珈琲はお好き?
―――なんだか、九段さんの様子がおかしいような気がする――…。


梓がそう感じたのは、二人で映画を観た後、喫茶店に入った時のことだった。


この喫茶店に来ることは、九段の希望だった。図書館でスイーツの店を特集した雑誌を読み、是非この店を訪れたいと場所をメモして来たのだという。

『この店のショートケーキは、かなり美味らしいのだ。是非、ぬしと味わいたいと思ってな』

店の名前と所在地を記したメモを見せながら、楽しげに話す九段を見て、梓も幸せな気分になった。
幸い週末のデートで行く予定だった映画館からそう離れていない場所だったので、映画が終わった後、休憩ついでに二人で行こうということになったのである。


梓が違和感を覚えたのは、ウエイトレスにオーダーを伝えた時だ。
ショートケーキが目当てでこの店にやって来たので、梓も九段と同じく苺のショートケーキを注文したのだが、九段が頼んだ飲み物に驚いたのだ。

「ホットコーヒーを頼む。――梓は? 同じもので良いか?」

当然のように珈琲をオーダーした九段に驚き、梓は直ぐに返事をすることが出来なかった。

「梓?」
「あ…、はい! 私もホットコーヒーをお願いします」

前半は向かいに座る恋人に向けて、後半は二人の傍らで注文を受けているウエイトレスに向けて告げた。

「ショートケーキとホットコーヒーをお二つずつですね? しばらくお待ちくださいませ」

そう言い残してウエイトレスがカウンターに向かうのを視界の隅に捉えながら、梓はまじまじと九段の顔を見つめていた。
その視線に気付いた九段が訝しげに訊ねた。

「どうしたのだ、梓?」
「……どうしたのか訊きたいのは私の方です。九段さん、珈琲が苦手なんでしょう? どうしてわざわざ苦手な物を頼んだりしたんですか?」

珈琲が苦手な九段は、今まで飲み物については紅茶かジュースをオーダーしていた。梓自身は普段は珈琲派だが、ケーキには紅茶の方が合うと思い、ケーキを食べる時だけは紅茶をオーダーしている。今日は九段のオーダーに驚いて、思わず彼につられてホットコーヒーを頼んでしまったけれど。
自分が問うたにもかかわらず、反対に梓に問い掛けられた九段は、漸く彼女の疑問に気付いたようだ。梓の言葉を聞いて合点がいったように頷くと、珈琲を注文した理由を次のように説明した。

「ああ、そのことか。……ただ、我も珈琲を飲み慣れねば、と思っただけだ」
「どうしてそんなこと…。苦手なら、別に無理して慣れる必要はないと思いますよ?」

まるで、悲壮な覚悟で苦手な物の克服に臨むかのような表情を浮かべた九段を見かねて、梓は言った。
九段は梓に珈琲が苦手だと話したことはない。だが、九段には話したことはないが、まだダリウスたちと行動していた頃、ハイカラヤで九段が村雨と話しているのを立ち聞きしたことがあるので、梓は九段が珈琲が苦手なのを知っていた。
それに、「結実なき花」による暴動が起きる前、村雨と話をするためハイカラヤに寄った時も、砂糖を四つも入れた珈琲を苦そうに眉を寄せて飲んでいたことを覚えている。あの時は、村雨を説得することに失敗したことも、村雨が淹れた珈琲を苦く感じさせる理由ではあったのだろうが。

(村雨さんが淹れてくれる珈琲は濃いめのブレンドだったから、甘党の九段さんが苦手なのも仕方ないと思うけど……)

恐らく帝都に出て来るまで、彼には珈琲を飲む習慣はなかったのだろう。初めて飲んだ珈琲が村雨のブレンドであれば、甘党の彼が苦手意識を持っても当然だ。

(それなら、ブレンドコーヒーより苦味が少ないアメリカンコーヒーを注文した方が良かったのかも……)

苦味が少ないアメリカンコーヒーであれば、砂糖を入れれば、九段も眉を顰めることなく珈琲を飲むことが出来るかもしれない。
梓がそんな事を考えていると、九段は梓が思いも寄らなかった言葉を口にした。

「……梓は、珈琲が好きなのだろう?」

少し沈んだ声音で紡がれた言葉に、考え事をしていた梓は不意を衝かれ、思わず大きく目を瞠っていた。
向かいに座る恋人に目を遣ると、いつの間にか九段はテーブルの上に視線を落としている。

「進之助と千代から、そう聞いた……」
「好きか嫌いかと言われれば、好きですけど……」

九段が何を言おうとしているのか分からず、梓は小首を傾げてそう答えた。
梓の答えを聞いて、俯いたまま暫くの間何事か思案した後、九段は漸く顔を上げて梓の方を見た。


「ぬしはいつも、我の好きな甘味を作って持って来てくれる。それなのに、我は村雨のように、ぬしのためにぬしが好きな珈琲を淹れることはできぬ。――だから、せめて、ぬしが好きな物を、ぬしと共に楽しみたいと思ったのだ」


その言葉に驚き、さらに大きく目を見開いた梓を見つめると、九段は話し始めた。





◇ ◇ ◇





一昨日のことである。

その日は学校行事があり、梓が来られなかったので、その埋め合わせにと前日梓が持って来てくれたモンブランを、恒例の午後のお茶の時間に三人で食べることにした。
梓が来られないと知って残念そうな表情を浮かべていた九段も、美味しそうなケーキと紅茶を前に、すっかり気分が浮上したようだ。まるで宝物を手にした子供のように瞳を輝かせながら、ティーカップにリズミカルに角砂糖を入れている。
その様子を見ていた千代が、九段に声を掛けた。

「九段、いくつ入れるつもりなの?」
「三つだが?」

紅茶にはいつも三つ入れていることは千代も知っているだろうに、今更何故そんな質問をするのかと訝しく思いながら、九段が答える。
やはり、と小さく溜息を吐きながら、千代は生まれて初めてモンブランというケーキを見たであろう幼馴染に忠告した。

「でも、このケーキ、随分甘いわよ? 見た目以上にね」

――九段さんがまだ食べたことがないケーキの中から、九段さんの口に合いそうなものを選んだから……。

昨日ケーキを持って来た時、梓がそう言っていた。
“九段の口に合わせた”ということは、かなり甘いということだ。
――そんな甘いケーキを食べるのに、紅茶にまで砂糖を三つも入れるなど、口の中がずっと甘いままで口直しもできず、味覚が狂いそうだ。
そう考えた千代だったが、彼女の幼馴染は彼女が思う以上の激甘党だったようだ。

「なんだ。そんなことか」

いくつ入れるのかと問われ、きょとんとしていた九段は、千代の言葉を聞いて穏やかに微笑むと、続けて言った。

「我は甘味ならばどんなに甘くても食せる。むしろそのほうが好みだしな」

九段はそう言うと、スプーンで紅茶をかき混ぜ、角砂糖を溶かし始めた。スプーンがティーカップに触れるたびに、まるで好物を前に浮き立つ彼の心を表しているかのような軽やかな音が響く。

「ほう、このケーキのてっぺんに載っているのは栗の甘露煮か。甘くておいしそうだ」
「モンブランは栗のケーキだもの」

のほほんとした調子でそんなことを話す幼馴染に呆れたように溜息を吐くと、千代が続けて行った。

「でも、ケーキがこんなに甘いのに、紅茶に砂糖を三つも入れるなんて……」

砂糖を三つ入れた紅茶の甘さを想像し、千代は顔を顰めた。砂糖抜きの紅茶を飲みながらケーキ本来の甘さを楽しむことを好む千代には、九段の嗜好は理解できないのだ。
それを察した進之助がフォローを入れる。

「まあ、嗜好は人それぞれだから……」
「うむ。やはり進之助はよく分かっている。それに、『砂糖三つ』は我にとっては少ない方だぞ、千代?」
「……そう言えば、村雨さんが淹れてくれた珈琲には四つ入れていたらしいわね。梓から聞いたわ」
「四つ!?」

梓から聞いた話を千代が口にすると、進之助が驚いて声を上げた。九段が甘党なことも紅茶に砂糖を三つ入れて飲んでいることも知ってはいたが、まさか砂糖三つが少ない方だとは思わなかったのだ。
村雨が淹れた珈琲の話が出て珈琲の苦さを思い出したのか、今度は九段が顔を顰めた。

「……珈琲は、何度飲んでも苦くて慣れぬ」

むすりとして、これまで何度も口にした言葉をこぼす。珈琲の苦味はどうも苦手なのだ。

「香りは嫌いではないのだが……」

村雨に会うためハイカラヤを訪れると、いつも珈琲と煙草の香りと店内で議論し合う常連客たちの喧騒に出迎えられた。煙草の臭いと狭い場所での喧騒は好きではないが、舌で感じる苦味とは違う珈琲の芳醇な香りは、何故か嫌いではなかったのだ。
(あの店の雰囲気に合っていたからだろうか…)
頻繁に訪れる店ではなかったが、珈琲と煙草の香りはハイカラヤの店内に染み付いているかのようで、それがあの店らしいと感じていた。
(そう言えば、村雨も珈琲と煙草の香りを纏っていたな)
ふと、ハイカラヤに間借りしていた対の存在に思考が及ぶ。まだ別れて数カ月しか経っていないのに懐かしく感じるのは、こちらの世界での毎日が思いのほか充実していて、時が流れるのが早く感じられる所為だろう。
そんな事を考えながら笑みを浮かべた九段に、彼の言葉を聞いてふと思い出したように千代が言った。


「あら、でも梓は珈琲が好きよ。あなたも飲み慣れないと、梓が好きな物を二人で楽しめないわよ?」


千代のその言葉に、九段は後頭部を鈍器で殴られたような、強い衝撃を受けた。

(『梓が好きな物を二人で楽しめない』――、と?)

珈琲は苦手だ。
だから、この世界に来てから、自ら進んで飲んだことはないし、向こうの世界でも、ハイカラヤ以外の場所で飲んだことはなかった。それも、村雨が珈琲以外のものを淹れられないと言ったから、それを受け入れていたに過ぎなかったのだ。
しかし――…。
ふと思う。
自分の好物を嫌う恋人のことを、梓はどう思っていたのだろうか、と――。
翻って考えてみると、どうだろう。もし、自分の好物を梓が嫌って避けていたとしたら……。もし、自分が珈琲を飲む時にいつもするような表情を、例えばアイスクリンを食べる際、梓がしていたとしたら……。

突然、鋭い痛みが胸に走るのを感じて、九段は顔を顰め、胸の上を手で押さえた。

(我は、一体どうしていた? 梓の前で、苦そうな表情をしたことはなかっただろうか?)

少なくとも、こちらの世界に来てからは、珈琲を飲んだことがないので大丈夫だ。
だが、帝都ではどうだったか――…。
そう言えば、帝都で梓と共にハイカラヤを訪れたことがあった。

(そうだ! あの時――村雨が起こそうとした暴動を止めようと、怨霊退治の途中ハイカラヤを訪れた際、村雨が淹れた珈琲を梓と飲んだではないか!)

あの時、自分がどのような表情をしたのか覚えてはいないが、村雨を説得できなかったことに衝撃を受け、珈琲の味がいつも以上に苦く感じられたことだけは覚えている。
ならばきっと、いつも以上に眉を顰めて苦そうな表情をしていたに違いない。

(そんな我を見て、梓はなんと思っただろう? 我の好物を食して梓がそんな表情をしたらと想像しただけで、あのような痛みを感じたのだ。もしや、知らぬうちに我は梓にあのような痛みを感じさせていたのでは……)

自らの考えに、九段は呆然とする。

(このままではいけない。なんとしても、梓が好きな物を、我も好きにならなければ……)

こんな時、九段は決断するのも行動に移すのも、実に早い。
即断即決、即実行を絵に描いたような素早さで茫然自失状態から立ち直ると、切羽詰まった声音で叫ぶように千代に呼び掛けた。

「千代!」
「な、なあに、九段? 突然大きな声を出したりして……」

何事か考え込んでいた幼馴染から、突然切迫した様子で名を呼ばれ、千代は驚いた。
九段は時折こちらが思いも寄らない言動をすることがあるので、長い付き合いの千代は慣れているつもりだが、それでも未だに彼の言動に驚かされることは多かった。
果たして、九段は千代が全く予測していなかったことを口にした。

「我に珈琲の淹れ方を教えてくれ。頼む!」
「え…?」
「ぬしの言う通りだ。我は梓の恋人として、梓の好物を好きにならねばならぬ。……いや、違うな。梓が好きな物を、我も好きになりたいのだ!」

九段の言葉に驚いた千代は、一瞬言葉に詰まってしまった。

――梓が好きな物を、自分も好きになりたい…。

その一言に、九段の梓に対する想いの深さを感じ取る。
彼は自分がからかい半分に言った言葉を真っ直ぐに受け止め、梓のために苦手な物を好きになる努力を惜しまないと言うのだ。

(本当に、相変わらず羨ましいくらい純粋で真っ直ぐなのね、九段は……)

以前は星の一族の使命にのみ直向きだった九段だが、それを終えた今、星の一族としての務めに向けていた情熱は、彼の想い人に真っ直ぐに向けられている。帝都で梓と出会った頃、梓ならきっと恋愛のみならず世事にも疎い九段を幸せにしてくれると考えていた千代だが、今では逆に、可愛い孫娘を幸せにしてくれるのは九段以外にいないと思っていた。
ふふふ、と千代が笑い声を零すと、真剣な表情で千代の返答を待っていた九段が眉を顰めた。

「――千代。我は真面目に言っているのだ。それを笑うなど失礼であろう?」

むすりとした口調でそう言われ、千代は九段が誤解していることに気が付いた。余裕のないその反応に、彼が本気であることが表れているようだった。

「気に障ったなら謝るわ。でも、梓が好きな物を好きになるっていう、あなたの決意を笑ったのではないのよ。ただ、あなたの梓への気持ちが嬉しかっただけなの」
「あ…ああ。我の方こそ、勘違いしていたようだ。すまぬ」

薄らと頬を染め、素直に己の非を認めて謝る幼馴染を見て、千代は微笑んだ。だが直ぐに思案気な表情を浮かべたかと思うと、彼の要望に関して一つ指摘した。

「でも、九段。梓が好きなのは、レギュラーコーヒーよ。あなたには苦すぎるんじゃないかしら?」
「れぎゅらー…? それは、どんな珈琲だ?」
「ハイカラヤで村雨さんが出してくれた珈琲みたいに、挽いた珈琲豆で淹れたものよ。ハイカラヤの珈琲はサイフォンで抽出していたけど、梓はコーヒーメーカーを使っているみたいね」

両親が珈琲好きなので、梓の家では昔からコーヒーメーカーを使っている。しかも、珈琲豆は行きつけの珈琲店で挽きたての特製ブレンドを買って来るというこだわりようだ。そんな珈琲好きの両親の影響で、梓もレギュラーコーヒーが好物なのだった。

「なに? う………だが、砂糖を入れれば何とか飲めよう」

千代の言葉を聞いて村雨の珈琲の味を思い出したのか、九段は僅かに顔を顰めながら言った。「砂糖を入れれば飲める」と言いつつ、明らかに無理をしている口調である。
そんな幼馴染の様子を見て、千代は、「四つもね」という、常ならばするであろう突っ込みは控えておいた。九段は真剣なのだ。彼の梓への想いを茶化すことなど、千代には出来なかった。

「う〜ん。だけど、うちにはコーヒーメーカーはないから、梓が好んで飲んでいるものと全く同じものは淹れられないわね」
「それなら、ドリップコーヒーにすればいいんじゃないかな? ドリップバッグならコーヒーメーカーは必要ないから。それに、インスタントと同じでお湯を注ぐだけだから淹れ易いし、味はレギュラーと変わらないよ」

それまで黙って二人の会話を聞いていた進之助が提案する。それを聞いて、千代が目の前の霧が晴れたような表情を浮かべた。

「それはいい提案ね」
「どりっぷ…というのがよく分からないが、湯を注ぐだけなら我にも出来そうだ」

自分にも簡単に出来そうな方法だと分かり、九段が嬉しそうに笑う。
折り紙が得意なので手先が不器用というわけではないのだが、生まれてこの方炊事などしたことがないので、本当に自分に出来るのか多少の不安があったのだ。

「じゃあ、食べ終わったら買いに行きましょう」
「うむ」



そうして、買って来たドリップバッグの淹れ方を教えてもらい、一日一杯ずつ飲んでみることにしたのだった。





◇ ◇ ◇





「――そんなわけで、まだ少しずつではあるが、我は一昨日から珈琲を飲み始めたのだ」


九段が話し終えるのを、梓は呆然とした面持ちで見つめていた。
こうと決めたら行動を起こすのが早い人だと知ってはいるが、いきなり苦手な物を毎日飲むことにして大丈夫なのだろうかと心配になる。レギュラーコーヒーは濃いものを飲むと、人によっては頭痛がすることがあるらしいと聞いたことがあったからだ。
梓の表情の変化に気付いたのか、九段が微笑みながらこんなことを言ってきた。

「“ドリップコーヒー”も、初めて自分で淹れたのだぞ」

生まれて初めて自分で珈琲を淹れたことを褒めてくれと言わんばかりの口調であるが、梓が心配しているのを感じ、安心させようと彼が敢えて明るい調子でそう言ったであろうことは、梓にも容易に感じ取ることが出来た。

(もう、本当に他人のことばっかり気遣って……)

梓が九段が頭痛に襲われることを何よりも心配するのは、やはり帝都でのあの邪神の鱗の件があったからだった。酷い頭痛に苦しむ彼の姿を何度も見たから、二度とあんな苦しい思いをさせたくないと考えてしまうのである。珈琲に慣れない彼が珈琲が原因で頭痛になったとしても、あれ程酷くはならないであろうことは、分かってはいるのだが――。

その時、先程のウエトイレスがケーキと珈琲を載せた盆を持って、二人のテーブルにやって来た。それをきっかけに、会話が途切れる。

「お待たせしました」

ウエイトレスは二人にそう声を掛けると、手際よく二人の前に苺のショートケーキとホットコーヒーを置いて行く。その様子を、二人は無言のまま見守った。

「どうぞ、ごゆっくり」

そう言うと、ウエイトレスは空の盆を持って、カウンターの方に去って行った。
その背を見送ると、漸く九段が梓に声を掛けた。

「では、食べようか」
「はい」

短く答えた後、梓はミルクピッチャーを手に取った。コーヒーカップに適量注ぐと、スプーンを手に取る。
ふと、顔を上げて九段の方を見ると、彼はシュガーポッドを自分の方に引き寄せ、砂糖をカップに落としていた。――スプーンに山盛りのグラニュー糖を四杯である。

「梓は、砂糖は不要だったな?」
「はい。私はミルクだけです」

梓の返事を聞いて、九段はシュガーポッドを元の位置に片付けると、スプーンで珈琲を掻き混ぜ始めた。梓はミルクだけなので軽く混ぜただけだが、砂糖を四つも入れた九段は、それがすべて溶けるまで念入りに掻き混ぜている。
それを終え、スプーンをソーサーの上に戻すと、両手を合わせる。

「では、いただく」
「いただきます」

律儀に食前の挨拶をする九段の後に梓も続いたが、コーヒーカップを手に持ったものの直ぐには口を付けず、恋人の一挙手一投足を見逃さないよう注目した。
真っ先にお目当てのショートケーキに飛びつくかと思ったが、梓の予想に反し、九段はコーヒーカップを手に取った。先に珈琲を飲むらしい。
彼がカップに口を付けるのを、梓はカップを手に持ったまま、固唾を飲んで見守っていた。

「やはり、苦いな……」

ホットコーヒーを一口飲んで、九段が呟く。
砂糖を四つも入れた珈琲をどうしてそんなに苦そうな顔で飲めるのか問い質したい気がしなくもないが、個人の嗜好の問題であるので、梓は黙っておいた。

「梓が好きな物を、我も共に楽しみたいと思うのだが、まだまだ道程は長いようだな……」

しゅんとした表情を浮かべ、本当に残念そうな声音でそう言う九段を見て、梓は笑みを浮かべた。珈琲を飲み始めてまだ三日目なのだから、そう直ぐには味に対する印象が変わることはないだろう。

『梓は珈琲が好きよ。あなたも飲み慣れないと、梓が好きな物を二人で楽しめないわよ?』

九段が祖母のその言葉を真に受けて珈琲を好きになろうとしているのは、先程の話からも明らかだった。
彼は他人の言葉を素直に受け取り過ぎるのだ。梓が好きな物を九段が苦手だからと言って、梓が彼を厭うことなどあり得ないし、無理に好きになって欲しいとは思わない。むしろ、苦手な物を無理して食べたり飲んだりする彼の姿を見る方が嫌だと思う。だから先日も、人参嫌いの彼でも食べられそうなキャロットケーキを作ったわけであるし……。
それに、二人で楽しむのならば、他にも方法はあるのだ。
豊富な知識を持ち、聡い九段だが、こんな簡単なことに気付いていないのだろうか。

(本当に、肝心なことが抜けているんだから……)

だが、彼のそんな部分も可愛いと思ってしまうのは、惚れた弱みというものだろうか。
千代の言葉を素直に受け取り、真面目に悩んでいるらしい九段に、梓は自分の考えを提案することにした。

「でも、九段さんが珈琲が苦手でも問題ないですよ」
「何故だ?」

意外そうな表情を浮かべた九段に、梓は微笑みながら告げた。

「だって、二人で楽しむのなら、九段さんが好きな物を楽しめばいいだけだから……」

梓が口にした言葉を聞いて、九段が目を瞠っている。やはり梓が予想した通り、自分の好きな物を梓と一緒に楽しめばいいのだとは、全く考えていなかったようだ。

「例えば、この間一緒にアイスクリンを食べましたよね? あれも九段さんが好きな物を二人で楽しんだことになりませんか?」

アイスクリンは九段の大好物だ。
梓が言わんとしたことを察して、九段は漸く笑顔を見せた。

「ああ、そうだな。――さすが梓だ。良いことを言ってくれた。ぬしが我の好物を我と共に食することを楽しめたのであれば、嬉しいと思う」
「もちろん。アイスクリンは私も大好きだし。また今度作って一緒に食べましょう」
「楽しみにしている」

梓も微笑んだ。彼の落ち込んだ表情を見るのは苦手なのだ。
しかし、安心したのも束の間、九段はまた笑みを消して浮かない表情を浮かべている。

「だが、やはり梓が好きな物を早く好きになりたいと思うぞ」
「九段さんが『梓が好きな物を好きになりたい』って言ってくれたこと、とても嬉しいですけど、まだ慣れていないのに、無理して珈琲を飲まなくてもいいですから。急がなくても、もう少し珈琲に慣れて、九段さんが『飲みたい』と思えるようになった時に、二人で楽しめればいいでしょう?」
「……分かった。だが、不本意な事だが、心から『飲みたい』と思えるまでには、まだ時間がかかりそうだ」
「無理しなくても良いですから」

残念そうに言う九段に、梓はもう一度念を押した後、言葉を継いだ。

「それに、私が好きな物は珈琲だけじゃないし……」
「なに!? まことか?」

梓の言葉に、九段が弾かれたように声を上げた。
やはり、彼は気付いていなかったらしい。
九段がどうしても梓が好きな物を二人で楽しみたいと思うのならば、なにも珈琲だけにこだわらなくても梓が好きな物など沢山あるのだから、その中から九段もまた好きな物を選べばいいだけなのだ。

「はい。例えば、先月二人でチョコレートケーキを食べましたよね?」
「うむ」

先月も今日と同じように、二人で映画を観に行った後、駅の近くで喫茶店に入ったことがあった。その時のことを言っているのだと、九段にも伝わったようだ。

「チョコレートケーキは私の好物なんです。あの時、九段さんもチョコレートケーキを気に入ったって言っていましたよね?」

厳密に言うと、ケーキならチーズケーキの方が好きなのだが、これまで見て来た九段の嗜好から、彼はチーズの味を好まないだろうと予想し、梓は二番目に好きなケーキであるチョコレートケーキの名を挙げた。チョコレートなら九段も好きだと言っていたから。

「九段さんが気付いていないだけで、ちゃんと私が好きな物も二人で楽しめているんですよ」

梓が笑顔で言う。それで漸く納得したのか、九段が頷いた。

「……そうか…。そうだな……」
「それに、今日はもう一つ、好きな物が増えるかもしれないし」

目の前の苺ショートのことを指して言っているのだと悟り、九段が笑みを浮かべた。
暫くの間見つめ合っていた二人は、やがて同時にフォークを手に取り、お目当てのケーキを食べ始めた。

「どうですか、九段さん?」

一口食べて笑みを浮かべた九段に、梓が問い掛ける。訊かなくても、その笑みを見ただけで、答えは予想できたのだが。

「うむ、あの雑誌に書かれていた“口コミ”とやらは正しかったようだ。我好みの甘くて美味なケーキだな」
「ふふ、私もこのケーキは好きです。また食べに来たいと思うくらい」
「まことか? では、これでぬしと共に楽しめる物がまた一つ増えたのだな」

本当に嬉しそうに九段が微笑む。子供のように純真な面を持つ彼は喜怒哀楽を素直に表すため、また一つ好きな物を共有できたことを心から喜んでいるらしいことが、梓にも見て取れた。


「ぬしと我の共通の好物が増えることは嬉しいものだな。だから、珈琲も好きになりたいと思うぞ」


そう話しながら、また一口珈琲を飲む九段を、梓は微笑みながら見つめていた。
――好きな人が好きな物を、自分も好きになりたい――。
そう思う気持ちは、梓にもあった。
苦手な珈琲を無理に好きになってもらわなくても構わないという思いももちろんあるが、もし彼が自分が好きな物を好きになってくれたら嬉しいことも事実である。

「私も、九段さんが好きな物を好きになりたいと思っていますから。二人で好きな物を増やしていけるって、素敵なことですよね」

それはつまり、二人がこれからもずっと一緒にいて、同じ未来に向かって共に歩んでいくということに他ならないから。

「うむ。これからもぬしと同じ時間を過ごし、ぬしと共にこの世界の沢山の食べ物を好きになれたら良いと思う」

食いしん坊な彼らしい言葉ではあるが、梓の思いはちゃんと伝わっているようだ。


何よりも大切なことは、二人が一緒にいることだ。
そして、いずれは元の世界を捨てて結ばれた祖父母のようになれればいいと梓は思う。


好きな人と同じ時を過ごせる幸せを噛みしめながら、梓は再びカップに口を付けた。







〜了〜


あ と が き
「初めての味」を書いていた時、ケーキを食べるのなら紅茶を飲むのかなと思い、途中で梓に紅茶を用意してもらうという流れで話を作っていました。でも、書いているうちに色々と盛り込み過ぎて、あまりに冗長になり過ぎたので、飲み物に関する部分をカットして、別途SSとして書くことにしました。それがこのお話です。予定ではもう少し短い話だったのですが、毎度のことながらのびてしまいました……(^^;
千代の「二人で楽しめない」という発言は「初めての味」でカットしたセリフなのですが、恋愛初心者の九段さんは、きっと恋人が好きな物を自分も好きになりたいと考えるだろうと思い、それを中心に話を組み立て直してみました。まだまだ時間がかかりそうですが、九段さんにも珈琲が美味しく飲める日が来るといいですね。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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