物だと感じた。こういった店に立ち入ることが珍しい高貴な家柄の出身の者であることが、品のある立ち居振る舞いや如何にも上等そうな着物からも見て取れたからだ。
そのような身分の者が、村雨と一体どこで、どのように知り合ったのか――。
そもそも、村雨の知り合いにこのような年の離れた少年がいるというのも意外だった。マスターが知る限り、村雨の知人は仕事絡みの人間が多いこともあり、皆成人済みの大人ばかりだったのだ。
学生には見えなかったが、相手の素性を探るために敢えて「大学生か?」と訊ねてみると、なんと「帝国軍の相談役をしている」との答えが返って来たから驚いた。
慌てて村雨を呼びに行ったのだが、店に出て来た村雨が最初に口にした言葉を耳にして、更に度肝を抜かれてしまったのである。

『――星の一族殿?』

村雨は自分を訪ねて来た客人に、そう呼び掛けたのだ。
京都に恩人がいるということは村雨自身の口から聞いて知ってはいたのだが、まさかそれがかの有名な星の一族だったとは――…。
村雨の顔を見て、場違いな客人はぱっと花開くような笑顔を見せた。
「色白で綺麗な顔をした良家のお坊ちゃん」というのがマスターの九段に対する第一印象だったが、星の一族であると聞いて、「まさか」という驚きと「なるほど」と納得する、相反する思いが同時に湧き起こった。「まさか」は村雨の恩人がこの国の人間ならば誰もが知っているであろう星の一族だったことに対する驚きであり、「なるほど」はどこか浮世離れした風情を醸し出しているこの少年が星の一族の末裔であり、恐らくその出自故に帝国軍の相談役という彼の年齢を考えれば一見不相応と思えなくもない役職に就いているという事実に納得し、すんなりと受け入れる気持ちであった。
そして、親しそうに会話を始めた村雨と九段を時折視界の隅に入れて仕事をしながら、いつしか彼らの会話に聞き耳を立てていた。この年の離れた二人の関係に興味を引かれたからである。



(あれから、もうすぐ二年になるのねぇ……)

この二年の間、九段は時折村雨に会いにこの店にやって来ては、彼が淹れた珈琲を飲みながら世間話をしていくという、ごく普通の友人関係を続けている。
この様々な思惑を持った人間が集まる帝都に住んでいても、何物にも染まることなく純粋無垢なままで存在する九段を、珍しく、また不思議な少年だと、マスターは常に感じていた。
これも、彼が星の一族の末裔という、世間一般とは異なる特殊な立場にあるからなのだろうか。


マスターがそんな事を考えていると、九段は漸く自分が何をしにこの店にやって来たのか思い出したのか、はっとした表情を見せた後、店の中を見回し始めた。
店内に隈なく視線を遣った後、再びマスターの方を向いて、九段はこう訊ねた。

「――ところで、マスター。村雨はいるだろうか?」

やはり村雨を訪ねて来たらしい。
ここ数日、村雨はいくつかの原稿の締切に追われ、自室に篭って連日ほぼ徹夜で原稿用紙に向かっていた。その間軍邸を訪れていなかったから、恐らく心配になり様子を見に来たのだろう。

「いるにはいるんだけどね。ここ数日締切続きらしくて、部屋で缶詰になっているみたい」
「そうなのか……」
「でも、それも明日までらしいわよ。本当に、締切ギリギリにならないと筆が進まない癖、いい加減になんとかすればいいのにねぇ」

やれやれと、マスターはわざと大袈裟な身振りを交えて、呆れたように溜息を吐きながら言った。
そして、表情を改めると、九段に訊ねた。

「村雨に急用でもあったのかしら?」
「いや、そういう訳ではないのだが……。最近軍邸に姿を見せぬので、身体でも壊したかと思ったのだ。梓も心配していた」

最近行動を共にするようになった黒龍の神子の名を出すと、九段は小さく息を吐いた。

「取り敢えず、何かあった訳ではないと判り、安堵した。仕事ならば仕方ない。我は、アイスクリンを食べたら帰ることにしよう……」

肩を落とし、しゅんとした声音で答える九段が、何やら捨てられた子犬のように淋しそうに見える。
理由は定かではないが、九段は村雨に対し、有馬や秋兵に対するのと同等、もしくはそれ以上の信頼を寄せているようだった。村雨の裏稼業についても知っているはずなのに、疑うことなく彼に懐いている。育ちが良く、世間知らずな九段は、元来人を疑うことを知らないのだろう。神子を守護する星の一族であり帝国軍の相談役でもあるという特殊な立場なのだから、普通ならば情報屋である村雨に情報源として利用されることを警戒しても良さそうなものなのだが……。

(やっぱり、不思議な子ねぇ)

村雨も、世事に疎く他人の話を聞かない九段には毎度振り回されてはいるようだが、邪険にはせず結局は付き合ってやっている。怨霊退治の手伝いも、九段に押し切られて付き合っているようなものだ。
孤高の一匹狼のような一面がある村雨が、九段のような世間知らずのお坊ちゃんとの縁を切らずにいるのは、ただ彼が昔世話になった恩人であるからというだけでなく、彼を情報源として利用する魂胆があるのかと考えていたのだが、どうやらそれだけではないように思えた。
それを“友情”と呼んでいいのかどうかは分からなかったが……。
ただ、彼らが会話する様子を微笑ましい気持ちで見守って来たのは事実だった。
だから、村雨に会えないと思い淋しげな様子を見せた九段を、マスターは放って置くことが出来なかったのだ。


「あら、帰ることないわよ、九段ちゃん」

アイスクリンを一つ注文してカウンターを離れようとした九段を、マスターは引き止めた。
驚いたように振り返った彼に、マスターは続けて言った。

「村雨に会いに来たんでしょ? なら、会って行きなさいな」
「しかし……。仕事中なのであろう?」

村雨に対しては意外と強引に話を進めることの多い九段が、珍しく躊躇している。村雨が最近姿を見せなかった理由が判り、既にここに来た目的を果たしたからなのだろうか。目的がある時はそれを達成するため脇目も振らずにどんどん前に突き進んでいく九段だが、普段は細やかな気遣いができる性質らしい。
マスターはちらりと店の奥に視線を遣った。村雨に貸している和室がある方向だ。
村雨はと言えば、一時間ほど前に珈琲を淹れに部屋から出て来たが、どうやら煮詰まっている様子だった。先日から数本の短編を書き上げていたから、良いネタが思い浮かばないらしい。
そういう時は気分転換をした方が良いはずだと思い、マスターは九段に気晴らしの相手を頼もうとしたのである。
躊躇う九段に、マスターは次のように告げた。

「構わないわよ。名刺を渡した相手が訪ねて来たら、必ず面会に応じるのがこの店の決まりだもの。村雨もそのつもりで貴方に名刺を渡しているはずだから、遠慮は無用よ」

その言葉を聞いて、九段がぱちくりと目を見開いている。

「あらあ。村雨から聞いてなかったの?」

ハイカラヤは紹介客のみ入店を許可している、所謂「一見さんお断り」の店である。そのため、初めてハイカラヤに来る客には通常紹介者が同行しているのだが、ここに間借りしている村雨を訪ねて来る者達には当然の事ながら同行者などいない。だから、村雨は担当の編集者達にも自身の名刺を渡していた。それには、住所と店の名前の後にこう記されている。

“――名刺持参サレタ方ノミ面会承リマス――”

名刺を持参した者にのみ面会するということだが、裏を返せば名刺を持参した者との面会を拒むことはないということなのだと、マスターが説明する。つまり、自分が紹介した相手には責任を持つというのが、この店のルールなのだ。そうすることにより、この店が持つもう一つの顔をずっと隠して来たのだが、この世間知らずでお人好しな村雨の友人がその事実に気付くことはないだろう。
しかし、秘密を知られる可能性が低いというだけの理由で村雨が九段に名刺を送ったとは、マスターには思えなかった。この店での彼らの面会の様子を傍でずっと見てきて、年齢が離れてはいるが、二人の間には何らかの絆のようなものが存在しているようだと感じていたからだ。

「仕事関係以外で村雨が名刺を渡すことは珍しいから、なんだかんだ言って九段ちゃんは特別なのよ。なんて言ったって、村雨にとっては“恩人”なのでしょ?」
「特別……? 何やらこそばゆい気がするな」

嬉しそうに九段が微笑む。素直に感情を表す九段はまるで幼子のようで、何故か憎めない。毎度何かと振り回されているにもかかわらず村雨が彼と付き合い続けているのも、もしかしたらその所為なのかもしれない。
微笑みを浮かべたまま、九段が続ける。

「では、マスター。アイスクリンをもう一杯頼む」

二杯目のアイスクリンを所望した九段に、もしや二杯とも食べるつもりなのかと思い一瞬だけ驚いた顔をしたマスターだったが、直ぐに彼の意図に気が付いた。

「あら、もしかして村雨に?」
「うむ。今日のように蒸し暑い日は、冷たい物が一番だろう? それに、疲れている時は甘い物を食べるのが良いと思う」

原稿を進めている時、村雨は根を詰めがちだから、暫し休憩することを勧めようと思う、と九段が告げる。
村雨は甘い物を好んで食べることはないが、九段の言葉にも一理あるとマスターは思った。

「そうねぇ。村雨もきっと喜ぶと思うわ。さっき珈琲を淹れに部屋から出てきたんだけど、寝不足な顔していたから」
「ならば、ますますアイスクリンが良いな。冷たい物を食せば目も覚めよう」

にこにこと笑いながらおっとりとした口調で話す九段に、マスターは笑みを誘われた。

「じゃあ、椅子にでも掛けてちょっと待っていて頂戴」

そう言い残すと、マスターは厨房に姿を消した。





暫くしてマスターが店内に戻って来ると、九段はカウンター近くのテーブル席で待っていた。背筋を伸ばしてちょこんと椅子に腰掛けたその姿は、初めて彼がこの店を訪れた時に感じた通り、やはり品がある。

「お待たせ〜」

言いながら、マスターはアイスクリンを盛った器が二つ載せられた盆を九段の前に置いた。
盆に載せられたままテーブルの上に置かれたことに驚く九段に、マスターは言った。

「さ、これを持って、行って来なさいな」

その言葉に九段がきょとんとしている。
彼が村雨に会いに来る時はいつも店の中で珈琲を飲みながら歓談していたから、直ぐにはピンと来なかったのだろう。
目の前の盆をじっと見つめた後、九段はマスターを見上げ、訊ねた。

「……村雨の部屋に?」

「本当に良いのか?」と言っているような視線に、マスターは頷き掛けた。

「そうよ。村雨の部屋はそこを出て直ぐだから。――ほら、早くしないと溶けちゃうわよ?」

急かすように、盆を更に九段の方に近付けると、漸く九段が破顔した。邪気のない笑顔で一つ頷く。

「わかった。アイスクリンは盛り立てが一番だからな」
「その通りよ」

マスターが相槌を打つと、九段が立ち上がった。
大切な物を持つように、両手で盆を捧げ持つと、

「――では、マスター、行って来る!」

そう言い残して、教えられた方向に歩き始める。
微笑みながら、「いってらっしゃ〜い」と明るい調子で声を掛け、マスターはその後ろ姿を見送った。
だが、九段の姿が店と居住区域とを隔てる扉の向こうに消えた途端、笑みを消して顔を曇らせる。

ここ、ハイカラヤは反体制派組織「結実なき花」の活動拠点であり、現在のリーダーは村雨である。
愛宕山の事件以降、帝国軍内に不穏な動きがあるとの情報もあり、近い将来、「結実なき花」は軍政に異議を唱え民衆による政治を実現するために、軍に対して蜂起することになるだろう。
そうなった場合、九段が帝国軍付きの相談役である以上、村雨とこれまで通りの関係を続けることは不可能だ。たとえ、九段が星の一族の使命を果たすため、参謀総長の薦めに従い致し方なく相談役に就任したという経緯があったとしても――。

今後、この異色の組み合わせの二人の間に生じるであろう変化を憂い、マスターは閉じられた扉に向かって深い溜息を吐いたのだった。





◇ ◇ ◇





机の上に転がすように万年筆を置くと、村雨は左手で軽く右肩を揉んだ。

――どうも、良いネタが浮かばない。

今朝方一作書き終え、一服入れた後、再び原稿用紙に向かった。明日が締切となっている仕事がもう一本あったからだ。
しかし、日々思い付いたネタを書き留めている手帳を見返してみても、今一つピンと来るものはなかった。目ぼしいネタは、既に採用してしまっていたからである。
仕方なく何か良いネタはないかと頭を捻っているのだが、徹夜続きの疲れた頭を無理に動かそうとしてもなかなか上手く行かず、使えそうなものは何も思い浮かばなかった。
小説家としてデビューして以来、原稿の締切前にネタに詰まることなど何度も経験しているのだが、今回は特に酷いように思う。数日前から既に短編を二本書き上げていたから、当然と言えば当然なのだが――。

ここ数日の間ずっと根を詰めていたため、肩が凝りつけていることが左手から伝わって来た。自分の手で揉み解すことは不可能だと思い、手を離して肩を回してみると、ゴリゴリという音が室内に響くのが耳に届き、村雨は深い溜息を吐いた。
普段であればこんなに無茶な仕事のスケジュールを組んだりはしないのだが、最近の情勢を見て今まで同志と共に練って来た計画を実行に移す日が近いと感じ、今のうちにと思って無理を承知で複数の出版社からの原稿依頼を全て受けたのである。二本書き終えた現時点で、今取り組んでいる明日が締切の短編以外に、一週間後に締切が来る短編一本が予定に入っていた。

(これが最後になるかもしれないからと、少々欲張り過ぎたかもしれんな……)

再び左手で右肩を揉みながら、首を左右に振ってみる。長時間同じ姿勢をとっていた所為か、こちらも油の切れた機械のようにコキコキと音を立てそうなくらい凝っている。一種の職業病とは言え、少しばかり辛い。

(このまま原稿に向かっていても良いネタは浮かびそうにないし、少し気分転換でもするか)

そう思い、机の上に置いていた紙巻煙草に手を伸ばした。
そのうち一本を口に咥え、燐寸を擦ろうとしたまさにその時――


「村雨、入っても良いか?」


聞き慣れた声が部屋の外から聞こえて来た。
手を止めて入り口に目を遣ると、風を通すために薄く開け放していた廊下に面した襖戸の隙間から、村雨の恩人でもある星の一族の青年が顔を覗かせていた。
軽く目を瞠った後、村雨は手にした燐寸と口に咥えた煙草を元の場所に戻した。煙草嫌いのこの恩人の前で吸うと、何かと煩いのだ。

「九段か。そんなところに突っ立ってないで、さっさと入ったらどうだ?」

一服しようとしたところを邪魔され、少しぶっきらぼうに聞こえる言い方をしてしまったのだが、九段は気にするどころか嬉しそうに笑みを浮かべ、襖戸を開けて部屋に入って来た。
その様子を見ていた村雨は、九段が手にしていた物を見て、再び目を瞠った。
盆の上に載せられたアイスクリンを盛った器が二つ――。
それを見ただけで、彼が自分の部屋にやって来た目的を察し、村雨は諦めたように溜息を吐いた。不本意だが、自分の思い通りに事を進めようとする彼に巻き込まれるのは慣れている。
恐らく、一緒に食べようということなのだろう。

「どうした? 今日は怨霊退治の方はいいのか?」

この部屋にアイスクリンを持ち込んだ九段の思惑には敢えて触れず、別の話題を振ってみる。
すると、九段はこう答えた。

「今日は神子たちは有馬と秋兵と共に出掛けているのだ。だから、我はこのところ姿を見せぬぬしのことが心配になり、様子を見に来たのだ」
「そりゃ、どうも。マスターから聞いてるだろうが、仕事が立て込んでいるんだよ。『怨霊退治を手伝うのは時間がある時――』って約束だっただろうが」
「わかっておる」

話しながら村雨の方に歩み寄った九段だったが、白足袋を履いた足を二、三歩進めたところで立ち止まり、露骨に顔を顰めた。何事かと思い怪訝そうな視線を向ける村雨の前で、九段は両手で捧げ持っていた盆を片手で持ち直し、空いた右手の袂で鼻を押さえながら言った。

「村雨……。この部屋は煙草臭いぞ」
「おい。喫煙者の部屋に自ら入っておいて、それはないだろう」

真夏の日中の時間帯のため、部屋の窓は全て開け放している。確かに原稿に行き詰まると普段より煙草を吸う量は増えるが、喫煙者が多く集まるハイカラヤの店内に比べれば臭いは酷くないはずだ。煙草嫌いの九段が煙草の臭いに敏感なだけだろう。
そう思ったが、九段が机の上に置かれた灰皿をじっと見つめていることに気付き、村雨は小さく溜息を吐いた。意識していなかったのだが、灰皿の中には一晩で吸殻の山が築かれていたのだ。

「で? 煙草臭い部屋にわざわざやって来た理由は、それか?」

灰皿を九段が立っている場所とは反対側の畳の上に置き、空いた手で近くに置いてあった座布団を手に取ると、彼が持って来た盆の上の器に向けて顎をしゃくる。
すると、九段ははっとしたような表情を見せた。袂で鼻を覆うために上げていた右手を下げて再び両手で盆を持つと、村雨の推測通りの答えを返した。

「うむ。『原稿が行き詰まっているらしい』とマスターから聞いたのだ。ならば、気分転換にアイスクリンでも一緒にどうかと思ってな」

話しながらまた数歩近寄ると、九段は机の前に座っている村雨から軽く両手を広げたくらいの距離を置いた場所に膝をつけ、畳の上に盆を置いた。両手が空いたところで村雨が座布団を手渡すと、それを敷いて正座する。和室での所作は、相変わらず美しく上品だ。

(そう言えば、この部屋に九段を入れたのは初めてだったか)

九段の和室での所作を見たのは、京都の彼の邸で世話になっていた時以来だと考えたところで、これまで自室に九段を招き入れたことがなかったことに気が付いた。彼が訪ねて来た時はいつも、ハイカラヤの店内で会っていたからだ。

(まあ、大方マスターの差し金なんだろうが……)

意外と図々しいところのある九段だが、これまで部屋に押し掛けて来たことはなかった。世事には疎いものの、やはり由緒ある家柄の出身であるだけあって、礼儀を弁えている。にもかかわらず、彼が仕事中の村雨の部屋にやって来たのは、マスターにそうするよう勧められたからなのだろう。意外な事に、マスターがこの年若い友人を可愛がっていることを、村雨は知っていた。
そんな事を考えている間に、九段が盆の上の器を両手に一つずつ持ち、そのうち一つを村雨の方に差し出した。

「ほれ、早く食べぬと溶けてしまうぞ」
「はいはい。ありがとうよ」

気のない返事をしながら、目の前に差し出された器を受け取った。村雨には九段のように甘味を好んで食する習慣はないが、せっかくの心遣いを無にするのも大人気ないと考えたからだ。
村雨が受け取ったのを確認し、九段は機嫌良く微笑んでいる。何やら嬉しそうだ。

「ぬしにはいつも珈琲を馳走になっているからな。たまには我がぬしに馳走しようと思ったのだ。今日は蒸し暑い故、冷たい物が良いだろうと思ってな」

――自分が食べたかっただけだろうが。

そう思ったものの、馳走しようとしてくれたことは事実なので、ここは黙っておく。
村雨の心の内など知る由もない九段は続けて言った。

「疲れている時は甘い物を食すのが一番だ。……それに一人で食べるより、誰かと一緒に食べた方が美味しいことに、つい先日、気付いたのだ」

九段の言葉を聞いて、村雨は彼の顔をじっと見つめた。九段は頭の中に誰かを思い描いているような優しい表情を浮かべていた。後半の言葉に込められた彼の思いと、彼が今思い描いたであろう人物が誰であるか、察しの良い村雨は気付いたが、敢えて気付かぬ振りをして話の続きを聞くことにした。
スプーンでアイスクリンを掬い、それを口に運びながら九段が話したのは、先日神子たちと一緒に日比谷公園でアイスクリンを食べた時のことだった。その時は村雨も怨霊退治に同行していたのだが、「一緒に食べないか」という九段の誘いをにべもなく断っていたのだ。

「だから、ぬしとこうしてアイスクリンを食べることが出来て、我は嬉しく思うぞ」

あの時叶わなかったことが実現し、素直に喜びを表している屈託のない笑顔が眩しく感じられる。
なんとなく居心地の悪い思いがして、

「お宅は甘味さえあれば、一人だろうが二人だろうが関係ないだろうが」

と、村雨はまたもや無愛想な答えを返してしまう。
だが、九段は気にした様子もなく、

「そんなことはないぞ。一人より二人の方が良いし、気心の知れた相手だと、なお良い。――それより、村雨。早く食べぬと溶けるぞ」

と急かすように言っただけだった。
本日何度目かの溜息を吐くと、村雨は諦めたようにスプーンを手に取った。アイスクリンの山の一角をスプーンで崩し、それを口に運ぶ。すると、氷菓子の冷たさと甘さが口の中に広がり、徹夜続きで働きの鈍くなった頭が一瞬にして覚めそうな心地がした。「疲れている時は甘い物を食すのが一番だ」という九段の言葉が正しかったことを認めざるを得ない。

(そう言えば、マスターがハイカラヤのメニュウにアイスクリンを追加したんだったか……)

九段がハイカラヤの常連客になって以来、甘味好きの彼の要望をマスターが聞き入れ、甘味のメニュウが増えて来ている。しかし、アイスクリンについては九段の要望ではなく、先日追加した新メニュウに付随して、マスター自身が追加したメニュウだった。
新メニュウ考案時の騒動を思い出し、村雨はいつの間にか手を止めていた。
あの時は散々な目に遭った。
その大部分は、今目の前で美味しそうにアイスクリンを食べている恩人が引き起こしたものだ。

――俺は何故、このお坊ちゃんとの縁を切らずにいるのだろうか。

年齢は一回り以上離れている。
生まれ育った環境も全く違う。
それ故、性格だけでなく、考え方も異なる部分が多い。
今は互いに帝都の平和を目指して行動している最中だが、九段が星の一族である以上仕方のないこととは言え、龍神の神子の力を借りて帝都を救うという考えには、村雨は全面的には賛同できなかった。
怨霊討伐のため神子の力を借りることは、まだ賛同できる。一般市民は、神子や精鋭分隊のように怨霊に対峙する力を持たないからだ。
たが、帝都が直面している問題は、帝都に住む民一人一人が立ち上がって解決するべきだ。この世界に縁もゆかりもない少女一人に背負わせていい問題ではない。
少なくとも村雨はそう考えている。
では、情報源として有用だからこの縁を切らずにいるのかというと、必ずしもそうではない。
帝国軍付きの相談役であるとは言え、九段は軍の中枢に参画しているわけではない。龍神の神子と精鋭分隊に関しては九段の管轄ではあるが、村雨たち「結実なき花」が本当に知りたい情報は軍の中枢に関わるであろうことである。そのため、九段を通して得られる情報というのは、こう言っては何だが村雨にとっては大した情報ではないのだ。九段も自身の管轄である神子や精鋭分隊に関することでも、さすがに重要な事は村雨に漏らしたりはしない。実際、鬼の一族から依頼されて調べていた二人の神子召喚の儀式が執り行われる日時や場所なども、九段ではなく別のルートから得た情報だった。

「村雨…? どうしたのだ、難しい顔をして」
「……いや、なんでもない」

考え事をしているうちに、いつしか真剣な表情になっていたらしい。「溶けるぞ」と再度九段に指摘されそうだったので、村雨は止めていたスプーンを動かし始めた。


暫くして、ふと九段の方を見ると、既にアイスクリンを食べ終えて、物珍しそうに部屋の中を見回している。

「どうした? 何か珍しい物でもあったか?」
「いや。ぬしの部屋は初めてだったなと思ってな」

そう話しながら九段が部屋の一点で目を留めたことに、村雨は気が付いた。
九段が見ていたのは、部屋の一方の壁一面を覆うように置かれた書棚だった。そこには出版社からの献本や執筆に使う資料本、そして趣味で集めた外国の小説や詩集などが収められている。もっとも、資料は図書館で借りることが多いから、自室に置いているのは辞書類が中心だ。

――自分と九段に共通点があるとすれば、二人とも書物が好きだということだろうか。

今度は相違点ではなく、共通点に考えが及ぶ。
幼い頃から学校に行かずに書物から知識を得ていたという九段は、書物に関しては守備範囲がかなり広い。しかし、自分が書く幻想小説など、古文書や古典に親しんでいる九段の好みではないだろうと思っていたのだが、謝礼と共に送った『文藝睡蓮』に掲載された処女作「やまい」を読んで以来、村雨の作品は全て読破しているようだった。
そのことを村雨が知ったのは、九段が読んだ作品について必ず感想を伝えてくれるからだった。九段が龍神の神子を召喚してからは互いに忙しく、以前のようには時間が取れなくなったのだが、神子召喚前はハイカラヤに来るたび、珈琲を飲みながら最近読んだ村雨の作品について感想を述べていた。彼の視点は編集者や他の読者とは少し違っていることが多く、作者である村雨自身も予想していなかった思いも寄らぬ感想が寄せられて、参考になることが多かったのだ。

「やはり、書物に囲まれて生活するというのは良いな。心が落ち着く」
「お宅は本当に本が好きだね」

ほうと溜息を吐きながらしみじみと呟いた九段に、村雨は苦笑しながらそう返した。
何気なく彼が見ていた書棚に目を遣り、ふと先週届いた献本が数冊残っていたことを思い出した。

「そう言えば、先週発行された短編集の献本があるんだが、欲しいなら一冊持っていっていいぞ」
「え…、良いのか?」

驚いて九段が問い返す。弾んだ声に彼の気持ちが反映されているようだ。
ちょうどアイスクリンを食べ終わったので器を盆の上に置き、村雨は立ち上がって書棚の方に向かう。
九段は村雨の本を買ってくれることが多いので、毎回献本を渡しているわけではないが、発売直後に九段に会う機会があり、尚且つ九段がまだ買っていない時には彼に一冊進呈していた。毎度感想を寄せてくれることへの謝礼代わりである。

「もちろん、構わんさ。『文藝睡蓮』に掲載された短編ばかりだが、書き下ろしが一作収録されている。ま、読み終えたら、感想でも聞かせてくれ」

言いながら、村雨は書棚から一冊の本を手に取り、それを九段に手渡した。
本を受け取った九段は、嬉しそうに顔を綻ばせた。

「かたじけない。ちょうど今日、神田に来たついでに本屋に行こうと思っていたのだ。このところ、ゆっくり本屋を巡る時間がなかったのでな。ぬしの新刊もまだ購入できていなかったのだ」

ハイカラヤのある神田は本の街として有名だ。百軒以上の新刊書店や古書店が軒を連ねている。
九段も休日には日比谷図書館に行ったり神田の本屋街を見て回ったりしていたようだが、黒龍の神子が帝国軍と共に行動するようになって以来、休むことなく怨霊退治の任に当たっていたため、その機会がなかったらしい。
探索中に休憩を取ってはいるものの、ゆっくりと書店巡りできるほどの時間はなかったことを、村雨は思い出した。
ふと気付くと、九段は早速手渡された本を開き、頁を捲っている。

「おい、九段。ここで読むんじゃない。読むのは軍邸に帰ってからにしろ」

目の前で知り合いに自分の作品を読まれるのはなんとなく気恥ずかしいのでそう言うと、九段は口を尖らせて反論する。

「む。目次を確認しただけではないか」

こういう子供っぽい反応は、昔とちっとも変らない。
村雨は思わず苦笑する。
だが、次の瞬間彼に課せられた重い使命に考えが及び、村雨は笑いを収めた。

五年前、一族の使命を託されたことを誇りに思うと話していた九段――。
長い間、それこそ生まれてからずっと、来る日のために準備をしてきたのだという。普通の子供が送るであろう生活の全てを犠牲にして。
出逢った当初、果たすべき使命に縛られ自由に生きることができない彼のことを、村雨は「不憫なガキだ」と考えていた。ちょうど今、異世界から召喚されて神子としての役目を強要されている黒龍の神子・高塚梓に対して感じているのと同じように。
念願だった神子召喚を果たし、毎日のように神子たちと帝都中を巡り、怨霊退治の任に当たっている九段は幸せそうに見えたが、村雨は今でも「不憫なガキ」という印象を拭い切れずにいる。
それは、九段の自己犠牲心の高さの所為だろう。村雨が九段を「不憫だ」と感じるのは、彼が帝都や神子のために身命を賭して尽くすことを「星の一族として当然の事」と受け止めているからだった。

星の一族の家に生まれていなかったら、今とは全く違う人生が待っていただろうに――。

そうは思うものの、星の一族ではない九段を、村雨は想像することが出来なかった。
それに、そもそも九段を「不憫だ」と感じるのは、昔はともかく今となっては誤りなのかもしれない。
星の一族として彼が守るべき龍神の神子のうち、白龍の神子は彼の大切な幼馴染、そして黒龍の神子は恐らく――。
まだ自覚してはいないようだが、近いうちに九段は星の一族としてではなく、一人の男として彼女を守ることになるはずだと、村雨は考えている。


「村雨? どうしたのだ、ぼうっとして。……やはり疲れているのではないか? それなら、ぬしの顔も見たことだし、我はこれでお暇するが……」

そう言うと、九段は帯の間から風呂敷を取り出し、畳の上に広げ始めた。
どうやら、また考え事に沈んでいたらしい。再度九段に指摘され、再び苦笑する。
しかし、今から一人部屋に篭って小説のネタ探しを再開しても、良い案が浮かぶとは思えなかった。九段と他愛無い話をしているうちに良い案が浮かぶこともあるので、もう暫く息抜きしたとしても問題ないだろう。

(ま、こいつと話すと息抜きにならんことも多いが……)

だが、どういうわけか今日は、もう少しの間この年下の恩人と話をしてみたい気がするのだ。
村雨は帰り支度を始めた九段を引き止めることにした。

「いや。折角来たんだ。どうせ良いネタも浮かばんし、もう少し付き合え。――冷やし珈琲でもどうだ?」

九段を誘うのに飲食物は有効だ。珈琲は苦手な九段だが、今日のような暑い日ならば、冷やし珈琲でも然程文句を言わずに飲んでいた。無論、彼の口に合うように、砂糖を大量に加えて作るからなのだが。
案の定、村雨の誘いに、九段は広げた風呂敷に本を包もうとしていた手を一旦止めて、嬉しそうに顔を綻ばせた。

「冷やし珈琲か。ならば、我は“アイスクリン載せ”が飲みたいぞ」

村雨の提案に、先日自分たちが考案した新メニュウを所望する。物怖じしない性格の九段は、特に飲食物に関して遠慮することは決してない。
相変わらずだなと苦笑しつつ、村雨は出逢って五年の歳月が過ぎても九段が全く変わらないことに、何故か安堵していた。

「アイスクリンなら、今食べたばかりだろうが。まだ足りんのか?」

空になった器を二つ載せた盆を畳の上から拾い上げながら、村雨が呆れたように言うと、九段は思いも寄らぬ答えを返した。

「“アイスクリン載せ”であれば、ぬしの好物と我の好物を同時に楽しめるであろう?」

九段の言葉を聞いて、村雨は一瞬全ての動作を止めて目を瞠った。
新メニュウ騒動のあったあの日、ハイカラヤの店内で躓いた九段が持っていたアイスクリンが偶然客の冷やし珈琲の中に飛び込んだのを目にし、元の世界にあったコーヒーフロートを思い出してそれをハイカラヤの新メニュウに仕立て上げたのは、他ならぬ村雨だった。だが、言われてみれば、確かに村雨が好きな珈琲と九段の大好物であるアイスクリンが合わさって出来た代物だ。

「先程は我の好物を共に食したからな。この本の礼に、次はぬしが好きな物を馳走するぞ」

良い事を思い付いたと言わんばかりに、にこにことした笑みを浮かべた九段だったが、突然何かに気付いたような顔をして口元に手を遣ると、おっとりとした口調で言葉を継いだ。

「ああ、最初から新メニュウにしておけば、互いの好物を同時に楽しめたのだな。我としたことが、今気が付いたぞ」

またもや相変わらずな反応を見せた九段に、村雨は笑いを誘われる。

「好物が沢山食べられるんだから、別に良いだろうが。だが、冷やし珈琲は俺が馳走するよ。本は献本だし、礼などいらん。気にするな」

自分に会うためハイカラヤにやって来た客人に珈琲を振舞うのは、村雨が自分で決めた約束事だ。それに、本は出版社から無償で受け取ったものであるから、わざわざ礼をするには及ばない。むしろ、遙かに年下の相手に馳走される方が、借りを作ったようで落ち着かないのだ。

「そうか? ならば、ぬしの言葉に甘えるとしよう」

村雨の言葉を聞いて、九段が微笑みながら言った。
この切り替えの早さも、出逢った頃と全くと言っていいほど変わらない。
自分のペースを崩さない九段に振り回されることは多いが、村雨は彼と距離を置こうと考えたことはなかった。確かに怨霊退治を手伝うようになる前は、軍邸の所在地が帝国軍により秘匿されていたこともあり、村雨の方から九段を訪ねたことはなく、専ら九段がハイカラヤを訪ねて来ることにより続いていた、一方通行な付き合いだったと言えるかも知れない。それでも、完全に縁を切ってしまおうと考えたことはなかったのだ。
九段が自分の恩人だからというわけではなく、ましてや軍の相談役だから情報源の一つとして確保しておこうと考えたからでもない。突拍子もない彼の言動には辟易することも多いのだが、ふとした拍子に、この世間知らずのお坊ちゃんとの付き合いを楽しんでいる自分に気付いてしまうからだ。

だが、これからはそうもいくまい。
軍が何か新たな動きを起こそうとしているらしいという情報は、既に村雨の耳にも入っている。詳細はまだ不明ではあるが、この軍の新たな動きが、反体制派組織「結実なき花」が蜂起するきっかけとなる可能性が高いと思われた。
もしそうならなくとも、使命を果たすためとは言え九段が帝国軍に協力している以上、近い将来軍政を倒すべく立ち上がろうとしている自分達とは袂を分かつ時が必ず来るはずだ。

しかし、村雨は心の何処かで信じている。
この、おっとりしているように見えて、誰もが驚くような行動力と正義感の強さを持ち合わせた年下の友が、いずれ軍部に疑念を抱き、自分達のように行動を起こすことになるだろうと。
村雨と九段には、反体制派のリーダーと帝国軍の相談役という立場の違いがある。
しかし、そこに至る道は違えども、目指す先はきっと同じ――平和な帝都であるはずだ。


「――さあ、行くぞ」


風呂敷包みを手に立ち上がった九段にそう声を掛けると、村雨は盆を手にハイカラヤの店内に向かう。


この奇妙な縁が、いつまでも続いて行くことを予感しながら――…。







〜了〜


あ と が き
この話を最初に書こうと思ったきっかけは、メッセージポストカードの九段&村雨のイラストのシチュエーションがあまりにツボだったから――だったりいたします(笑)。あのイラストは村雨さんの部屋でのワンシーンだったので、九段さんがハイカラヤを訪れるところから話を始めようとプロットを作り始め、視点をマスターに持ってきたところ、「マスターから見た九段さん」と「マスターから見た村雨さんと九段さんの関係」というテーマにも惹かれまして、こんな形にまとまりました。ゲームのトレジャーボックスの特典CD「華麗ナル献立(メニュウ)」収録の帝国軍側ドラマと玄武組の配信ノベル「瞳に宿るのは」もネタとして使わせて頂いています。
ゲームの三章の半ば過ぎ、八月初旬の設定となっています。花火大会の直前くらいですね。そのため、マスターも村雨さんも、自分たちがこれから起こそうとしている行動が、相談役として帝国軍に協力している九段さんとの関係に大きな変化を齎すであろうことを知っているのですよね。それでも自分たちの信念を貫くわけですけど、村雨ルートでダリウスに九段さんの力を借りると告げた時の村雨さんの言葉を見る限り、最終的には九段さんと協力することになるのを予測していたのではないかなと思えます。なんだかんだ言って、九段さんの性格を誰よりもよく理解している村雨さん。この二人の関係は本当に良いなあと思います^^
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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