桜が咲いたら…
「う〜ん、今日も良い天気!」

着替えを済ませ、簀子縁に出た花梨は、両手を上げて大きく背伸びをしながら呟いた。
深く吸い込んだ朝の空気は清々しく、心地良い。こうして背筋を伸ばすだけで、眠気など一瞬にして吹き飛んでしまいそうだ。
そんな事を考えながら、花梨は限界まで伸ばした身体を元に戻した。自然と視線が前庭の方に向く。
京に来てから見慣れた庭は、既に昇った朝日に照らし出され、庭全体が光に満ちている。
それを見た花梨は、自然と笑みを零していた。
少し前までは、積もった雪が太陽の光を反射してきらきらと輝く様が美しかったが、春を迎えた庭はまるで光に包まれているようで、見ているだけで温かい気持ちになれる。
暫くの間その景色に見惚れていた花梨は、ふと寝殿の方で大勢の人の声がするのに気付き、そちらに視線を向けた。どうやら女房たちの声のようだが、花梨にあてがわれている対屋から寝殿までは距離があるので、何を話しているのかまでは判らなかった。
(何だろ。今朝はいつもより騒がしいみたいだけど……)
花梨は訝しげに小首を傾げた。
対屋よりも遥かに大きい寝殿には、この屋敷の主である紫姫と深苑の祖母の部屋の他、紫姫と深苑の部屋もあり、特に朝は、朝餉の用意などで女房たちが慌しく出入りしている。
しかし、今朝はどうもいつもと様子が違った。
大勢の女房が朝早くから簀子縁を行ったり来たりして、慌しく何かの準備をしているように見受けられたのだ。
(後で紫姫に訊いてみようかな)
神子の務めを終えてからも、以前と変わらず毎朝挨拶に訪れる紫姫に訊ねてみることに決め、花梨は再び視線を庭に戻そうとした。
その際、庭の一角に植えられている桜の木が目に入った。
ちらほらと開き始めた薄紅色の花が、穏やかな春風に吹かれて揺れているのが目に留まる。
――満開になるまで、あと一週間はかかるだろうか。
桜の花を見つめているうち、花梨はいつの間にか物思いに沈んでいた。





龍神の神子の務めを終えて京に残った花梨は、引き続き紫姫の館に世話になり、京の風習などを学びながら、泰継との婚儀の日を待っていた。
花梨が此処に残った理由は唯一つ、泰継と一緒にいたいから――。
だから、本当であれば直ぐにでも彼の元に行きたかったのだが、やはり現実的には無理だったのだ。
この世界の習慣では、結婚は男が三日続けて女の元に通うことで成立する。その後も夫が妻の元に通う通い婚が一般的で、それが暫く続いた後、正妻となれば妻が夫の元に引き取られるのだと、花梨も紫姫や女房たちから聞いて知っていた。
つまり、泰継と結婚するためには、佳日と占われた日に三日続けて彼に来てもらわなければならないのだが、新年を迎えて以降、泰継は花梨が身体の心配をしなければならないくらいに多忙を極めていたのだ。
先ず、新年に執り行われる様々な儀式に陰陽師の力が欠かせないため、繁忙期を迎えた本家の手伝いに駆り出されることが多くなった。それは例年のことらしいのだが、今年はそれに加え、八葉の仲間たちを通して個人的に依頼される仕事もあったのだ。その上、彰紋と泉水の薦めもあって陰陽寮に出仕し始めたため、以前のように毎日四条の館に顔を出すことが困難となってしまったのだった。
泰継と会えない日が続き、花梨は淋しい思いをすることが多くなったが、彼が身を粉にして働いている理由を知っているから、我慢している。
泰継が休む間もなく仕事に忙殺されているのは、花梨を妻として迎え入れるためなのだ。


『この桜が咲いたら、私の元に来てくれるだろうか?』


まだ雪の降る日が多かった頃、泰継が仮住まいとしている安倍家の離れを訪れた際、花梨は庭の桜の木の前で、泰継からそう求婚された。
「桜が咲いたら」と泰継が言ったのは、それまでに花梨を迎える準備を全て整えるという意味に他ならない。花梨と出逢うまで北山の奥深くで隠遁生活を送っていた泰継が京の町で生活基盤を築くには、数ヶ月の準備期間を必要としたのだ。
その言葉の通り、泰継は生活の糧を得るために出仕し始め、花梨と共に暮らすための屋敷も建設中である。
自分のために泰継がしてくれていることに少しでも応えたいと思った花梨は、忙しくて数日おきにしか来られない彼を待つだけの淋しい時間を、女房たちから装束の縫い方や京の料理などを教えてもらうことに費やすことにした。
苦手だと思っていた手縫いも、好きな人のためにと思うだけでめきめきと上達するから不思議だった。泰継の装束を自分の手で縫ってあげられるようになることが、現在の花梨の目標である。


そんな風に、それなりに充実した毎日を過ごすうちに、いつの間にか桜の季節を迎えようとしている。

“桜が咲いたら……”

泰継が花梨にそう告げ、改めて将来を約束し合った季節。
だからあとは、屋敷の完成と泰継の訪れを待つばかりだったのだが――…。





庭の桜を見つめていた花梨は、表情を僅かに曇らせ、深い溜息を吐いた。
ここ一週間ほど、仕事が立て込んでいるという理由で、泰継は花梨の元を訪れてはいなかった。五日前に自分の姿を映した式神を寄越し、暫く来られそうにない旨を伝えて来たきり、文すら来ない。紫姫などは、「文くらい寄越されても……」と眉を顰めていたが、花梨には実に泰継らしいと思えるのだ。
花梨が心配していたのは、泰継から文が届かない事ではなく、別の事だった。

「泰継さん、ちゃんと休んでいるのかなぁ……」

人となる前、三月ごとにしか眠りが訪れず食事を摂る必要も無かった泰継は、長年の習慣から未だ食事を抜いたり徹夜を続けたりすることが多い。自分の身体に無頓着な人なだけに、また無理をしているのではないかと、花梨は心配でならなかった。彼が多忙な日々を送っているのが自分との結婚のためだったから、尚更だ。
会えない日が続いている今、早く泰継と一緒に暮らしたいという気持ちはあるが、そのために彼が無理をしなくてはならないのなら、婚儀をもう少し先に延ばしても構わないと花梨は思う。
(お屋敷の完成も予定より少し遅れるみたいだって、この前泰継さんも言っていたし……)
尤も、「延期する」などと言えば、二人の結婚を他の誰よりも祝福し、いつその日が来ても良いようにと全ての準備を整えて待っている紫姫を、残念がらせることになるだろうが。
ぼんやりと庭に目を遣ったまま、今日も夜明け前から出仕しているであろう婚約者に思いを馳せた花梨は、再び小さく息を吐いた。
その時、花梨の耳に、こちらに近付いて来る衣擦れの音が届いた。


「おはようございます、神子様」
簀子縁をこちらに渡って来たのは、紫姫だった。
花梨は慌てて沈んだ表情を消して、彼女に笑顔を向けた。
「おはよう、紫姫。今日も暖かくて良い天気だね」
花梨を慕い、神子の務めを終えた現在も変わらず仕えてくれているこの星の一族の姫は、実に心配性なのだ。まだ泰継と両想いになる前も、二人の仲を最も心配し、気を揉んでいたのは紫姫だった。そんな彼女に余計な心配をかけてはいけないと思った花梨は、泰継が来られなくて淋しく思う日にも、紫姫の前では努めて明るく振舞うようにしていたのだった。
「本当に……。このところ暖かい所為か、桜の花もやっと開いて来たようですわね」
花梨のすぐ傍で立ち止まった紫姫は、そう言葉を返しながら桜に目を遣った。
つい先日まで固かった蕾は、ここ数日の陽気の所為か漸く綻び、花開き始めたようだ。まだ三分咲きにも満たないが、それでも確実に春の訪れを告げている。
(本当に、今日は佳き日ですわ……)
微風に揺れる薄紅の花を見つめ、紫姫は心の中でそう呟いた。

「ねえ、紫姫。今日はお屋敷で何かあるの?」
口を閉ざしてしまった紫姫に、花梨が問い掛けた。
桜に目を遣ったまま遠くを見る形となっていた紫姫は、花梨の問い掛けに我に返った。慌てて花梨の方に視線を戻す。
「あら、私ったらぼんやりして。失礼いたしました、神子様。何でしょうか?」
「うん。あのね……」
そう切り出した花梨は、ちらりと寝殿の方に視線を投げてから、さっき訊ねようと思った事を紫姫に話した。
「ほら、年末にあった御仏名の時も、朝からこんな感じだったじゃない? だから、今日はお屋敷で何か催し事でもあるのかなと思って」
一瞬虚を衝かれたかのような、きょとんとした表情を浮かべた紫姫だったが、直ぐに笑顔に戻って答えた。
「はい。今日は大切な方の大切な行事があるのです。その所為で、少し邸内が騒がしいかもしれません。ご容赦下さいませね」
「私は大丈夫だよ。それより、紫姫は行かなくていいの?」
「私もこの後、手伝いに行かなくてはなりません」
「じゃあ、私、今日は一人で手習いでもしてるね」
あの様子では、女房たちも忙しくて、装束の縫い方を教えるどころではないだろう。
そう考えた花梨は、今日は一人で時間を潰すことにした。
紫姫が何か答えようと口を開いたその時――
空からピィという鳥の鳴き声が聞こえて来た。花梨と紫姫が同時に空を見上げると、一羽の白い小鳥が二人の元に舞い降りて来るのが見えた。
その姿を確認し、「あっ!」と小さく声を上げた花梨の顔に、喜びの表情が浮かぶ。
花梨が手を差し出すと、その鳥は小さな羽音を立てて花梨の指に止まった。
真っ白な身体に清らかな気を纏った小鳥――泰継の式神だ。



『花梨……』

五日ぶりに聞く大好きな人の声に、花梨の胸は高鳴った。
「泰継さん……」
式神が止まった手を目の高さまで上げて、愛する人の名を呼ぶ。話したい事は色々とあるのに、嬉しさで胸が一杯になった所為か、泰継の名を口にしたきり言葉が出て来なかった。
花梨の嬉しそうな表情や声を確認して、紫姫も笑みを浮かべた。やはり花梨には笑顔が似合う。

『暫く式を寄越すこともできず、すまなかった』
「ううん。忙しかったんでしょう? 気にしないで下さい」
先ず謝罪の言葉を口にした泰継に、花梨は首を横に振った。

――昨日、泰継殿をお見かけしましたが、お忙しそうでしたよ。
先日訪ねて来た幸鷹から彼の近況を聞いていたので、連絡がなかったことを責めるつもりなど花梨には毛頭無い。
元より安倍家の当主以上の力の持ち主と言われていた泰継である。陰陽寮に勤め始めて間もなくその確かな実力を示し、既に周囲からも認められているらしい。そのため、寮の仕事の他に、安倍家を通じて毎日のように個人的な仕事の依頼も持ち込まれているのだという。
そうして泰継を指名して来る依頼者の多くは、泰継が東宮である彰紋や有力な貴族の子息である幸鷹や泉水とも懇意であることを知り、彼と私的な繋がりを持ち、あわよくば彼を婿にと考えた中流貴族なのだが、花梨が心配するであろうことを予測した幸鷹は、彼女にはその事を話さなかったのだった。

花梨の応えを聞いた泰継が安堵の息を漏らしたらしいことが、式神を通じて花梨にも伝わって来た。どうやら、気にしてくれていたらしい。以前の彼であれば決して見せなかったであろうその反応が、何だか嬉しい。
『――変わりはないか?』
「はい。私は元気です」
泰継の問い掛けに笑顔で答えた後、花梨は一転して心配そうな表情を浮かべた。
「私の事より、泰継さんは? 食事と睡眠、毎日ちゃんと取っていますか?」
泰継が来られない間、最も心配していた事を、花梨は訊ねた。
その声音から、花梨が自分の心配をしていることを察し、泰継は胸の辺りが仄かに温かくなるのを感じた。
これが、花梨が教えてくれた“嬉しい”という感情なのだと思った泰継は、自然と微笑みを浮かべていた。
『私は問題ない。それに、こうして式を通してお前の顔を見るだけで、疲れなど吹き飛んでしまう。食事や睡眠を取るより遥かに効き目があるようだ』
「や、泰継さん……」
泰継の言葉を聞いた花梨の顔が、一瞬にして紅潮する。自分が凄い事を言っているという自覚が全く無い泰継に赤面させられることは多いが、隣で紫姫が聞いていると思うと、いつも以上に恥ずかしい。
だが、そう言ってくれる彼の言葉を嬉しく思うのも事実だった。
小鳥をじっと見つめた花梨は、その向こうに柔らかな笑みを浮かべた泰継の顔が見えたような気がして、はにかんだ笑みを返した。

『それより、今日は時間があるか?』
暫しの沈黙の後、泰継が切り出した言葉を聞いて、花梨は目を見開いた。彼が朝早くから式神を送って来たのは、まだ暫く来られそうにないと告げるためだと思っていたのに、どうやらそうではないらしいことを悟ったからだ。
神子の務めを終えてからは、習い事をしながら泰継の訪れを待つだけの日々を送っているのだから、暇かと言われれば暇である。
「私は大丈夫ですけど……」
『では、後で迎えに行く。朝餉はまだなのだろう?』
「お仕事はもう良いんですか?」
心なしか嬉しそうな声でそう言う泰継に、花梨は思わず問い返していた。
『一段落した。だから、今日は一日時間が取れる」
そのために、ここ数日、花梨に連絡する時間も惜しんで、次々と持ち込まれる仕事を片付けていたのだから。
「じゃあ、今日は一緒にいられるの?」
『ああ』
花梨の表情が、パッと明るいものに変化する。
二人の遣り取りを傍で聞いていた紫姫が、それを見て眩しそうに目を細めた。花梨にそのような表情をさせることができるのは、やはり泰継だけのようだ。
『お前に見せたいものがあるのだ』
「“見せたいもの”って?」
首を傾げながら花梨が訊ねる。「迎えに行く」と言うのだから、外出しようということなのだろうが、彼が何を見せたがっているのか見当が付かなかったのだ。
『見れば判る』
どうやら、泰継には教えるつもりはないらしい。
『では、お前が朝餉を終えた頃、迎えに来よう』
そう言い残すと、花梨が呼び止める間もなく、小鳥は花梨の指から飛び立って行った。
花梨と紫姫は、その姿が見えなくなるまで見送った。


「ようございましたわね、神子様」
笑顔で声を掛けて来た紫姫に、花梨は満面の笑みで応えた。
「うん。今日は泰継さんと出掛けるね」
一人淋しく苦手な筆と格闘する代わりに、久しぶりに好きな人と過ごせるのだ。緩んだ頬が元に戻りそうにない。

―――迎えに行く……。

まだ神子の務めを終えて京に残ってから三ヶ月も経ってはいないのに、その言葉が何だか懐かしい。
「では、早く朝餉にいたしましょう」
朝餉を運ぶよう女房に伝えるため踵を返した紫姫をその場で見送った後、花梨は泰継の式神が消えた空を見上げて微笑んだ。





◇ ◇ ◇





約束通り、花梨が朝餉を終える少し前に四条の館を訪れた泰継が彼女を連れて行った場所は、左京一条に在る安倍本家だった。


「こちらだ」
泰継が花梨の手を取り、庭の更に奥へと案内する。
一月ほど前、彼と共に一度だけ訪れたことがある屋敷だが、雪化粧していた頃と雰囲気の違う庭の様子が珍しくて、つい辺りを見回してしまう。
泰継に手を引かれながら、決して手入れが行き届いているとは言えない広い庭を抜けると、見覚えのある建物が見えて来た。
新居が完成するまでの間、泰継が引き続き仮住まいとしている離れである。
質素な佇まいの離れは、前回花梨が訪れた時と同様、奥深い山に踏み込んだかのような静寂に包まれている。その静寂が、何となく泰継が纏う雰囲気に似ているように思えて、花梨は笑みを浮かべていた。
「どうした?」
それに気付いた泰継が、すかさず声を掛けて来た。声を出して笑った訳ではないので、気の変化を感じ取ったのだろう。相変わらず鋭いなあと思いつつ、そういうところがまた彼らしいと思えて、花梨はふふふ、と笑い声を零した。
数日間会えなかっただけなのに、今日こうして一緒に過ごせることが、この上なく嬉しい。その所為か、何を見ても泰継と結び付けて考えてしまい、その度に自然と頬が緩んでしまう。
繋いだ手に少しだけ力を込めて泰継を見上げると、花梨の予想通り、泰継は怪訝そうな表情を浮かべて見下ろしていた。少し首を傾げて見つめて来る泰継に、花梨は素直な気持ちを伝えようと思った。

「泰継さんと二人きりで出掛けるのって、久しぶりでしょう? だから、嬉しくて……」

その言葉を聞いた泰継が、軽く目を瞠る。
――どうやら、花梨も自分と同じ気持ちでいたらしい。
その事実に気付いた瞬間、先程感じた温かさが再び胸に宿ったことを感じ、泰継は笑みを浮かべた。
柔らかなその表情が、明らかに自分の言葉への同意を表していると察した花梨が、嬉しそうに笑う。こうして二人きりで行動できることを、泰継も嬉しく思ってくれていることは勿論だが、それだけでなく、以前は表情の変化があまりなかった泰継が、ごく自然に自らの感情を表情に出すようになって来たことが嬉しいのだ。
微笑みを浮かべたままじっと見つめてくる端整な顔から、花梨はいつも視線を外すことができない。見る見るうちに、頬が熱を持って来るのが判った。
恐らく本人には全く自覚が無いのだろうが、泰継に微笑み掛けられて恋に落ちない女はいないだろう――と花梨は思う。
赤く染まった顔を見られるのが恥ずかしくて、誤魔化すように庭に目を転じた花梨は、突然「あっ!」と声を上げてその場に立ち止まった。
彼女に倣って足を止め、泰継が花梨の方を見ると、花梨は口を開いたまま目を大きく見開き、呪縛されたように庭の一点を見つめている。花梨が何を見ているのかを見て取った泰継は、口元を緩めた。
花梨が半ば呆然と見つめていたのは、庭に植えられた桜だったのだ。
やがて、花梨は無意識に泰継と繋いでいた手を解き、吸い寄せられるように桜の木に歩み寄った。
微笑みを浮かべてその後姿を見つめていた泰継も、少し遅れて彼女の跡を追った。



花梨は桜の傍で立ち止まり、頭上を見上げた。
空に手を伸ばすように張り出した枝に、薄紅色の花が咲き誇っている。

―――早く咲いてね……。

初めて泰継に此処に連れて来てもらったあの日――。
桜が咲く頃には泰継と一緒に暮らせるようになるからと、幹に手を触れて早く咲いて欲しいと願った桜の木。

“この桜が咲いたら……”

そう誓い合った桜の木は、紫姫の館の庭の桜よりも早く満開の時期を迎えている。
掌を上にして手を前に差し出すと、春風に煽られた花弁が一枚、掌の上に舞い降りた。
それが幻ではないことを確かめるように指で撫でてみると、柔らかな感触が伝わって来る。
早く咲いて欲しいと願っていた桜が確かに咲いている――。
それを確認し、花梨の口元が綻んだ。

―――お前に見せたいものがあるのだ。

式神を通して聞いた泰継の言葉の意味を、花梨は漸く理解した。


「泰継さん」
いつの間にか追い付き、隣に立っていた泰継を見上げて、花梨が話し掛けた。
「私に見せたいものって、この桜だったんですね?」
「ああ」
頷く泰継の顔には、花梨の大好きな優しい微笑みが浮かんでいる。その微笑みに、花梨も笑みで応えた。
その時、一つに束ねられた泰継の翡翠色の髪を梳くように、風が吹き抜けて行った。
絹糸のような髪が風に靡く様が美しくて、花梨は思わず見惚れてしまう。その目の前を、ひらひらと桜の花弁が舞い落ちて行った。
暫くの間互いの瞳を見つめ合った後、先に笑みを消して視線を逸らせたのは泰継の方だった。
花梨を見下ろしていた顔を上げると、ちょうど薄紅色の花弁が舞い落ちて行くのが目に入った。それが作る軌跡を遡るように、泰継は咲き誇る桜花に視線を向けた。

「――あの日以来、確かめるのが癖になっていた」
桜の花を見つめたまま、呟くように泰継が語る。彫像のように整ったその横顔をじっと見つめたまま、花梨は泰継の話を聞いていた。
「簀子に出ると、つい庭に目を遣ってしまうのだ。雪が降り、まだ花が咲く時期ではないことが判っているのに、桜が今どうなっているのかを確かめずにはいられなくて……」

年が明けて間もなく花開き、芳しい香りを放ち始めた梅とは対照的に、まだ固い桜の花芽を見て、簀子縁の上で幾度溜息を吐いたことだろう。
その度に、花梨の笑顔を思い描いては、早く桜が咲けば良いと願っていた。
特に、仕事が忙しく、花梨に会いに行くことができなかった日には――…。

「その所為だろうか。この桜は、京の町にあるどの桜よりも早く、満開となってくれたようだ」
口元を緩ませた泰継は、じっと自分を見つめている花梨に気付き、再び微笑み掛けた。
その嬉しそうな笑顔を見つめながら、花梨はふと、今朝館の庭で見た桜を思い起こした。
まだ咲き始めたばかりの桜――。
此処に来る道すがら見掛けたどの桜も、館の桜と同じく漸く蕾が綻び始めたばかりで、まだ満開までは一週間以上はかかりそうな様子だった。
泰継が言った通り、この桜だけが特別早く花開いたらしいのだ。
その原因を、泰継は自分が願ったからだと言うのだが……。

「それだけじゃないよ、泰継さん……」
黙って泰継の話を聞いていた花梨が口を開いた。
花梨の言葉を聞いた泰継が、きょとんとした表情を浮かべた。どうやら、察しの良い泰継にしては珍しく、花梨の言葉の意味を捉え兼ねているらしい。八葉の務めを終えた後、琥珀色に揃えられた瞳が物問いたげに見下ろしている。
普段は近寄り難い印象を他人に与えることが多い泰継だが、こんな表情をした時の彼は、どこか幼い子供のように見える。
泰継が口を挟まず、続きを待っていることに気付いた花梨は、先を続けた。
「泰継さんの願いだけじゃなくって、きっと、私の願いも聞いてくれたんだと思うの」
泰継が弾かれたように大きく目を瞠る。はっきりと驚きの表情を宿したその瞳を、花梨は真っ直ぐに受け止めた。
「だって、“早く桜が咲いて欲しい”って思っていたのは、私も同じだもの」
花梨の顔が嬉しそうに綻ぶ。

「だから、あの日からずっと、“泰継さんのところのあの桜はまだ咲かないのかな”って、庭の桜を見るたびに思っていました」

言葉を発することを忘れたかのように、泰継はただ呆然と花梨の顔を見つめていた。
泰継が、いや、恐らく他の八葉たちも、自らの命に代えても守りたいと思った笑顔を。

(では、お前も…?)

花梨と共に暮らす日を待ち遠しく思い、毎日のように桜の木を眺めては、まだ花の時期が来ていないことを確認して溜息を吐いた。以前の自分からは考えられなかったその行動に、泰継自身、思わず苦笑してしまったくらいだった。
しかし、同じ事を花梨も思ってくれていた。
自分と同じ願いを花梨が抱いてくれていることが、何よりも嬉しい。
花梨の笑顔を見て温かさを宿した泰継の胸に、今度は愛しさが湧き起こる。

不意に、無言のまま見つめ合う二人の間を、先程より強い風が吹き抜けて行った。
その風に煽られ、無数の花弁が舞う。
「うわぁ、綺麗!」
花梨の顔を見つめていた泰継は、花梨が上げた歓声に我に返った。
突然湧き起こった花吹雪に思わず頭上を見上げ、落ちて来る花弁を掌で受け止めようとする花梨。
彼女を包み込む薄衣のように、その周囲を桜の花弁が舞っている。
桜の薄衣を纏い、満開の桜の枝の隙間から零れる春の日差しを全身に浴びている花梨があまりに眩しく感じられて、泰継は知らぬうちに目を細めていた。
目の前に在る光景を、美しい――と思った。


桜吹雪が収まり、薄紅の花弁が再びゆっくりと舞い落ち始めた。
薄紅の花弁と戯れていた花梨は、今度はその様子をじっと見つめている。その横顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。
それを見つめる泰継の胸に、甘い疼きが生じる。
痛みとは違う、温かな何かが、胸の奥から溢れ出ようとしている。
花梨と出逢って初めて覚えたその感覚は、“愛しい”という感情――。
溢れ出ようとするそれを抑えるように胸元に手を遣った泰継は、直ぐにそれが不可能であることを悟った。
覚えて間もないその感情は、温かな奔流となり、出口を求めて胸の内を駆け巡っている。


―――愛しい……。

どうしてこんなに、と思うほどに……。


何かを堪えるように一瞬だけ目を瞑ると、泰継は花梨の方に手を伸ばした。


「花梨……」

名を呼ぶ声に、花梨が振り返る。
次の瞬間――…
花梨は泰継の腕の中にいた。
何が起きたのか直ぐには理解できずに目をぱちくりとさせた花梨は、目に映った広い胸を確認して漸く抱き寄せられたことを悟り、頬を紅潮させた。
「泰継さん?」
どうして突然抱き寄せられたのかが判らず狼狽えた花梨は、泰継の胸に手を当てて身体を離そうとしたが、逆に更に強く抱き竦められてしまった。
「やす……」
項の辺りに泰継の息遣いを感じ、くすぐったさと恥ずかしさから、花梨が身体を捩って泰継の腕から逃れようとしたその時―――


「――今宵、約束を果たそう……」


耳元で囁かれた声に、花梨の動きが止まる。
花梨は大きく目を見開いたまま、いつになく甘く響く泰継の声に呪縛されてしまったかのように、なかなか働こうとしてくれない思考回路をフル回転させ、泰継の言葉の意味を考えた。

―――“約束”を果たす……。

(それって、もしかして……)
泰継の言葉の意味を悟った花梨は、泰継の胸に当てていた手で、無意識に彼の衣をぎゅっと握り締めていた。
何も考えられなくなった頭の中は真っ白になり、それに反比例するように顔は真っ赤に染まった。

不意に、泰継が腕を緩めた。
花梨の腰と肩に回した腕をそのままに、抱き締めていた身体を少しだけ離すと、泰継は腕の中の愛しい存在を見つめた。俯き加減であっても、花梨の頬が赤く染まっているのが見て取れる。それを見た泰継の口元が綻んだ。
じっと自分を見つめる視線に気付いた花梨が、おずおずと顔を上げて泰継を仰ぎ見ると、ちょうど琥珀の瞳と目が合った。泰継の顔には、花梨が大好きな優しい笑みが浮かんでいる。

「あの日、お前は受け入れてくれたな。“桜が咲いたら、私の元に来て欲しい”と願った、私の想いを……」

話しながら、泰継は花梨の肩に回していた手で、紅潮した彼女の頬に触れた。
触れた指先から、仄かに熱が伝わって来る。以前なら、身体の具合が悪いのかと勘違いしただろうが、現在の泰継にはその熱の意味が理解できた。
何故なら、こうして彼女に想いを告げている今、泰継自身の頬にも仄かな熱を感じることができるからだ。

「屋敷はまだ完成してはおらぬが、約束の桜が咲いた以上、これ以上待つつもりはない。屋敷が完成するまでの間は、お前の元に通うことにしよう」

話し続ける泰継の顔を呆然と見つめていた花梨は、漸く先程の推測が正しかったことを悟った。
泰継は、今日から結婚の儀を行おうと言っているのだ。
ずっと桜が咲くのを待っていた花梨にとって、本来なら嬉しい言葉のはずなのだが、以前から心の隅に引っ掛かっていた事が俄かに頭をもたげて来る。
(でも、お仕事は?)
この一週間、四条の館に顔を出すこともできない程、多忙な日々を過ごしていた泰継である。その甲斐あって今日休みが取れたのだろうが、特に陰陽寮に出仕し始めて以降、高名な陰陽師である彼の力を頼る者は後を絶たないと聞いている。三日続けて休みを取ることなどできるのだろうか。
(それに……)
紫姫にもまだ何も知らせてはいない。京に親のいない花梨のため、何かと準備を進めてくれていた紫姫ではあるが、今日突然にと言うのは迷惑ではないだろうか。
花梨の顔が、物問いたげな表情から少し不安げな表情へと変わろうとした時、花梨の心の内を読み取ったかのように泰継が言った。

「今日を逃せば、次の吉日は二月以上先になる。だから、今日から休みが取れるよう、本家にも仕事を入れないよう頼んでいた」
そのため、特にこの五日間は花梨に連絡する暇もなく、予定を前倒しされた仕事に明け暮れていたのだ。
占いの結果、候補として挙げられた吉日の内、桜の季節に最も近いこの日に、泰継は最初から照準を合わせていたのだった。
「この桜が咲き始めた時、真っ先にお前に見せたいと思った」
泰継は、ちらりと桜の木に目を遣った後、再び花梨に視線を戻した。
「だが、満開になってからと思い、今日まで黙っていたのだ。お前を驚かせたいと思って、紫姫にも口止めしていた」
「紫姫に?」
驚いて訊ねる花梨に、泰継が頷く。
「前以って紫姫には知らせてあったのだ。“婚儀は今日から行う”と……」
泰継の返答を聞いて、花梨ははっとした。

―――今日は大切な方の大切な行事があるのです。

今朝、紫姫が言っていた事を思い出した。
では今朝、いつもより屋敷が騒がしかったのは……。

朝早くから女房たちが慌しく働いていたのは、自分と泰継の婚儀の準備のためだったのだと、花梨は漸く理解した。

「お前も、桜が咲くのを待っていたのだと聞いて、嬉しく思う」

そう告げる泰継の顔に、嬉しそうな笑みが浮かんでいる。普段は白磁のように白い頬に、薄っすらと赤みが差していることに、花梨は気が付いた。
以前と比べ、随分と感情を表すようになって来たとは言え、泰継が自らの感情をこれほどはっきりと顔に出すのは珍しい。
それほど、自分との婚儀の日を待っていてくれたということだろうか。自分と同じように。
愛される幸せと、そして支えてくれる誰かがいるという幸せを改めて感じた花梨は、胸の奥の方から込み上げてくるものを抑えることができなかった。忽ち視界がぼやけていく。
涙を見せたらまた泰継が心配すると思い、花梨は瞳を潤ませたまま笑顔で泰継に応えようとした。
しかし、瞬きした途端、瞳から溢れ出た雫が赤く染まった頬を流れ落ちて行った。
その雫は、花梨の頬に添えられていた泰継の指先によって拭われた。

―――嬉し過ぎて……。他にどうしようもないから、涙が出てくるの……。

花梨の言葉を思い出しながら、泰継は指先を濡らす涙の温かさを感じていた。
未だ人の心の動きを読むことに疎い泰継だったが、その温かさから花梨の気持ちを容易に知ることができた。
花梨の頬を流れ落ちる涙は、あの日と同じ想いを孕んでいる。
この桜の下で、共に幸せになると誓った、あの日と同じ――…。


「待たせてすまなかった」


謝罪の言葉を口にした泰継に、花梨は首を横に振った。彼が自分を迎え入れるために、どれほど尽力してくれていたかを知っているから。
泰継の顔が近づいて来るのを感じた花梨は、瞳を閉じて次の瞬間を待った。



重なり合う二つの影を包み込むように、薄紅色の花弁が降り注いでいた。







〜了〜


あ と が き
読んでお分かりの通り「雪花」の続編として作った話です。
「雪花」で“桜が咲いたら”と約束し合った二人。桜が咲き、ようやく結婚できることになりました。
新居の完成が予定より遅れているため、泰継さんは暫く紫姫の館に世話になっている花梨ちゃんの元へ通うつもりのようです。泰継さんなら、新居が完成するまでの間、安倍家の離れで花梨ちゃんと暮らしそうな気がしますが、彼がそうしなかったのには実は訳があります。これについては、そのうち書いてみたいと思っています。
いつにも増して砂吐き甘々な話にも拘わらず、読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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