飴と鞭の使い方
孫娘の梓に恋人が出来たのは、妻が入院中のことだった。
六月のある日のこと、それまで恋人のいる気配が全くなかった梓が、入院している妻の見舞いの後、私が一人留守番をする家を訪れ、恋人を紹介したのだ。

――さっき、おばあちゃんにも紹介して来たから。

恥ずかしいのか、少し頬を赤らめながら、そう言って……。

だが、私も妻も、彼のことは梓よりも古くから知っていた。
彼は妻・千代の幼馴染であり、彼の邸の隣に在った妻の実家に書生として住み込んでいた私とも面識があったからだ。
妻が梓に託した手紙を読み、妻と私の正体を知っている彼は、このような再会が実現したことに、梓の隣で、梓には分からないように、少し困惑したような表情で苦笑していた。

――萩尾九段だ。よろしく頼む。

梓に紹介された彼は、苦笑を見慣れた微笑に変えると、あの頃と変わらぬ古風な言葉遣いでそう言った。

龍神の神子の伝承が息づくあの世界で出会い、今また孫娘の恋人としてこちらの世界で彼と再会した。
このような奇跡が起きたのは、すべて龍神の思し召しであったのか――。


そして今、神子の役目を終えた梓と共に時空を越えてこの世界にやって来た彼は、梓と妻の勧めに従い、私たち夫婦と共に暮らしている。





◇ ◇ ◇





「――九段。何度言ったら分かるの?」


千代さんの不機嫌そうな声音に、声を掛けられた萩尾様もまた、むっとしたように顔を顰めた。

(また始まったか……)
私は心の中で溜息を吐きながら呟いた。
――普段は私が嫉妬してしまいそうなくらい仲の良い幼馴染同士なのに、食事に関してはどうしてこうも衝突することが多いのか――…。
私はそう思いながら、食卓の上に目を遣った。
今夜の献立は、肉じゃが、鰤の照り焼き、いかと分葱のぬた、そしてわかめと榎茸のお吸い物だ。
千代さんの料理は、愛する妻の手料理であるという私の欲目を抜いても、どれも本当に美味しい。今、食卓を挟んで千代さんと睨み合っている萩尾様もそれは認めていて、大抵の料理は残さず食べていた。
問題は、今夜の主菜の肉じゃがだ。
萩尾様の前に置かれた器をちらりと覗いてみると、肉じゃがが盛られていた器の中に、人参だけが端の方(しかもご丁寧にも自分からは一番遠い位置である)に寄せられ綺麗に残っている。
千代さんの不機嫌の原因は、これだ。
千代さん曰く、“食いしん坊”な彼は基本的に何でも食べるが、人参だけはどうも苦手らしいのだ。

「む…。我は人参が苦手なのだ。ぬしも知っているであろう?」
「いつまでも子供みたいなこと言わないの。ほら、さっさと食べなさい」

反論する萩尾様に、千代さんはぴしゃりと言い放った。
こういう時の千代さんは容赦ない。幼い頃から仲が良く、気心の知れた幼馴染が相手であるから尚更だ。
萩尾様の方を見ると、分が悪いと感じたのか、視線を逸らし、むすりとした表情のまま押し黙っている。
会話だけを聞いていると、まるで駄々を捏ねる幼い子供とそれを叱る母親のようで、私は笑いを誘われた。
(萩尾様にこのような子供っぽい部分があるとは、意外だったな……)
梓がこちらの世界にやって来た萩尾様をこの家に連れて来た日から、彼とひとつ屋根の下で暮らすようになって、私は向こうの世界では知り得なかった萩尾様の意外な一面を知ることになった。



私が世話になっていた駒野の邸の隣家だった萩尾様の家は、星の一族の血筋の家として周囲に知られていた。星の一族のことは、向こうの世界では知らぬ者がいないほど有名だ。龍の宝玉を守り、龍神の神子に仕える一族と広く知られていたが故に、彼の家は近所の者達から特別視されており、一歩距離を置かれているようだった。
そんな特別な家の方だったから、私も彼と出会うことがあっても軽く会釈して挨拶する程度で、言葉を交わしたことはなかった。もっとも、学校に通うこともなく、自宅に籠って将来担うべき役目のために知識を蓄えたり修業をしたりしていたらしい彼と道端で出会うことなど、ほとんどなかったのだが。
彼の姿を見かけるのは、彼が千代さんと一緒にいる時のことが多かった。書生として駒野の邸で暮らすようになった日、初めて顔を合わせた千代さんに一目惚れして以来、私の目が無意識に彼女の姿を追うことが多かった所為だろう。
庭で楽しげに立ち話をする二人を初めて見かけた時、千代さんより二歳年上の彼は、同じ年頃の少年達より背が高く、上品で落ち着いた雰囲気を纏っていたこともあり、実際の年齢よりも大人びて見えた。
千代さんに近しい彼の存在を知り、しかも特別な家の方だと分かって、てっきり失恋したと考えた私だったが、どうやら彼らの間には恋愛感情というものが存在しないらしいということに気が付くのに、それほど時間はかからなかった。
彼らにとって互いの存在は、私が駒野の邸に来た頃には、既に家族のようなものになっていたのだ。

『九段はあれで子供っぽいところがあって、手を焼くこともあるのよ』

かつて千代さんが言っていた言葉である。
それまで、私の萩尾様に対する印象は「特別な家の方で大人びた方だ」というものだったので、それを聞いた時は信じられない思いだったが、今目の前で人参を巡って千代さんと言い争う姿を見るに、千代さんの言葉は嘘ではなかったのだと思い直した。
星の一族の末裔であり、一時は千代さんを巡る恋敵と思い込んでしまったということもあって、あの頃は私も萩尾の邸の近所の者達と同様、意図的に彼とは距離を置いていたのだが、目の前で千代さんにやり込められている姿を見ていると、俄かに親近感が湧いて来て、彼の肩を持ちたくなって来た。



「まったく…。あなたの人参嫌いには萩尾の小母様も手を焼いたと聞いていたけれど、その歳になってもまだ好き嫌いが治らないなんて……」
「苦手なものは苦手なのだ。歳は関係なかろう?」

呆れたように千代さんが言うと、黙り込んでいた萩尾様が言い返した。
しかし、その声には心なしか力強さがない。言い返せば、千代さんから透かさず反撃が来ることを予測してのことだろう。付き合いの長い幼馴染であるが故に、二人とも相手の出方を熟知しているのだ。

「あら、甘い物ならいくらでも食べられるのでしょう? 肉じゃがの人参だって甘いじゃないの。何故食べられないの?」

ツンと澄ました顔で千代さんが問う。明らかにからかいと少しの意地悪が含まれた口調だ。
だが、千代さんが繰り返し好き嫌いしないようにと諭すのは、彼の身体を気遣ってのことだ。長い年月夫婦として過ごして来た私には、それが分かった。恐らくそれは、幼い頃から千代さんと時間を共有して来た彼も、重々承知のことだろう。

「……人参は甘味ではないぞ、千代……」

その証拠に、反論する声も小声である。
私は可笑しくなって苦笑いを浮かべたのだが、向かいに座る萩尾様の目に留まったらしく、むっとした表情で睨まれてしまった。親に叱られて拗ねた幼い子供のようなその様子も、私の彼に対する「特別な家の方で近寄りがたい」という印象を壊すのに十分だった。
私は千代さんに言われっ放しの彼が気の毒になり、仲裁に入ることにした。

「まあまあ、千代さん。今まで一番苦手だった物を、そう直ぐに食べられるようにはならないよ」

声を掛けると、萩尾様と睨み合っていた千代さんが漸く私の方を向いた。「何を言うの?」と書いてあるような顔で、キッと私の顔を睨む。その表情に一瞬怯みそうになったが、それを隠し、この場がこれ以上緊迫しないよう、飽く迄も穏やかな態度を崩さず言葉を継いでみる。

「特に、ほら、肉じゃがの人参なんて、他の料理より大きめに切るだろう? 苦手な人には食べにくいんじゃないかな」
「うむ。進之助は良く分かっているな。理解のある男が千代の夫で、我は嬉しいぞ」

私という援軍を得られた所為か、息を吹き返したように元気を取り戻した萩尾様が、にこやかな笑顔でそう言った。
意外と単純な人だ。
純粋な子供のようなその反応がなにやら可愛く思えて、私は千代さんから睨まれていることも忘れて思わず微笑み返していた。
恐らく千代さんの目には、男二人で結託しているように見えたことだろう。当然、千代さんは私が彼の肩を持つことを快く思ってはいない。彼のためにならないと考えているからだ。
案の定、千代さんが私に矛先を転じて不平を漏らした。

「あなたは九段に甘過ぎるわ」
「そうかな? でも、もっと人参が食べやすい料理から慣れていくこともできるんじゃないかい? 例えばもっと細かく刻んで料理されているものとか……」

千代さんと私の向かいでは、萩尾様が期待を込めた目でこちらを見つめながら、私たちの遣り取りに耳を傾けている。今後はともかく、取り敢えず今目の前に在る人参を食べずに済ませたいと考えていることが、その表情からも読み取れる。

「でも、ひじきの煮物みたいな細切りのものでも、九段は人参だけ綺麗に除けて食べていたでしょう? 除けるほうが面倒なのに……」

ぶつぶつと千代さんが言う。
記憶を辿ってみると、確かにその通りだったように思う。

「う〜ん……」

私が唸りながら考え込む仕草を見せると、折角自分の側に付いた味方が相手側に乗り換えるかもしれないという懸念を抱いたのか、萩尾様の表情が期待に満ちたものから心配そうな表情に変わる。
本当に、面白いくらい素直な人だ。
そのくせ、いざという時にはとても頼りになる人だということは、こちらの世界に千代さんと二人でやって来た時、あの日帝都で何が起きたのか、そして何故白龍の神子だった千代さんが龍神により異世界へ送られることになったのか、千代さん自身の口から語られた話からもよく分かった。
彼は力を失くしながらも、梓と帝都を守り、星の一族としての使命を全うしたのだという。白龍からそう教えられたのだと、千代さんから聞いた。人の力では抗うことの難しい邪神を相手にしても、彼は決して明るい未来を諦めず、仲間たちと共に戦ったのだと――。
(梓もきっと、彼のそんなところに惹かれたんだろうな……)
学校からの帰り、毎日のように家に寄り、彼との愛を育んでいる孫娘に思いを馳せると、自然と口元が緩んだ。
私が梓の事を考えていると、それが伝わったかのようなタイミングの良さで、千代さんが梓の名前を持ち出した。

「それに、九段がいつまでも好き嫌いをしていたら、梓が困ることになるわ」
「何っ!? 千代! 『梓が困る』とは、どういうことだ!?」

梓の名前が出た途端、萩尾様は弾かれたように千代さんに視線を向けると、顔色を変えてそう叫んだ。
千代さんがこれから何を言おうとしているのか察した私は、純粋で素直な彼が彼女の策にすっかり嵌ってしまったことを感じた。
――これは千代さんの勝ちだな。
そう考えた私は、これ以上口を挟まず、二人の会話を黙って聴くことにした。

「あの子に料理を教えたのは私よ、九段。だから、将来梓があなたと結婚したら、きっと今の私と同じように、あなたに苦手な人参を食べさせようと、私以上に色々と工夫すると思うわ」
「何故、梓がそのようなことを……?」

心底驚いた様子で訊ねる幼馴染に、千代さんは「分かってないわね」とでも言いたげに小さく首を横に振ると、次のように彼に告げた。

「好きな人に健康でいてもらえるよう、栄養のバランスを考えて食事を作るのは女として当然の事でしょう? 梓ならきっと、あなたの身体のことを考えて、そうするに違いないわ。それを残したりなんかしたら、梓はなんて思うかしらね?」

千代さんのその言葉は、私の耳には悪魔の囁きのように聞こえた。
萩尾様はというと、千代さんの言葉に強い衝撃を受けたらしく、大きく目を見開いたまま、固まったようにすべての動きを止めて呆然としている。
当然の反応だろう。萩尾様にとって梓は、この世のすべてを引き換えにしたとしても惜しくはない存在であるはずだ。彼は星の一族の末裔という立場も、帝国軍の相談役という地位も、京都で暮らす両親も、何もかも捨てて、梓の手を取り、こちらの世界にやって来たのだから。
数十年前彼と同じ立場であった私には、彼の気持ちが手に取るようによく分かった。

『それを残したりなんかしたら、梓はなんて思うかしらね?』

恐らく、今彼の耳元では、千代さんのこの言葉が繰り返し響いているに違いない。
そんな些細な事で嫌うようなら、梓は彼をこの世界に連れて来たりはしまい。何よりも、自分が生まれ育った世界を捨ててまで一緒にいたいと願うほどに、好き合っている二人だ。
だが、第三者には自明の理であるにもかかわらず、当人にとってはそうではないらしい。
今、彼の心を占めているのは、「もし梓に嫌われたら――」という不安であるはずだ。相手の自分への想いを疑うつもりはなくとも、恋愛をしていると、そういう不安に駆られることは良くあることだ。
もっとも、彼自身も知らぬ間に心の片隅に芽生えていたであろう不安を煽ったのは、他ならぬ千代さんなのだが……。
これも、大切な幼馴染であり、可愛い孫娘の恋人でもある彼に、好き嫌いをしないよう考えを改めさせるためにとった、千代さんの戦略だ。

呆然としていた萩尾様が、突然はっとしたように食卓に目を向けた。
彼の視線の先に在るのは、人参だけが綺麗に残された肉じゃがが盛られていた器だ。
暫くの間それを凝視していた彼は、やがてごくりと唾を飲み込むと、腹を括ったらしく、無言のまま箸を手に取り人参を食べ始めた。
時折不快そうに顔を顰めながらも、黙々と苦手なはずの人参を食べ続ける彼を見て、愛の力は偉大なものだと感動すら覚えた。
ふと横に目を遣ると、千代さんが微かに笑みを浮かべて萩尾様を見ていた。顔に出ないように抑えているようだが、明らかに嬉しそうだ。
私の視線に気付いてこちらを向いた千代さんと目が合ったのだが、彼女は一瞬ばつの悪そうな表情を浮かべた後、また黙々と人参を食べる幼馴染に視線を戻した。その横顔には笑みが戻っている。
年齢を重ねても、千代さんの笑顔は素敵だ。私は思わず見惚れてしまった。

最後の人参を食べ終え、一瞬だけ顔を顰めた後、萩尾様は箸を置いた。口直しのためか、お茶を一口飲むと、両手を合わせる。

「ごちそうさま」

きちんと手を合わせて食後の挨拶をするあたり、育ちの良さが表れている。
その後、彼は椅子から立ち上がった。常であれば使った食器の片付けを手伝う彼だが、今日は違った。どうやら二階の自室に戻ろうとしているらしい。
だが、それは苦手な物を無理に食べさせた千代さんに対して腹を立てているからでは決してない。千代さんが自分のためを思って言ってくれていることを、彼はちゃんと理解しているからだ。
では何故、そそくさと自室に下がろうとしているのか――。
恐らく自室に置いてある菓子で口直しをしたいからだろう、と私は推測した。彼の自室には、甘い物好きな彼のために、梓が手作りしたり買って来たりした菓子類が置いてあるのだ。梓は私たちの分も持って来てくれることが多いから、私はそのことを知っていた。

「あ、九段。ちょっと待って頂戴」
「――なんだ?」

呼び止めた千代さんに不機嫌そうな声で応えながらも、萩尾様は足を止めた。
千代さんが倒れたと噂に聞いて駆け付けた帝都の病院の廊下で、梓を抱き寄せていた彼に声を掛けて二人の邪魔をしてしまった時と全く同じ、機嫌の悪さが滲み出た声音だ。
彼が千代さんに対してこのような態度で接することは、非常に珍しい。早く口直ししたいと急いでいたところを呼び止められた所為だろう。
振り返った彼は、袂で口元を隠し眉根を寄せていた。余程人参の味が苦手なようだ。
千代さんも当然彼の不機嫌な様子に気付いているのだろうが、何事もなかったかのように立ち上がると、冷凍庫を開けて、中から何か取り出した。
冷凍庫の扉を閉めてこちらを振り返った千代さんの手には、ガラスの器に盛られたアイスクリンがあった。こちらの世界に来てからレシピを覚え、夏場に時々彼女が手作りしてくれるようになったものだ。
(ああ、昼間彼が図書館に出掛けている間にアイスクリンを作っていたのは、このためだったのか)
そう言えば、今年は梅雨時に入院していたこともあって、千代さんがアイスクリンを作ったのは初めてだった。
それが仲の良い幼馴染のためだと分かり、私は少しばかり嫉妬の念を抱いてしまう。

「はい。頑張ったから、ご褒美よ」

千代さんが空になった食器を端に寄せ、スプーンと一緒に彼が座っていた席の前にそれを置く。
すると、それを目にした途端、彼の目がキラキラと輝き始めた。

「おおっ! アイスクリンではないか!」

部屋に戻りかけていた足を再び食卓に向け、いそいそと椅子に腰掛けると、スプーンを手に取る。先程までの不機嫌さは既にどこかに行ってしまったようだ。
本当に、分かりやすい人だ。特に食べ物に関しては……。
甘い物が大好きな彼は、どうやらアイスクリンが好物のようだ。
向こうの世界にもあったそれは、シャーベットのように食感がシャリシャリとしていて、あっさりとした味である。口直しには持って来いだろう。
スプーンで掬ったアイスクリンを口に入れると、萩尾様は先程までとは打って変わってにこやかな笑みを浮かべた。

「うむ、美味だ。――まさか、これは千代が作ったのか?」
「そうよ。意外と簡単にできるの。作り方は梓にも教えてあるから、学校が休みの日にでも家で作ってもらいなさいな」
「梓の手作りか…。それは楽しみだな」

言いながらも忙しなくスプーンを動かしている。
それを優しい目で見つめていた千代さんが、再び冷凍庫を開け、アイスクリンが入った器を二つ取り出した。どうやら私たちの分もあったらしい。

「あなたも食べるでしょ?」
「ああ、もらうよ」

千代さんが差し出した器とスプーンを受け取り、私もアイスクリンを食べ始めた。千代さんも椅子に座り、食後のデザートの時間が始まる。
向こうの世界で生まれ育った三人でこうして食卓を囲み、向こうの世界にもあったアイスクリンを食べていると、まるであの世界の京都に帰ったような気分になった。
龍神に導かれるまま千代さんと二人でこちらの世界に来て、数十年の月日が流れた。既に生まれた世界で過ごした時間より、こちらで過ごした時間の方が遥かに長くなっている。子供が生まれ、孫もでき、こちらに来た当初感じていたような郷愁を覚えることもなくなっていた。
だが、萩尾様の存在は、私たち夫婦にとって、あちらの世界を懐かしむ良いきっかけとなっている。
もっとも、千代さんの方はこちらに来てからも頻繁に梓と萩尾様のことを考え、梓が黒龍の神子に選ばれる日を心待ちにしていたようだ。

『九段はきっと、梓と一緒にこの世界に来ると思うわ』

そう言って楽しそうに笑いながら、梓が高校に上がる前から、いつでも彼を迎え入れられるよう、子供たちが独立して空き部屋となっていた二階の和室を片付けたり、和装を好む彼のために着物を仕立てたりしていたから――。
本当に、仲が良すぎて嫉妬のひとつもしたくなる時があるが、不思議なことに私は彼のことが嫌いではない。もちろん、彼に対して長い間抱いていた「特別な家の方」という憧憬のような思いもその一因であろうが、それ以上に彼の人柄がそうさせるのだろう。
そんな事を考えていると、それまで忙しくスプーンを持つ手を動かしていた萩尾様が不意に手を止め、千代さんと私に微笑みかけた。

「ぬしらとこうしてアイスクリンを食していると、なにやら懐かしい気分になるな」

今私が感じていたのと同じ事を、萩尾様が言った。
こちらにやって来てまだ日が浅い彼にとって、故郷は私たちより近いところにあるのだと、今更ながらに気付く。

「……そうですね」

答えながら、私は梓のために故郷を捨てる決意をした彼が、少しでも早くこちらの世界に慣れることができるよう、梓や千代さんと共に手助けしようと考えていた。





先にアイスクリンを食べ終えた萩尾様が自室に戻り、千代さんと二人きりになるのを見計らって、私は千代さんに声をかけた。

「なんだかんだ言って、君も萩尾様には甘いんだね」

先程「あなたは九段に甘すぎる」と言われたことへの意趣返しのつもりはなく、本心からそう思ったのだが、千代さんには意趣返しと聞こえてしまったようだ。
彼女は僅かに顔を顰めツンと横を向くと、

「……あまり九段を苛めて梓に嫌われたくないもの」

と言った。千代さんらしいその言葉に、私は思わず笑い声を上げてしまい、再度彼女から睨まれることになってしまった。

「でも、なんだか分かるな。彼に甘くなってしまうのも……」
「……どうしてそう思うの?」

私が漏らした言葉を訝しく思ったのか、千代さんが訊ねた。
――千代さんは本当に気付いていないのだろうか。多分、彼女も同じ理由で彼に甘いのだと思うけれど……。
そう思いながら、私は彼女の問いに答えた。

「だって、彼、とても純粋で素直じゃないか。さっきだって、君が梓の名前を出した途端、あんなに食べるのを嫌がっていた人参を食べ始めたし…。星の一族の方にこんなことを思うなんて、向こうじゃ考えられなかったことだけど、彼、なんだか可愛いよね」
「もう、進さんったら、やっぱり九段に甘過ぎるわよ。飴と鞭は使い分けが肝心よ」

――なるほど。アイスクリンは飴か。しかし、今から二人の将来のためにわざわざ千代さんが鞭を振るわなくとも、梓の手料理なら人参が入っていようがいまいが、彼は何でも喜んで食べそうだが……。

そんな事を考えたのだが、不意にある事に気付き、私はドキッとする。
千代さんから名前で呼ばれたのは随分と久しぶりのことだ。
子供が生まれてからは「お父さん」と呼ばれ、孫の前では「おじいちゃん」と呼ばれていたから。

「進さん? どうかした?」

私が返事もせず、ぼうっとしてしまった所為か、千代さんが訝しげに問いかけて来た。

「あ…いや…。萩尾様と暮らすようになってから、なんだか自分も若返ったみたいな気分だなと思って……」

私の言葉を聞いた千代さんが目を瞠る。それを聞いて初めて、自分が私のことを名前で呼んだことに気が付いたようだった。

「ふふっ…。そうかもしれないわね」

千代さんと私が向こうの世界を後にした日と同じ日に、役目を終えた梓と萩尾様も向こうの世界を後にしたと聞いている。だが、着いた先の年代は大きく違っていた。私たちが今から数十年も前の時代に辿り着いたのに対し、彼らは梓が神子として召喚された日にこちらに着いている。そのため、萩尾様にとって私たちは彼の知らぬ間に随分年を取っていることになるが、私たちにとって萩尾様は別れた時の姿のままなのだ。
そのようなことになったのは、千代さんの願いを白龍が叶えたからだった。
――つまり、黒龍の神子として召喚された梓が自分の孫として生まれて来るように、と……。
だから、彼といると、私たちもあの日に帰ったように感じるのだろう。


――できれば、彼には梓と一緒になるまでこの家にいてもらいたいけれど、前向きで、おっとりとした話し方や見かけの印象に反して行動力のある彼は、いつまでも私たちの世話になることを良しとせず、近い将来自立するかもしれない。

そう千代さんに話してみると、

「あら。人参が食べられるようになるまで、この家から出さないわよ」

あっさりと否定されてしまった。
しかし、千代さんの言葉の裏には、できるだけ長く萩尾様にこの家にいてもらいたいと思う気持ちが見え隠れしている。彼がいれば、以前よりも頻繁に梓がこの家を訪ねて来てくれる。それに、向こうでも世間知らずだった彼がこの世界に早く慣れることができるよう、まだ高校生で勉学に忙しい梓の手が回らない部分については自分が世話をしたいという思いがあるのかもしれない。何より、彼がいると賑やかだ。子供たちがこの家から巣立って久しいので、やはり淋しいのだろう。
素直すぎる幼馴染に対して、こちらは少し素直ではないようだ。まあ、千代さんの場合は強がっているだけなのだろうが。
千代さんのためにも彼にはずっとこの家にいてもらいたいが、人参を使った料理が出されるたびに険悪な雰囲気になる二人を見たくはない。萩尾様と千代さんには、昔萩尾の邸の庭で見かけた時のように、互いに微笑み合いながら楽しげに話していてもらいたいと思う。なんだかんだ言っても、結局私は二人にはずっと仲の良い幼馴染でいてもらいたいのだ。

(ここは、やはり梓の力を借りるべきだろうか……)

「梓が困る」と言われただけで直ぐに態度を変えた彼のことだから、梓からのひと押しがあれば、意外と早く好き嫌いを克服できそうだ。そうなったらなったで、飴と鞭を使って幼馴染の好き嫌いを矯正しようとしている千代さんは張り合いを無くすかもしれないが。

「――進さん?」

黙り込んでしまった私に、心配そうに千代さんが呼び掛けた。

「ああ、何でもない。少し考え事をしていただけだよ」

そう答えながら、頭の中では後で梓に電話しようと考えていた。
すると、千代さんは突然小さく笑うと、嬉しそうに言った。

「でも、本当に嬉しい……」
「何がだい?」
「九段をこの家に呼んだこと、あなたは嫌だったんじゃないかって思っていたから……」

千代さんの言葉に私は驚いた。彼女がそんな事を考えていたなど、思いも寄らなかったからだ。

「そんなこと、あるわけないじゃないか。彼は千代さんの大事な幼馴染で、梓の大切な人なんだから」

慌てて千代さんの言葉を否定する。
千代さんに言われるまでもなく、私も萩尾様は梓と一緒にこちらに来るだろうと考えていたのだ。何故なら、麻布記念病院で出会った際、互いに惹かれ合う彼らの姿をこの目で見たことがあったからだ。
あの時は目の前にいる黒龍の神子が、まさか未来の自分の孫だとは想像だにしなかったが、萩尾様はとにかく分かりやすい人なので、梓に好意を持っていることは直ぐに分かった。それに、梓は赤ん坊の頃からその成長を見守って来た可愛い孫だ。後々あの時の梓の様子を思い出してみると、彼女の方も萩尾様に好意を抱いていたであろうことは想像できた。
だから私も、彼を迎える準備を進める千代さんを傍で見ながら、梓が彼を連れて来るのを待っていたのだ。
そう告げると、千代さんは驚いたようだ。

「それに、我々も彼との生活を楽しんでいるだろう? きっと、彼もこの生活を楽しんでくれていると思うよ」

龍神が守護するあの世界で出会い、龍神の導きによりこの地に集った、かけがえのない存在――。
梓の運命の人である以上、彼は私にとっても既に家族のようなものだ。


「――だから、できるだけ長くこの生活が続くことを願っているよ」


私は本心からそう言った。


――できれば、梓と結ばれた後も、梓と共にずっとここに住んでくれたらいい。


そんなことを考えながら――…。







〜了〜


あ と が き
初書きの「遙か6」の創作です。
「遙か6」をプレイして、今までとは全く萌え路線の違う九段さんにハマってしまいました。天の玄武らしく優しくて、天然で可愛いキャラでありながら、非常に前向きで行動力も統率力もあり、すごく男らしい性格をしている、というギャップに惹かれたのでした。泰明さんや泰継さんと路線が全く違うし、世間知らずな天然キャラということもあり、「今度こそ心置きなくギャグが書けそう」と妄想し始め、最初に浮かんだ話がこのお話です。
ゲーム中、千代が九段さんは偏食だと言っていたのですが、メモリアルブックに書かれていた苦手な食べ物が人参だけだったので、そちらの情報を優先して、うちの九段さんは人参だけが苦手という設定になっています。
普段は所謂「三人称・神視点」で創作を書いている私ですが、進さんから見た九段さん、あるいは幼馴染の二人という視点が面白かったので、この話では進さんに語り部になってもらいました。思っていたより遥かに嵌ったかなと、個人的には大満足です^^ 書いていても楽しかったので、いずれまたこういう形式で書いてみたいと思います。村雨さん視点の玄武組の話とか面白そうですねv
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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