しあわせ
「うわあ……!」
感嘆の声を上げた花梨は、そのまま絶句してしまった。目の前に広がる美しい風景を、どのように形容したら良いのか、言葉が見つからなかったのだ。
言葉を発することも忘れ、暫し咲き誇る山吹の花に見惚れた。


龍神のお陰で、泰継が泰明と、そして花梨があかねと言葉を交わすことが出来たのは、今朝のこと――。
元々、今日は泰継に休みを取ってもらい、二人で京の町を散策する予定だった。その行き先が、此処、松尾大社に決定したのは、山吹が泰継に見せたという夢と、今朝の先代の神子と地の玄武との邂逅が、花梨の心を大きく動かしたからだった。
そろそろ見頃と聞いてはいたが、満開の時期を迎えた松尾大社の山吹は、花梨が想像していた以上の美しさだった。
(そう言えば、神子の務めで此処に来た頃って、雪が積もっていたものね)
紅葉の季節に京にやって来た花梨にとって、春を迎えた京の風景は、何もかもが初めて見るものだった。こうして、神子の務めで幾度となく訪れた場所でも、季節が変われば、また違う表情を見せてくれるのだ。
ふと、隣に立つ泰継を見ると、彼も柔らかな表情で、じっと山吹を見つめている。
「綺麗ですね」
「ああ。そうだな……」
何時に無く優しい微笑みを浮かべて相槌を打つ泰継に、花梨も微笑みで応えた。暫くの間、お互いの顔を見つめ合う。

『――今、幸せ?』

不意に、そう問い掛けるあかねの声が甦った。
(うん。幸せだよ……)
――だって、泰継さんと一緒だもんね。
柔らかな表情でじっとこちらを見つめている泰継の視線を受け止めたまま、花梨は嬉しそうに笑った。今日、いつも以上に二人の間に優しく穏やかな空気が流れているのは、間違いなく今朝の出来事の所為だろう。
「どうした?」
突然嬉しそうな笑い声を漏らした花梨に、泰継が問い掛けた。
「『幸せだな』って思ったの」
花梨の答えを聞いた泰継が、軽く目を瞠った。それは、咲き誇る山吹の花を眺めながら、今泰継自身も考えていたことだったからだ。

『幸せが何であるか――。お前の神子も、お前に教えたのではないか?』

泰明が言った通り、これまで幸せとも不幸とも感じることなく、只この世に存在していただけの泰継にこのような気持ちを抱かせたのは、花梨だけだった。
花梨が傍に在るからこそ感じる幸せ――。
それが自分だけの一方的なものではなく、花梨も自分と一緒にいることで感じているらしいことが嬉しい。それに、花梨が傍にいるからというだけでなく、彼女の幸せそうな笑顔を見ているだけで、自分も幸せな気分になれるのだ。
(――ああ……。そうか……)
泰継は、ふと思った。
(幸せというものは、周囲の者にも波及して行くものなのだな)
泰継が微笑むと、花梨も嬉しそうに笑う。その笑顔を見ると、泰継は胸に温かいものが降りて来るような気がするのだ。花梨が幸せそうだと、自分も幸せだと思えるし、自分が幸せだと思っていると、花梨も幸せそうに笑う。そんな風に、互いに相手を幸せにしていることに気が付いた。
そして、朝方の先代との短い邂逅――。
自分と同じく神子を得た泰明が、神子の世界で幸せに暮らしていることを知り、安心すると同時に温かい気持ちになった。その温かさは、幸せそうに笑う花梨を見た時に感じる温かさと同じだったのだ。
花梨と出逢ったからこそ、そのように感じることが出来るようになったのだと思う。
(お前が、私に教えてくれたのだな。『愛しい』という感情と共に……)
微笑みを浮かべた泰継は、花梨の肩をそっと抱き寄せた。

「――泰継さん?」
名を呼ばれ、我に返って花梨の方を見ると、突然肩を抱き寄せられた花梨が、訝しげな表情で見上げていた。
「いや……。私も、お前と同じ事を考えていたのだ……」
泰継の言葉に一瞬目を瞠った花梨の顔が、ゆっくりと綻んで行く。満面に笑みを浮かべた花梨は、甘えるように泰継に抱き付いた。
――彼も同じ気持ちでいてくれることが嬉しい。
肩を抱き寄せていた泰継の手に、更に強く力が込められたのを感じながら、花梨は再び山吹の花に目を遣った。ふと、今朝見た光景が脳裏を過ぎった。
山吹の花吹雪の向こうに見えた、泰明とあかねの姿――…。
龍神が見せたその光景は、彼らの服装を除けば、昨夜泰継が見た夢と同じ光景だったのだと言う。

「ねえ、泰継さん……」
「何だ?」
「昨夜泰継さんが見た夢だけど……。山吹の花が記憶していた事だって言ってましたよね?」
泰継の胸に抱き付いていた花梨が、身体を起こして泰継の顔を見つめながら訊ねた。
「ああ」
真っ直ぐに見つめて来る花梨の視線に、彼女の髪を梳いていた泰継が手を止めて答えを返す。その答えを聞いて、花梨の瞳が輝いたのを、泰継は見て取った。
「じゃあ、今日の私達のことも、ちゃんと記憶して置いてくれるかな?」
微笑みながらそう言った花梨は、ゆっくりと山吹の方に身体を向けた。黄色い花弁が、微風に吹かれて微かに揺れる。その様子は、まるで花梨の言葉に頷いているかのように見えた。
「もし、私の次に龍神の神子が現れることがあったら、『先代の龍神の神子は、神子の務めを終えた後、こんなに幸せになったんだよ』って、次の神子さんに伝えてくれますよね?」
言いながら花梨が振り返ると、泰継はきょとんとした表情を浮かべていた。花梨の考えは、泰継には思いも寄らない考えだったのだ。
それを察した花梨が微笑む。
今朝の思い掛けない出来事のお陰で、自分だけでなくあかねも幸せなのだと確認出来て良かったと、花梨は思っている。恐らく、あかねもそうだろう。今は別の世界に別れていても、龍神の神子として京を守り、京で大切な人と出逢った、仲間のようなものだから。
だから、次の神子にも伝えたいと思う。龍神の神子の務めを果たし終えるまで、どんな苦難が待ち受けていても、皆に支えられてそれを果たし終えた時、きっと掛け替えの無いものを手に入れることが出来るであろうことを。
あかねも自分も、今、こんなに幸せな日々を手にすることが出来たのだから。
(きっと、伝えてくれるよね?)
――そう、信じたいと思う。

花梨の言葉に驚きの表情を浮かべた泰継は、笑みを浮かべてじっと自分を見つめている花梨の視線を受け止めた。
春の日差しのように柔らかなその笑顔は、泰継の胸に再び温かさを齎した。その温かさはいつも、愛しいと思う気持ちを湧き上がらせる。
(本当に、お前は私に色々な事を齎してくれるのだな……)
花梨の笑顔を見つめる泰継の口元が、自然と綻んで行く。
彼女はいつも、全身で感情を表現する。泰継への愛情や、自分が今、幸せだと思っていることを、まだ人の心の動きに疎い泰継にも解るよう、表情や言葉で精一杯伝えようとしてくれる。
――それが、堪らなく嬉しい。

「そうだな。――だが、幸せになったのは、神子だけではない」

今度は花梨がきょとんとする。その表情の見つめる泰継の顔に、花梨を見惚れさせる、いつもの優しい笑みが浮かんだ。

「『神子を得た八葉も幸せになったのだ』と、次代の者に伝えてもらわねばな」

大きな目をぱちくりとさせた花梨の顔が、次の瞬間満面の笑みに変化した。満面で嬉しさを表現する花梨に、益々愛しさが募って行く。
「花梨……」
花梨の腰に左腕を回した泰継は、華奢な身体を抱き寄せ、空いていた右手を彼女の頬に添えた。
その泰継の行動に、彼が何をしようとしているのか悟った花梨は、顔を近付けて来た泰継の胸を両手で突っ張り、身体を離そうとした。熱を帯び始めた琥珀色の瞳を見て、さっきまで気にならなかった境内の人の姿が、急に気になり始めたからだ。
「や、泰継さん! 人が見てるよ!」
しかし、花梨の抵抗にも、腰に回された腕の力は弱まらず、逆に更に強く抱き寄せられてしまった。羞恥から顔を紅潮させた花梨が恨めしげに泰継を見ると、珍しく口端を上げて意地悪な笑みを浮かべた顔が、間近で見つめていた。
花梨の頬を掠め、泰継は彼女の耳元に顔を寄せた。
「――構わぬ。見せびらかしてやれば良い。皆にも、山吹にも……」
甘い声で囁くと、じたばたと抵抗していた花梨の身体から力が抜ける。それを感じ取った泰継は、微笑みながら言葉を継いだ。

「『私たちはこんなに幸せなのだ』と、な……」

真っ赤になって俯いてしまった花梨に上を向かせ、泰継は熱い口付けを贈った。







〜了〜


あ と が き
2005年の新年お年玉企画として無料配布したコピー本用に書き下ろした、「山吹の記憶」のおまけ創作です。本当は本編と同時に一周年記念としてアップする予定だったのですが、本編の完成が遅れたため、書くことが出来ませんでした。そこでこの機会にと思い、新年企画本に収録することにしたのです。
本編を書いた際、「松尾大社の山吹は、今度は泰継さんと花梨ちゃんのことを記憶して、次の神子に伝えるのかな」と思ったので、それをネタにしています。
早朝から良い事があった所為か、二人とも朝っぱらからラブラブ度上昇(特に泰継さん……。かなり大胆になっていますよね(^^;)。気が付けば、イチャイチャしているだけの話になってしまいました(苦笑)。あまりのラブラブぶりに、タイトル変更を余儀無くされたという代物です。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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