優しい雨
雨の音が聞こえる――…。


格子を上げた窓越しに、花梨はしとしとと降り続ける雨を眺めていた。
耳に届くのは、窓の外の雨の音と、室内で今朝採取した薬草の仕分けをしている泰継が時折立てる微かな衣擦れの音だけ。
静寂に包まれた庵に、二人だけの静かな時間が流れる。

(幸せ…だよね?)

花梨は霧のような雨に煙る北山の風景を眺めながら、口元を綻ばせた。




神泉苑での戦いの後、花梨は泰継の手を取り、彼と共に生きていくため京に残った。
龍神に召喚されてやって来たこの京――。
最初の頃はただ元の世界に帰りたくて、そのためだけに龍神の神子としての務めを果たしていたに過ぎなかった。だが京を守る戦いの中で、花梨は泰継と想いを交わすようになり、いつしか花梨にとって泰継は、掛け替えの無い大切な人となっていた。
だから、この京に残ることには、何の不安もなかった。いつも泰継が傍にいてくれる……。ただそれだけで、花梨は幸せだったのだ。
年が明けてからも、花梨は紫姫の館に留まり、京の風習や作法などを習った。生涯この京で――泰継の傍で生きていくのであれば、彼に恥をかかせてはいけないとの思いからのことだった。もっとも、泰継がそのような事を気にする性格ではないことは花梨も分かってはいたのだが、それでは自分が納得できなかったのだ。
そして桜の花が開く頃、二人は正式に夫婦となった。
現在は帝から賜った左京三条の土地に屋敷を建て、わずかな使用人と共に暮らしている。



花梨は、自分から少し離れた場所で黙々と作業を続ける泰継の方を見た。
昨日、薬草を採取するため北山へ行くと言う泰継に付いて、花梨も一緒に北山にやって来たのだった。結婚してからも二人は幾度かこの北山を訪れ、かつて泰継が独りで暮らしていた庵で二人だけの時間を過ごした。
以前、考えることが趣味だと花梨に話していた泰継だが、その他にも意外と趣味は多いらしい。花梨は彼と一緒に暮らすようになってから、その事を知った。
薬草の研究もそのうちの一つだ。読んだ書物に書いてあったことを自分の目で確かめてみるだけでは足りず、さらに深く研究しようとする探究心旺盛なところが実に泰継らしいと花梨は思った。今まで知らなかった彼の一面を知ることは、とても嬉しいことだ。
しかし、花梨自身は薬草に触ることは許されていない。毒のある草もあるため、泰継が花梨には絶対に触らせないのだ。泰継の作業を手伝うこともできず、仕方なく花梨は窓から外の風景を眺めていたのだった。


手際よく分別を進める泰継の様子に、花梨は微笑みを浮かべた。
こうして最愛の人と二人きりで過ごす優しい時間が、花梨は好きだった。

(ずっとこの幸せな時間が続いてくれますように――…)

何に対してかは自分でも分からないけれど、思わず祈ってしまう。


花梨は、視線を再び窓の外に移した。
午後になって降り始めた雨は、止むことなく降り続けている。庵の周辺の木々の葉も下草の葉も、雨に濡れて深い緑色に輝いている。
京に来てから幾度となく訪れた北山だったが、雨の降る北山に来たのは初めてだった。庵の窓から見えるのはいつもと変わらない山の風景なのだが、晴れの日と印象が違っているように思える。
――草木の緑色が濃い。
新緑の季節を迎えた山の緑は、太陽の光に照らされると、鮮やかな緑色に輝いて見えていた。しかし、雨に濡れると深い緑色に見える。
そう言えば現代にいた頃は、こうしてゆっくりと山の景色を眺めたことなどなかったように思う。
花梨は、窓から半ば身を乗り出すようにして、雨に煙る山の風景を眺めた。
雨に濡れたせいで、普段はあまり感じられない土の匂いがする。肥沃な大地が本来持つ独特の匂い――。それも現代では珍しくなってしまったものなので、花梨はその香りを楽しむかのように、大きく深呼吸した。
この雨のせいか、暖かくなってきたこの時期にしては珍しく、少し空気が冷たく感じられる。
思わず花梨はぶるっと身体を震わせた。
その時――…

ふわりと肩に何かが掛けられるのを感じて、花梨は窓から乗り出していた身体を起こし、肩越しに後ろを振り返った。
「泰継さん……」
振り向いた先に愛する人の顔を見つけ、花梨は微笑んだ。
「急に冷えてきたようだな。そろそろ格子を下ろしたほうがよい」
肩に小袿を掛けたせいで、その下に隠れてしまった花梨の後ろ髪を整えてやりながら、泰継は言った。
出逢った頃短かった花梨の髪は、今は肩を越えて背中に達するまでに伸びている。その長さは、二人が過ごしてきた時間の長さを表していた。
泰継がその長く繊細な指で、小袿を羽織った背中に流れる花梨の髪を愛しげに梳いてやると、花梨は小さく笑い声を上げて、くすぐったげに肩を竦めた。
その可愛い仕草が愛しくて、泰継は背後から小袿で花梨の身体を包むようにして、彼女を抱き寄せた。
「何を見ていた?」
抱き寄せた花梨の耳元で囁くように泰継が訊ねる。
「山の景色を見ていただけです」
花梨は、自分を抱き締める泰継の腕に手を重ねて答えた。
「山の景色?」
頭上で泰継の一つに纏められた髪がさらりと流れたのを感じ、花梨は彼が小首を傾げたらしいことを感じ取った。北山のこの庵にやって来たのは初めてではない。「庵の周りの景色など珍しくもないだろう」とでも言いたげな彼の反応に、花梨は思わず苦笑してしまう。
「だって、雨が降っている北山の景色を見たのって、初めてなんだもの」
「雨など、珍しくもないだろう」
予想通りの泰継の言葉に、花梨はくすくすと笑った。
「……花梨?」
訝しげに問い掛ける泰継に、花梨は笑うのを止めて、さっき自分が感じたことを彼に伝えようと言葉を継いだ。
「そんなことないですよ。晴れの日と違う景色に見えるもの。雨が降ると、木や草の緑色が濃く見えるんですね。私、初めて知りました」
花梨の言葉に、泰継は軽く目を瞠った。そのまま窓の外に視線を移す。
庵の周辺の草木や地面は、降り続ける雨にしっとりと濡れている。
ここに移り住んでから花梨と出逢うまでの七十五年間、泰継がずっと見てきた風景だ。しかし、確かに花梨の言う通り、泰継の目にも優しい雨に濡れた草木は生き生きとしているように見えた。
まもなく五月雨の季節を迎えようとしているこの時節、植物は一雨ごとに成長していくことだろう。
「……そうだな。私も初めて気が付いた」
泰継にとって花梨と共に見る風景は、いつも優しい。
そして、花梨はいつも泰継に新しい発見を齎してくれる。彼女のおかげで泰継が初めて知ったことは多かった。
万物に降り注ぎ、生命を育む――この慈愛に満ちた優しい雨は、まるで花梨のようだと泰継は思う。
何ものにも代え難い、愛しい存在……。
花梨さえ傍にいてくれれば、他には何もいらないと思った。
泰継は花梨を腕の中に閉じ込めようとするかのように、彼女を抱き締める腕の力を少し強めた。
それを感じた花梨が、泰継の腕を握り返す。背中に感じる彼の温もりに、さっき感じた寒さも消えた。
花梨は幸せそうな笑みを零して、さらに話を続けた。

「それにね、土の香りを嗅いだのって久しぶりなの。私が住んでいた所には、木や土があまりなかったから……」


その瞬間、自分を抱き締める泰継の腕がぴくりと震えたのを花梨は感じた。彼の身体が一瞬にして強張ったのが、背中から伝わってきた。
「泰継さん?」
思いがけない泰継の反応に、花梨は戸惑った。
――何か彼の気に障ることを言ってしまったのだろうか?
泰継の表情を確認するため後ろを振り返ろうと花梨は身体を捩ったが、泰継に抱きすくめられた状態だったため、身体を動かすことができなかった。
「泰継さん、どうしたの?」
何とか顔だけでも後ろに向けようとしながら花梨が不安げに訊ねたが、泰継はそれには答えず、ゆっくりと腕を広げて花梨の身体を解放した。
離れていく温もりに、花梨はますます不安になり、振り返って泰継の表情を窺った。振り返った拍子に、泰継が肩に掛けてくれた小袿がずれ落ち、花梨の足元に広がった。
琥珀色の瞳が花梨の顔をじっと見つめている。一見いつもと変わらぬ無表情に見えるが、京に来た日にこの北山で出逢ってからずっと泰継を見つめてきた花梨は、彼の感情が最も表れるのが瞳であることを知っていた。
かつては双色だった琥珀色の澄んだ瞳――。そこには心配そうに彼の瞳を覗き込む自分の顔が映っていたが、花梨はその奥深くに苦しげな表情が浮かんでいるのを見て取り、目を瞠った。



『私が住んでいた所には、木や土があまりなかったから……』

花梨のその言葉を聞いた瞬間、泰継は胸に痛みが走るのを感じた。
懐かしそうに自分が育った世界の話をする花梨を見るたび、泰継の胸は疼いた。
この京に残るため、自分の傍にいるために、花梨に彼女が持っていたすべてのものを捨てさせてしまったことに対する負い目が、まるで抜けない刺のように常に泰継を苛んでいた。
出来ることならば、花梨が自分のために捨てたすべてのものの代わりになってやりたいと思ったが、それが不可能であることは泰継にも分かっていた。
ならば、せめて花梨が淋しがったりしないようにと、仕事で屋敷を空ける時以外は、泰継はなるべく彼女と共に過ごすようにしていた。もちろん、泰継自身が花梨と時を過ごすことを望んでいたということもあったのだが。
――やはり、それだけでは駄目なのだろうか。

(やはり、私が花梨の世界に行くべきだったのかもしれない……)

すべてが終わった時、「一緒に連れて行って欲しい」と告げた泰継に、自分が京に残ると言ったのは花梨の方だった。
あの時は嬉しさが勝っていたので、これからもずっと花梨と共にいられるということしか頭になかった。
しかし、冷静になって考えてみると、共に生きていくために自分の世界を捨てるのは、花梨ではなく自分の方が良かったのではないかと泰継は思うのだ。
彼女の世界には彼女の家族がいる。誰にでも好かれる花梨のことだから、友人も大勢いたに違いない。
一方、自分には家族と呼べる者などいない。かつて物忌みの日に花梨に問われた時には、つい自分と同じ出自の者なら家族と呼べるかもしれないなどと口にしてしまったのは事実だが、いずれにせよ、その者もすでにこの京にはいない。
帰る場所のある花梨と、花梨という龍神の神子の力となるためだけに存在していたに過ぎない自分……。
どちらが自分の世界を捨てるべきなのかは、明白だろう。
なぜ、あの時、「京に残る」と言った花梨の言葉を受け入れてしまったのだろう。
京に未練があった訳ではなかった。ただ、花梨がそう望むのならばと、彼女の希望を聞き入れてしまったに過ぎない。もしかしたら、花梨のほうこそが、泰継のことを気遣って「京に残る」と言ってくれたのかもしれないというのに……。
あの時そこまで思い至らなかった自分に気付き、泰継は唇を噛んだ。



「……泰継さん?」

こちらを見つめたまま黙り込んでしまった泰継に、花梨はもう一度声を掛けた。
彼が苦しげな表情を浮かべた理由が分からなくて、またそのために何もしてあげられない自分が歯がゆくて……。
花梨は無意識に胸の前で両手を重ね合わせていた。


「……帰りたく…なったか?」


泰継がぽつりと漏らした呟きに、花梨は驚いて目を見開いた。
「何処へ」と問いかけようとして、花梨ははっとした。彼が何を恐れているのかが分かった。
泰継は、花梨が自分の世界を捨ててこの京に残ったことを後悔しているのではないかと思っているのだ。
そう言えば、花梨が泰継に現代の話をすると、好奇心旺盛な彼は興味を持って聞いてくれていたが、時々悲しげな、また時には淋しげな表情を見せることがあったように思う。恐らく、花梨が懐かしそうに現代の話をするのを見て、泰継は花梨が元の世界に帰りたがっているのではないかと思ってしまったのだろう。
いつも花梨のことを一番に考えてくれる人だから、苦しめてしまったかもしれない。
もし逆の立場だったら――泰継と共に現代に帰っていたとしたら、あちらの世界で京のことを懐かしそうに話す泰継を見れば、自分もそう思ったに違いないのに……。
花梨は自分の迂闊さに歯噛みした。


「もしお前が望むのであれば、私は……」
「泰継さん!」

泰継が続けようとした言葉を遮るように、花梨は彼の名を呼んだ。同時に泰継の胸に飛び込む。彼の背中に手を回し、ぎゅっと抱き締めた。


菊花の香りがする……。
物忌みの日に彼を呼ぶたび、彼の笑顔が見たくて前夜から焚いた、泰継の好きな香り。
泰継と少しでも長く一緒にいたくて、毎日のように彼と共に京の各地を巡った日々が懐かしい。
最後の日、「一緒に行く」と言ってくれた泰継の言葉は嬉しかったけれど、この世界には彼を必要としている人たちがいる。それに花梨自身も、京を守る戦いの中で知り合った人々と別れ難かったから、自分が此処に残ることにしたのだ。彼と出逢い、彼と共に守った、彼が生きてきたこの京で、共に生きていきたいと思ったから……。
あれから四ヶ月――。
ここに残ったことを後悔したことなど、一度もなかった。なぜなら、花梨にとって泰継は、この世のすべてのものよりも大切な人なのだから。
泰継さえ傍にいてくれれば、他には何もいらないと思った。だから今こんなに幸せなのに……。
なのに、彼はその事に気付いていない。
他の事には敏いのに、感情を覚え始めたばかりの彼には、ちゃんと言葉で伝えなければ花梨の気持ちは伝わらないのだ。
(ちゃんと泰継さんに話そう)
花梨は意を決した。


「泰継さん」
花梨は泰継の背中に回していた手を解き、彼の胸の辺りの衣を両手で掴んだ。身体を起こして、じっと泰継の顔を見つめた。
泰継は、琥珀の双眸を大きく見開いていた。花梨の突然の行動に驚いたのだろう。最近の泰継は、随分と自分の感情を表すようになっていた。そのことに花梨は喜びを感じている。自然と微笑みが零れた。

「泰継さん。私、京に残ったこと、後悔したことないですよ」
その言葉に泰継の身体がぴくりと震えるのを、花梨は彼の衣を掴んだ両手から感じ取った。
(ちゃんと彼に伝えないと……)
花梨は自分を奮い立たせるように、泰継の着物を掴んだ両手に力を込めた。泰継の瞳を見つめたまま、言葉を継いだ。
「元の世界のことを思い出すこともあるけど、帰りたいなんて思ったことは一度もありません。だって、向こうには泰継さんがいないもの」
手が震え、鼓動が速くなった。しかし、花梨は泰継から顔を逸らさずに言った。
「私は、泰継さんがいてくれるだけで幸せなの。他には何もいらない……」
自分が発した言葉に思わず顔が赤く染まる。
それを隠すかのように、花梨は再び泰継の胸に抱きついた。
「私が帰る場所は、此処しかないから!」
彼の背に腕を回し、再び抱き締めた。


泰継は、胸にしがみついて来る花梨を呆然と見つめていた。

『泰継さんがいてくれるだけで幸せなの。他には何もいらない……』

彼女の言葉は、いつも心に染み渡る。
窓の外で降り続ける優しい雨のように、乾いた心を潤してくれる。

花梨さえ傍にいてくれれば、他には何もいらないと思っていた。
しかし、花梨には自分以外の何かが必要なのだと思い込んでいた。不完全な自分では、彼女が捨てたものの代わりにはなれないと思っていたからだ。

(では、お前も、私と同じ気持ちを抱いてくれているのだろうか?)

泰継はゆっくりと花梨の背に腕を回し、一瞬だけ躊躇った後、彼女の身体を抱き締めた。


泰継は目を閉じた。
胸の疼きはすでに消えていた。
暖かい――…。
龍神の神子の務めを果たし終えた後も、彼女の気が暖かく清浄であることは変わらない。
花梨を抱き締めるたびに、自分のほうが彼女に抱かれているように感じるのはそのせいだろうか。
泰継は花梨を抱き締める腕に力を込めた。





雨の音が聞こえる――…。


花梨は泰継の腕の中で、目を閉じたまま雨の音を聞いていた。
微かに彼の鼓動が伝わってくる。
こうしていると、温かくて、とても安心する。
自分の帰る場所は此処にあるのだと、そう思えるから。

不意に自分を抱き締める腕が緩められたのを感じ、花梨は泰継を仰ぎ見た。
琥珀色の瞳が優しい色を湛えて見つめている。そこには先程の苦しげな表情はなく、花梨は安心した。自分の気持ちはちゃんと彼に伝わっただろうか。

「花梨……。私は、お前以外は何もいらないと思っていた。そして、お前もそう思ってくれていればよいと……そう願っていた」
泰継はおもむろに口を開いた。
「だが、私ではお前が京に残るために捨てたものの代わりにはなれないと、――そう考えた」
泰継の告白に、花梨は目を瞠った。彼がそんなことを考えていたとは、思ってもみなかったのだ。
「私は、怖かったのかもしれない。お前がいつか、私を捨てて元の世界に帰ってしまうのではないかと……」

――また、独りになってしまうのではないかと……。

だから、花梨が元の世界の話をするたびに胸が疼いた。
すぐ傍にいる花梨が遠く感じられて……。


花梨は泰継の瞳をじっと見つめたまま、彼の言葉を聞いていた。泰継に自分の気持ちを伝えることばかり考えていたけれど、自分も彼の気持ちを分かっていなかったことに気が付いた。
でも……

「もう、泰継さんってば、やっぱり分かってないよ。ずっと一緒にいようって言ったじゃない」
再び両手で泰継の衣を掴む。
「泰継さんは私が捨てたものの代わりになれないって言うけど、違います」
泰継は軽く目を見開いた。花梨の緑色の瞳が、真剣な眼差しでこちらを見つめていた。

「『泰継さんが私の元いた世界の代わりになれない』んじゃなくて、『私の世界のもの全部があっても泰継さんの代わりにはなれない』から……。だから私、この京に残って泰継さんの傍にいることを選んだの……」

花梨の言葉に、泰継は大きく目を瞠った。
それは、思いもよらない言葉だった。
驚きに呆然とする泰継に、花梨は頬を染めて微笑んだ。

「だから、これからもずっとあなたの傍にいさせて下さい」

花梨の言葉が、慈愛に満ちた雨のように心の中に降ってくる。
暖かく、泰継の心を潤していく。

泰継の手がゆっくりと花梨の肩に伸びた。そのまま彼女の華奢な身体を抱き寄せる。
花梨は身体の力を抜いて、泰継の胸に凭れかかった。
「花梨……」
泰継は花梨を強く抱き締めた。彼女に言うべき言葉が見つからなかった。この気持ちをどんな言葉で表したらよいのか、感情に目覚めて間もない泰継には分からなかったのだ。
言葉もなく、ただ花梨を抱き締め、彼女の肩に顔を埋めた。
「泰継さん……」
腕の中の花梨に名を呼ばれ、泰継は腕の力を緩めて彼女を見下ろした。
花梨は優しく微笑んで、泰継を見上げている。
「ずっと、私の傍にいてくれますか?」
花梨が泰継に問う。その笑顔に、泰継も微笑みを返す。
「もちろんだ。私はずっとお前の傍にいる。――いや、お前の傍にいさせて欲しい」
その言葉に、花梨の微笑みは満面の笑みに変わった。
泰継の顔が近づいてくるのを感じて、花梨の瞼は自然に閉じられる。
重ねられた唇が離れていくのと同時に、花梨は再び泰継の胸に顔を埋めた。





「泰継さん。あのね……」
しばらくして、花梨が口を開いた。
「なんだ」
愛しげに花梨の髪を梳きながら、泰継が先を促す。
「さっき、『何を見ているのか』って言ってたでしょう?」
「ああ」
花梨は泰継の胸に凭せ掛けていた身体を起こし、彼に微笑みかけた後、窓の外に視線を向けた。
「あれを見ていたの」
泰継は、花梨が指差す方向に目を遣った。
庵の窓から見える山の斜面に、一本の山紫陽花が、雨に打たれて青紫色の花を咲かせていた。
「泰継さん、知ってました?」
「いや……」
予想通りの返答に、花梨は小さく笑った。
「先月ここに来た時に気が付いたの。今度来るときに咲いていればいいなって思っていたから」
昨日蕾が綻びかけているのを見て、花梨はずっといつ咲くのか気にしていたのだ。
山紫陽花が庵近くの泉のほとりに群生しているのは見かけたけれど、あの花一本だけが離れた場所に生えているのが不思議だったのだと花梨は話した。
「なんだか、あの紫陽花、私みたいだなって思ったの」
窓から雨に濡れて咲く紫陽花を眺めながら、花梨が呟く。
「花梨……?」
花梨の足元に落ちていた小袿を拾い上げ、それを再び彼女の肩に掛けてやろうとしていた泰継は、花梨の呟きに訝しげに問い掛けた。
「あの花、一本だけ離れた場所に生えているでしょう? でもちゃんと花を咲かせているの」
泰継は小袿を掛けようとしていた手を止め、窓の外に視線を向けている花梨の横顔を窺った。
花梨は愛しいものを見守るような柔らかく優しい眼差しで、凛として花を咲かせている紫陽花を見つめていた。
泰継は、花梨が言わんとしていることを察した。
恐らく花梨は、離れた場所に独り咲く紫陽花の花に、元の世界を捨てて独りこの京に残った自分を重ね合わせているのだろう。
この世界でも、ちゃんと生きていけるからと……。
泰継は小袿を花梨の肩に掛け、そっと彼女の肩を抱き寄せた。
「この雨が咲かせてくれたんだね、きっと」
花梨は肩を抱く泰継に微笑みかけた。
「泰継さんみたいな雨だなって、そう思って見ていたの」
花梨の言葉に泰継が目を瞠る。
花梨のような雨だと思っていたのは自分のほうだ。
きょとんとした幼子のような表情を浮かべる泰継に、花梨は言葉を継いだ。

「泰継さんがいてくれるから、私はここで生きていけるの」

泰継は言葉もなく花梨の顔を見つめていた。

「だから、傍にいてくださいね」


――どうして彼女はいつも、私が欲しい時に、欲しい言葉をくれるのだろう。


(どうして、お前は……)

泰継は強く花梨を抱き締め、彼女の耳元で囁くように告げる。

「さっき、約束したばかりだ……」

抱き寄せた彼女の髪に口付けた。





泰継は改めて、花梨と出逢えた奇跡と、彼女を得られた幸運を思う。


もし、花梨が龍神の神子ではなかったら
もし、自分が八葉に選ばれていなかったら

そして―――

もし、花梨が選んだのが自分ではなく他の男だったら――…


だが、愛しい存在は、今、この腕の中に在る。
彼女と出逢うまでの長く孤独だった年月も、彼女を得るための過程であったと思えば、何ということはないことだ。


(どうか、ずっと、この幸せが続くように……)


――ずっと彼女の傍にいられるように……。





泰継は、生まれて初めて、自らの願いのために祈った。







〜了〜


あ と が き
梅雨の季節に合わせて何か創作が書けないかなあと思って、書き始めたお話でした。
しかし、何でこんな話になっちゃったのやら。甘々なのは新婚さんということでお許しを(笑)。
自分で書いておいて言うのも何ですが、花梨ちゃんの何気ない一言に、泰継さんがあんな反応を示すとは思いませんでした。同じ事を泰明×あかねで書いていたら、多分違う展開になっていたと思います。泰明さんだったら、「なぜ木と土がないのか」と追究してくるんじゃないかなあ。長い年月を生きてきた分、泰継さんのほうが内面が複雑で、繊細な性格をしているように思います。
雨が似合う場所ということで、北山を舞台に選んだので、この話は京ED後の設定になっています。私は基本的に京ED派なのですが、泰継さんだけは現代ED派です。やっぱり泰継さんは泰明さんと違って普通の人と違っていることを京の人に知られすぎているので、無事に人となった後も暮らしにくいんじゃないかと思うので。ゲームでは、「あなたを『化け物』呼ばわりする人のいるような所には置いておけないわ」と、さっさと現代へお持ち帰りした私です(笑)。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
novels' index top