親心−天狗編−
泰継と花梨が初めて夫婦喧嘩をしてから十日余り過ぎた早朝のことである。


「花梨、行くぞ」
庵の戸締りを済ませた泰継が、庵の脇に咲いていた草花を眺めていた花梨に声を掛けた。道端にしゃがんでいた花梨は微笑みながら元気良く「はい」と返事をすると、立ち上がって泰継の傍に駆け寄った。
「じゃあ、行きましょう!」
泰継の腕に自分の腕を絡めた花梨は、泰継に嬉しそうな笑顔を向けた。その笑顔に泰継の口元が綻ぶ。
花梨の希望で、今日はこれから二人で京の町を散策する予定になっているのだ。神子の務めで毎日のように散策していた京の町だが、まだまだ花梨が知らない場所も多い。それに花梨が京にやって来たのは昨年の秋だったから、春を迎えた京の町を見ておきたいと思ったのだ。神子の務めで何度も訪れた場所でも、春には秋冬とは違った表情を見せてくれるであろうから。
だから、今日は主に花見をするために京の町を二人で歩くつもりである。


あの一件があってから数日間、泰継はずっと花梨の傍に居てくれた。二人きりで甘い新婚生活を送りたいという花梨の夢が漸く叶ったのである。
花梨は自分の話を聞いてくれて、花梨が泰継に直接話せなかった事を彼に伝えてくれた天狗に感謝した。

ところが夢が叶って数日もすると、花梨には気になる事が出来てしまったのだ。
あの日以来、安倍家から仕事の依頼が来ても、花梨と共に過ごすために泰継はすべて断っていた。どうやら花梨を一人にすると、また龍神がちょっかいを出して来ると思っているらしいのだ。
花梨としては泰継の気持ちも常に傍に居てくれることも嬉しいのだが、日が経つにつれ自分だけが彼を独占していても良いのだろうかと思うようになってきた。泰継の仕事は、言わば困っている人を助ける仕事であったから、自分が彼を此処に引き止めていることで困る人がいるのではないかと思ったのだ。
元より花梨は困っている人をそのままにしては置けない性格である。それは龍神の神子の役目を終えた今、以前よりも更に強くなっていた。
だから「泰継さんの力を必要としている人がいるなら助けてあげて」と泰継に訴え、数日前から彼に仕事復帰してもらっていた。
しかし、花梨を一人庵に残して仕事に出掛けることを泰継はまだ気にしているようだったので、泰継が仕事の日は花梨も一緒に山を下り、泰継の仕事が終わるまで紫姫の館で過ごし、帰りに館まで迎えに来てもらうことにした。
その件はそれで一応解決したのだが、もう一つ花梨には気になる事があった。
それは、あの日以来、北山の動物達が全く庵に姿を見せなくなった事だった。
最初の数日は、天狗が北山の動物達に「暫く庵には近付くな」と言ってくれたからだろうと思っていた花梨だったが、ここ数日は庵の戸口に泰継が式神を置いていなくても、庵を訪れる者はいないのだ。
以前はあれほど昼夜を問わず来客があったのに、それがパタリと途絶えてしまった事を、花梨は不審に思っていた。
――彼らの足が途絶えてしまった事を、泰継はどう思っているのだろうか?
とても気になったけれど、花梨は泰継に訊ねることが出来なかった。自分の我が儘が彼から友人を奪ってしまったような気がして、後ろめたいような気持ちになってしまうからだった。


「どうした?」
そんな事を考えながら歩くうちに、知らず知らずのうちに沈んだ表情を浮かべてしまっていたらしい。花梨の表情の変化に気付いた泰継が声を掛けて来た。
いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げて花梨が泰継を仰ぎ見ると、気遣わしげな表情を浮かべた顔がこちらを見下ろしている。
「ううん。何でもないです」
慌てて首を横に振り、花梨はそう言った。彼に心配はかけたくない。
(きっと、天狗さんが言ってくれたから、今は皆遠慮しているだけだよね?)
――そのうちに、また以前のように庵を訪ねて来るに違いない。
心の中で自分にそう言い聞かせ、花梨は泰継に微笑みかけた。泰継の腕に抱き付くように絡めていた腕の力を少し強めると、漸く泰継は気遣わしげな表情を消して微笑んだ。


「あれ? あの子……」
庵を出て暫く歩いた道の先に見覚えのある動物がいるのに気付き、花梨は立ち止まった。彼女に倣うように泰継も歩みを止める。
それは北山に居を移した日の夜、庵を訪ねて来た狐の親子だった。彼らもあの日以来庵には顔を出していなかった。子狐の怪我は順調に回復してはいたが、完治していた訳ではなかったので、花梨も気になっていたのだ。口には出さないが、恐らく泰継は自分よりも子狐のことを気にしていただろうと花梨は思っている。
花梨は抱き付いていた泰継の腕を解放し、前方に向けていた視線を隣に立っている泰継に転じた。
「泰継さん……」
促すように名を呼ぶ花梨に頷き掛けると、泰継はゆっくりと狐の親子の方に歩み寄った。花梨もその後を追ったが、狐達のすぐ傍まで近付いて行く泰継から少し距離を置いた位置で立ち止まって見守ることにした。
泰継と花梨に気付いた母狐がびくっと身体を震わせたのが、少し離れた場所にいた花梨からも見て取れた。怪我をした子狐がいなければそのまま走り去ってしまいそうなその仕草に、花梨の胸はズキリと痛んだ。彼らが泰継を避けているのは、間違いなく自分の我が儘の所為だ。
(もし天狗さんに言ってもらった所為で、動物達が泰継さんのことを嫌いになったりしたらどうしよう……)
この数日間、花梨はずっとその事を気に病んでいた。風が庵の戸を叩く度に、ついそちらに目を遣ってしまう程に。
だから今も狐達の傍に近付くことが出来なかったのだ。
花梨の視線の先には、山道の真ん中で立ち止まってこちらをじっと見つめている狐達にゆったりとした足取りで歩み寄る泰継の姿があった。
「子の怪我はどうだ? 折角此処で会ったのだ。見せてみろ」
泰継は自分が治療した子狐の傷の経過を診るため、その場に屈み込んだ。子狐の後肢に手を遣り、傷の状態を確認する。野生の動物は治癒力が高いらしく、深手だった傷は既に塞がり、子狐が怪我をしていたという痕跡は、治療の際に少し剃ってしまったためにまだ生え揃っていない体毛に見ることが出来るのみである。泰継は傷が順調に治っていることを確認し、小さく息を吐くと手で押さえていた肢を放した。
母狐はその様子を傍でじっと見つめていた。
「最近、皆顔を見せぬな。天狗から聞いているかと思うが、戸口に式を置いていない日は遠慮なく訪ねて来るが良い」
子狐の肢から母狐に視線を移した泰継が母狐にそう言っているのが聞えて来て、花梨は顔を曇らせた。
(やっぱり、泰継さんも動物達の足が遠退いていることを気にしていたんだ……)
そう思うと、やはり責任を感じてしまう。
母狐が泰継に何か言っているのを見ていた花梨は、視線を逸らして俯いた。

「……何?」
突然泰継が上げた声に、母狐が驚いてぴくりと身体を震わせた。花梨も驚いてそちらを見遣る。泰継の声が珍しく怒りを含んだような冷たく鋭いものだったからだ。
「天狗がそのような事を言っていたのか?」
泰継がすくと立ち上がった。
無駄の無い流れるような身のこなしに、いつもなら思わず見惚れてしまう花梨だが、今は違った。
真っ直ぐに背筋を伸ばした立ち姿は、普段と全く変わるところはなかった。ただ一つだけ違っていたのは、彼が下ろしていた両手で握り拳を作っていたことだけだった。
泰継の背中を見た花梨は、思わずびくりと肩を震わせていた。泰継が立ち上がった瞬間、まるで彼自身が冷気を発しているかのように、周囲の温度が数度下がったように思われたのだ。狐達も花梨と同じように感じたらしく、彼が立ち上がった途端、びくっと身体を震わせて数歩後退った。
(泰継さん……。もしかして物凄く怒ってる……?)
先程の泰継の言葉から、花梨は母狐が彼に話していたのが天狗が動物達に話した内容だったのだろうと思っていた。

『皆には暫くお主の庵には近付くなと儂から言っておこう』

あの日天狗はそう言っていたから、動物達にも「暫く庵を訪れないように」としか言っていない筈である。
―― 一体、泰継は何をそんなに怒っているのだろう?
最近は花梨と出逢った頃と違い、随分と感情を表に出すようになっていた泰継だが、冷静沈着で何事にも泰然としているという性質は、以前と変わらず健在である。
その彼がこれほど怒りを露にするとは、天狗は一体動物達に何と説明したのだろうか。
花梨は小首を傾げた。

「花梨……」
「はっ、はい!」
不意に泰継が背を向けたまま声を掛けて来た。突然掛けられた声に、花梨の肩が跳ね上がる。
泰継がゆっくりと振り返った。
真っ直ぐに花梨を見つめる秀麗な顔には、一見何の表情も浮かんでいないように見えた。しかし、泰継の表情の変化に敏い花梨には、その綺麗に感情を消し去ったかのような無表情が彼の怒りの程を表していることが見て取れた。
花梨の顔に視線を固定させたまま、泰継が近付いて来る。花梨はその様子を呆然と見つめていた。
「すまぬ。天狗に用が出来た。すぐ終わらせる故、暫く此処で待っていてくれ」
泰継はそう言いながら花梨の傍を通り過ぎ、足早に庵の方へ戻り始めた。
「えっ? ちょっと! 泰継さん!」
遠ざかって行く泰継の背中に声を掛けた花梨だったが、泰継は花梨の声も聞こえていないかのように、振り向くことなくどんどん北山の奥へと歩き去って行く。泰継の背中からまだその場にいた狐達に目を転じ、再び遠ざかって行く泰継の背に視線を戻した花梨は、一瞬だけ逡巡した後決心した。
「泰継さん! 待って!」
呆然と泰継を見送っていた狐達に「またね」と別れを告げ、花梨は泰継を追って小走りに来た道を戻り始めた。





『皆には暫くお主の庵には近付くなと儂から言っておこう』

足早に庵の前を通り過ぎ、天狗松へ向かっていた泰継は、過日天狗が言っていた言葉を思い起こした。
すっかり天狗を信用し切って、自分で直接皆に説明しなかったのが間違いだった。
先程の狐の話によれば、確かに「庵には近付くな」という事は、皆に伝わっているらしい。
しかし――…。

(天狗め。他に言い様があろうものを……)

風を切って歩きながら、泰継は心の中で悪態を吐いた。

先程母狐がおずおずと語った話によると、どうやら天狗は花梨が淋しがっているから邪魔はするなと彼らに話したらしいのだ。天狗の口振りから、それを聞いた者たちは、「龍神の神子は自分達が安倍の方の元を訪れることを嫌がっている」と思い込んでしまったのだと言う。しかも「暫く」という言葉が抜けていたため、「今後一切の訪問を差し控えよ」との意味に取ってしまったらしいのだ。
確かに泰継が彼らの相手をするため時間を割いていたため、花梨が淋しがっていたのは事実である。しかし、花梨は彼らの訪問自体を嫌がっていた訳ではなかった。
それを、まるで花梨が嫌がっているかのように伝えるとは――…。

天狗松に向けて歩を進めながら、泰継は顔を顰めた。

あの日以来、庵に出入りしていた者たちが全く姿を見せなくなったことを花梨が気にしているらしいことに、泰継は気が付いていた。
この数日間、風が庵の戸を微かに揺らせる度に、花梨は戸口に目を向けていた。昨日も泰継が呪符を書いている間、花梨は時々外に出たり窓から外を眺めたりしていた。そして誰も来ていないのを確認しては、小さく溜息を吐いていたのだ。見兼ねて花梨に「どうした」と訊ねてみたが、「何でもない」との答えしか返って来なかった。
しかし、如何に花梨が隠そうとしても、泰継には彼女の気が沈んでいることが判ってしまうのだ。
恐らく花梨は、彼らが庵を訪れなくなってしまったのは自分の所為だと思い込んでいるのだろう。
決して彼女の所為ではないのに……。
彼らの足が遠退いてしまったことは、泰継自身も気になってはいた。だが花梨に二度と淋しい思いをさせないようにするためには、ある程度彼らと距離を置くことになっても仕方がないと思ったのだ。
今の泰継にとって、大切なものは花梨以外にはないのだから。
その一番大切な花梨の顔を曇らせる原因を作った天狗に、泰継の怒りは収まらない。

獣道のような山道を足早に歩きながら、泰継は天狗の気を探っていた。まだ夜が明けてそれ程時間は経っていない。この刻限であれば、天狗はいつものようにあの松に腰掛けて、北山の霊気に身を任せているはずだ。

―――いた……!

目的の気を探り当てた泰継は、更に歩行速度を上げた。
途中、庵によく出入りしている兎とすれ違ったが、いつもと違いそちらには目もくれず通り過ぎた泰継に、兎が目を丸くして彼の後姿を見送った。
間もなく前方に泉が見えて来る。
そのほとりに位置する松の枝の上には、案の定天狗の姿が見えた。どうやら庵の近くに棲まう山鳥達に何やら話している最中のようだ。
しかし泰継は遠慮することなく松に歩み寄った。


「天狗っ!!」

普段の泰継らしからぬ怒鳴り付けるような声に、天狗の話を聞いていた山鳥達が松の枝から飛び立った。山鳥達は時々泰継の庵を訪れていた者たちだったため、今まで聞いたことがなかった彼の怒気を帯びた声に吃驚したのだ。彼らは天狗松を離れ、山道を挟んで反対側の木々の枝に留まり、恐る恐る成り行きを見守っている。
泰継はそちらを見ようともせず、天狗を睨み付けたまま松の木に近付いた。
天狗は枝の上からその様子を眺めていたが、射るような目を向けている泰継を気にした様子もなく、いつもと同じ調子で話し掛けた。
「何じゃ、泰継。朝っぱらから騒々しいのぅ」
のんびりとした口調に、泰継は眉根を寄せた。
「あれから神子を泣かしてはおらんじゃろうな?」
続いて掛けられた言葉に、泰継の眉が跳ね上がった。
「今日はそのような事を話しに来た訳ではない」
泰継は天狗の問い掛けには応えず、如何にも冷たい声でそう言った。松の木から数歩距離を置いた地点で立ち止まり、天狗に鋭い視線を送る。
「単刀直入に言う。一体皆に何と話したのだ?」
「何の話じゃ?」
更に声の温度を下げた泰継にも意に介した様子もなく天狗が問う。本当は泰継が言う「話」が何であるのか天狗には判っていた。しかし神子に関わる事となると普段の冷静さを欠いてしまう泰継を、ついついからかいたくなってしまうのだ。だから、わざと知らぬ振りをして問うてみたのだった。
「先日の話だ!」
間髪を入れずに泰継が答えた。天狗ののほほんとした態度には苛々させられることは多いが、今日ほどその事を強く感じることはなかった。
「『暫くの間、庵には近付くなと皆に言ってやる』――と言っていたな? 一体皆に何と伝えたのだ?」
団扇をのんびりと揺らしている天狗に、泰継の冷たい声が飛ぶ。
天狗はその言葉を聞いて、やはりあの件だったかと納得する。
「あの日以来、私の庵を訪ねて来る者はなくなった」
その言葉に天狗は軽く目を瞠った後、笑みを浮かべた。
「ほう。皆儂の言い付けを守っておるのじゃな。良かったではないか。これで神子も淋しがらずに済むであろう?」
「それが良くないのだ!」
険しい表情を浮かべ、泰継が切り返す。それを聞いた天狗は、笑みを消して首を傾げた。
庵を訪れる者がなくなれば、泰継と二人きりで過ごしたいという神子の願いは叶ったはずである。それなのにそれが良くないとはどういう事なのか――。
天狗には判らなかった。
「お前に言われた通り、花梨と二人で過ごすと決めた日には戸口に式を置いていた。だが、式を置いていない日も庵を訪れる者がないことを、花梨が気にしている。庵を訪れる者がないのは自分の所為ではないかと思い込んでいるようなのだ……」
そう言って、泰継は初めて天狗から目を逸らして顔を伏せた。そのまま口を噤み、何事か考え込むように暫し沈黙する。

花梨の事を話す時、泰継の表情が曇ったのを見て取り、天狗が大きく目を見開いた。
泰継が天狗にこのような表情を見せることは余りない。
人型を得た泰継と初めて会った時、泰明よりは幾らかましかとは思ったものの、やはり泰継も天狗の前では表情の変化は少なかった。それが、神子と出逢ってからと言うもの、泰継は様々な表情を天狗にも見せるようになった。
それが天狗には嬉しいのだ。
(こやつがこのような顔を見せるようになったのも、神子のおかげじゃな)
天狗は様々な表情を見せるようになった泰継が可愛くて仕方がない。
だから、今のように憂いを帯びた表情を見せられると、何とかしてその憂いを解いてやりたいと思ってしまうのである。それが天狗の泰継に対する親心でもあった。

俯いていた泰継が、ゆっくりと顔を上げた。地面に落としていた視線を再び天狗に固定させる。
「今し方、狐に会った」
じっと天狗の目を見据えたまま、泰継が口を開いた。
「あの者達はお前の話を聞いて、自分達が私の元を訪れることを花梨が嫌がっていると思い込んでいたのだ。だから今後一切の訪問を差し控えるつもりでいたらしい」
それを聞いた天狗が目を瞠る。
「その所為で花梨が責任を感じ、暇さえあれば外を覗いている。そして誰も来ていないのを確認して、顔を曇らせて溜息を吐くことが多くなった」
そう語る泰継の顔が曇る。その声音には、既に先程までの怒気は含まれていなかった。いつも通りの冷静な声のようでいて、何処か辛そうな声である。
「それを見ているのが辛いのだ……」
戸口を覗いて溜息を吐いた花梨に「どうした」と訊ねた時、彼女は「何でもない」と笑顔で答えた。しかし、その笑顔が作られたものであることが、泰継には判っていたのだ。明るい笑顔に反し、彼女の気は沈んでいたから。
自分に心配をかけまいと無理に微笑む花梨を見ていることが出来なくて、庵に来ていた者たちをこちらから招こうと思っていたところだったと泰継が話す。
それを聞いた天狗は慌てた。確かに、先日のように神子が淋しがって泣いたりすることがないよう、泰継の庵に出入りしている者たちに、新婚家庭の邪魔をするなと言ったことは言った。しかしそれは泰継と神子のことを思ってのことだった。
花梨が泣けば、泰継が傷付く――そう思ったからだ。
「ちょっと待て。儂はお主の庵を訪ねることを神子が嫌がっているなどと、一言も言ってはおらんぞ」
「では一体何と言ったのだ」
再び険しい表情に戻った泰継が天狗を追及する。
「それはだな……」
天狗が話し始めようとしたその時、泰継は背後で微かな気配を感じ取った。
ゆっくりと後ろを振り返った泰継は、大きく目を見開いた。

「花梨……」

振り返った泰継の目に入ったのは、柔らかく微笑む花梨の姿だった。
普段は気配に敏い泰継であるが、不覚にも花梨がそこにいたことに全く気が付かなかった。
――彼女には聞かせたくなかったのに……。
ゆっくりとした歩調で歩み寄って来る花梨を呆然と見つめていた泰継の顔に、戸惑いの色が浮かんだ。
「泰継さん……」
泰継のすぐ傍で立ち止まった花梨は、彼の瞳から目を逸らさずに言った。
「私、泰継さんに心配かけちゃったんだね。ごめんなさい……。それから、ありがとう……」
その言葉に泰継が目を瞠る。
驚きの表情を浮かべた泰継に、花梨は微笑んだ。

足早に泉の方に向かった泰継を小走りで追った花梨は、木の影から天狗と泰継の遣り取りを途中からずっと聞いていた。
この数日間、庵を訪れる者がいなかったことから、泰継がたった独り此処で暮らしていた頃からの友人を彼から奪ってしまったのは自分かもしれないと、ずっと気になっていた。しかし泰継が心配すると思って、彼には隠していたつもりだった。
だが、やはり泰継には隠し事は出来ないようだ。
努めて明るく振舞っていても、口先で何と言っていても、気の変化で彼は隠された本心を察してしまうのだ。
それに、いつも冷静な泰継がさっきのように怒りを露にすることは、滅多に無いことだ。
心配をかけてしまって悪いと思う気持ちも大きいが、花梨には泰継が常に自分の事を気に掛けてくれていることが嬉しいという気持ちの方が大きかった。

「皆誤解していただけみたいだから、ちゃんと説明しましょう。そうしたらきっと、皆分かってくれると思うから……」
花梨は泰継の手を取り、軽く握り締めた。
花梨の気を探り、彼女の笑顔が無理に作られたものではないことを確認し、漸く泰継は安心する。口端に微かな笑みを浮かべて頷いた。
「だから、天狗さんと喧嘩したりしないで……」
「喧嘩していた訳ではないが……」
花梨の憂いを取り除くため、その原因となったらしい天狗を追及していただけだ――そう思っていた泰継は、秀麗な顔に一転して困惑した表情を浮かべた。
「だって、泰継さん、凄く怒っていたでしょう? 狐さん達も驚いていたもの」
花梨の指摘に泰継は何も言うことが出来なかった。確かに、近付く花梨の気配にも気付かない程の怒りを覚えたことは、今までなかったように思う。
それが花梨が現れた途端、一瞬にして消え去ってしまったのが不思議だった。

自分の言葉に泰継が再び目を瞠ったのを見つめながら、花梨は言葉を継いだ。

「でも、嬉しかったの……」

私のことをこれ程心配してくれたことが。
そして、彼には喧嘩出来るほど仲の良い親代わりがいるということも――…。

泰継が微笑みながら手を握り返すのを感じた花梨は、泰継に笑みで応えた後、狭い山道を挟んで反対側の木々の枝に留まって成り行きを見守っていた山鳥達の方を見た。
「皆も庵の入り口に泰継さんの式神さんがいない日や、泰継さんに急ぎの用事がある時は、遠慮しないで庵に来て頂戴ね」
突然花梨に声を掛けられた山鳥達は、暫くじっと花梨の方を見つめていたが、やがてその中の一羽が一声鳴き声を上げた。
「ちゃんと通じたかな?」
こちらを見つめながら心配そうにそう問う花梨に、泰継はいつもの台詞で応じた。
「問題ない」
嬉しそうな笑顔を見せた花梨を、泰継は目を細めて見つめた。

「天狗さんもありがとう」
松の枝に腰掛けているであろう天狗に花梨が声を掛けた。それを聞いた泰継が眉を顰める。
「お前があれに礼を言う必要はないだろう」
「親に向かって『あれ』とは何じゃ」
「誰が親だ」
『あれ』扱いされて抗議した天狗に、間髪を入れず泰継が不機嫌そうに言う。
「もう、泰継さんってば」
花梨が天狗に話し掛けると忽ち機嫌を損ねてしまった泰継に、花梨は苦笑した。
(本当に、仲の良い親子みたい……)
くすくすと声を上げて笑う花梨に、天狗と泰継は困惑の表情を浮かべて花梨を見つめるしかなかったのだった。





「泰継さん。私ね……」
天狗に別れを告げて再び京の町へ向けて山を下りながら、花梨が泰継に声を掛けた。名を呼ばれた泰継が、隣を歩く花梨の横顔に視線を向ける。
「私、北山に住んで本当に良かったと思うの」
前に視線を向けたまま呟くように花梨が漏らした言葉に、泰継は目を見開いた。
「何故?」
花梨の歩調に合わせ、ゆったりとした足取りで歩を進めていた泰継は、突然の花梨の言葉に思わずそう問い返していた。
庵のある場所は北山でも奥地だ。訪ねて来る者もない。
紫姫の館にいた頃、花梨の周りにはいつも人が集まっていたから、こんな辺鄙な所に住むのは花梨には似つかわしくないと思っていた。
自分をじっと見つめる視線に気付いた花梨が、泰継の方に顔を向けた。
「だって、色んな泰継さんに出逢えたから……」
その言葉の意味が判らず、泰継が小首を傾げた。その動きに合わせて、一つに束ねられた絹糸のような髪がさらりと流れる。
訝しげな表情を浮かべて見つめ返す泰継に、花梨は一人微笑んだ。

天狗や北山の動物達と話している時、泰継は他の誰といる時より自然だと花梨は思う。
動物達には、泰継が人であろうがなかろうが関係ない。ただ泰継自身を慕い、彼の周りに集まって来るのだ。庵で暮らしてみて、花梨にはそれがよく判った。

恐らく彼は、この神秘的な北山に愛されている人なのだろう。
そして、この山に棲むすべての者が、彼の家族だったのだろう。

――花梨にはそう思えてならないのだ。


「何だかちょっと妬けちゃうな」
ぽつりと花梨が漏らした意外な一言に泰継が驚く。
「一体誰に妬くと言うのだ?」
――私の大切なものはお前以外にないぞ?
覗き込んで来る琥珀色の瞳が、雄弁にそう語っている。
それを見た花梨は心の中で苦笑しながら、泰継の問いに答えた。

「私と出逢う前の泰継さんを知っている天狗さんや動物達に……」

花梨が京に来てから、まだ半年しか経っていない。
九十年もの長い年月を過ごして来た泰継の、たった半年分しか花梨は知らない。
だから、泰継が人型を得る前から彼のことを知っているという天狗に、思わず嫉妬してしまう――。

花梨の答えに、泰継は一瞬言葉を失った。花梨がそんなことを考えているとは思いも寄らなかったのだ。
「泰継さんのこと、全部知りたいって思っていたから……。だから、北山に来て良かったって思ったの……」
ふふふ、と嬉しそうに花梨が笑う。
その笑みにつられ、泰継の口元も自然と綻ぶ。
花梨の肩を抱き寄せると、花梨が腕を背に回して軽く身体を預けて来るのを感じた。
「天狗さんは本当に泰継さんのこと、自分の息子みたいに思ってるんですね」
何気なく呟いた一言に、花梨は肩に置かれた手がぴくりと反応するのを感じた。
「……あれは、私をからかって喜んでいるだけだ」
むすりとして泰継が答える。
「そんなことないですよ。天狗さんって、本当に泰継さんのことが可愛くて仕方がないみたいだし」
花梨が口にした「可愛い」という言葉に、泰継はぴくりと反応した後沈黙する。
「……………迷惑だ……」
長い沈黙の後泰継がぼそりと漏らした呟きに、花梨は苦笑した。

泰継が天狗に苦手意識を持っているらしいことは、傍で見ていてよく判る。
彼が人型を得る前から彼のことを知っているのは、今となっては天狗だけだ。つまり天狗は最も泰継の身近にいて、最も古くから付き合いがある訳だ。泰継のことを最もよく知っているのも天狗だろう。
だからこそ、泰継は天狗に対して苦手意識を持ってしまう。
しかし、彼が決して天狗のことを嫌っている訳ではないことにも、花梨は気が付いていた。
ただ、いつまで経っても子供扱いする天狗に、つい反発してしまうだけなのだ。
それは大人になっても子供扱いする親に子が反抗するのと同じだと花梨は思う。
彼らの会話を聞いていると、本当の親子の会話のように聞こえるのはそのためだろう。

(本当に仲が良いんだから……)

天狗の話を持ち出しただけで忽ち不機嫌になってしまった泰継の横顔を見つめながら、花梨はくすりと笑った。

『泰継は儂にとっては息子も同然じゃからの』

天狗のあの言葉に偽りはないと思う。
天狗は今までずっと泰継を見守り続けて来たのだろう。
亡き親友の忘れ形見として、ずっと――…。
泰継と喧嘩したあの日、天狗が花梨の話を聞いてくれたのも、自分のためではなく本当は泰継のためだったのだろうと花梨は理解している。

「子供思いの良いお父さんですね……」
花梨の呟きを聞き取った泰継が花梨に視線を落とすと、ちょうど泰継の顔を見上げていた花梨と目が合った。
驚きに一瞬だけ見開かれた琥珀色の瞳が、複雑な色を滲ませて花梨を見つめている。それを受け止めた花梨は優しく微笑んだ。
「泰継さんが独りだった訳じゃないって判って、安心しちゃった」
北山には彼を慕って集まって来る動物達も、彼のことを我が子のように心配し慈しんでいる親代わりもいる。
そのことが、花梨にはとても嬉しい。
そう話すと、花梨の嬉しそうな笑顔を複雑な表情で見つめていた泰継は、何か言おうとして口を開きかけたが、結局何も言わずに口を閉ざしてしまった。それと同時に抱き寄せていた肩を解放すると、花梨から逸らした視線を再び前方に向ける。
突然逸らされた視線に、花梨は笑みを消して訝しげな表情を浮かべた。抱き付くように泰継の背に回していた腕を下ろし、彼の顔を覗き込んだ。
泰継は無言のまま真っ直ぐに前を見据え、何事か考え込んでいる。その横顔には何の表情も浮かんではいなかった。
「泰継さん……?」
彼の気に障ることを言ってしまったのだろうかと、花梨は不安になって声を掛けた。
暫しの沈黙の後、漸く泰継が口を開いた。

「私が安倍の家を出てこの北山に庵を結んだ時、此処に存在するすべての者が私を受け入れてくれたのだ……」

北山に鬱蒼と生い茂る木々も
此処に棲む動物達も
すべて――…。

年を取らぬことを不審に思われていたこともあり、創造主でもあり師でもあった人物の死を契機に、逃げるように本家を後にした。そんな自分を受け入れてくれたのが、この北山だった。

「天狗も、その中の一人だった」
言いながら、泰継はその場に立ち止まり、空を仰いだ。
鬱蒼と生い茂った木々の枝葉の間から、春の暖かな日差しが漏れている。
手を翳して眩しげにそれを見つめていた泰継は、やがて身体ごと花梨の方を振り返った。
さっきまで無表情だった美貌に浮かんでいたのは、頭上から降り注ぐ木漏れ日のような柔らかな微笑み――。
その微笑みに、花梨は言葉もなくただ呆然と見惚れていた。

「そのことについては、感謝している……」

花梨という人生の伴侶を得た今、泰継は独りではない。
しかし花梨が言う通り、人型を得てからの九十年間、自分は決して独りではなかったと泰継は思う。
かつて花梨に問われた時答えたように、天狗や動物達や木々等、話し相手に不自由したことはなかったからだ。
その中でも最も深く最も長い付き合いなのが天狗だった。
泰明を生み出す際、天狗が晴明の手助けをしたということは、天狗自身から聞いて知っていた。
だからこそ、天狗が自分のことを息子扱いすることに反発を覚えたのかもしれない。
――私は泰明ではない。
その思いがあったから――…。

しかし、最も自分のことを気に掛けてくれていたのは天狗だったと思う。
北山に庵を構えた時から、ずっと――…。

「だから、感謝している……」

そう語る泰継の優しい笑みに見入っていた花梨は、自らも嬉しそうに破顔した。
「今度、天狗さんにも庵に来てもらいましょう」
再び抱き付くように腕を絡ませながら提案する花梨に、泰継は微笑みながら頷いた。





◇ ◇ ◇





翌朝―――


泰継と花梨の住まう庵に、数羽の鴉がやって来た。『安倍の方は龍神の神子といる時はまるで別人のようだ』と天狗に報告したあの鴉達である。昨日二人で京の町を散策している途中偶然出会ったので、泰継が「明日来ないか」と声を掛けたのだ。
久しぶりに泰継を訪ねて来た客に、花梨も笑顔で鴉達を歓待した。
花梨にも彼らの言葉が判るようにと泰継が通訳代わりの式神を用意してくれたため、先日までとは違い花梨も泰継と彼らの話に加わることが出来たのだ。
鴉達も昨日の狐達と同じく、やはり天狗の話を聞いて庵への訪問を自粛していたのだと言う。
「一体、天狗はお前たちに何と言ったのだ?」
そう言えば、昨日は話の途中で花梨がやって来たため、天狗が動物達に何を話したのか聞けなかったなと思い、泰継が鴉達に訊ねた。
何気なく掛けられた泰継の問いに、おしゃべりで正直者の鴉達が告げた天狗の言葉とは――…

『お主らが毎日泰継を訪ねるせいで、神子が淋しがっておるのじゃ。お主らのせいで神子があやつに愛想を尽かしてみぃ。あんな朴念仁の元へ嫁に来てくれる娘など他におらんじゃろう?』

『齢九十にして漸く実った初恋じゃぞ。お主らのような邪魔者からあやつの幸せを守ってやるのも、親代わりたる儂の役目なのじゃ。ふぉふぉふぉ』

――それが儂の親心なのじゃよ……。

団扇をゆらゆらと揺らしながら、天狗松の枝の上で踏ん反り返って得意気にそう話す天狗の姿が泰継の脳裏を過ぎった。しわがれた笑い声が耳元で繰り返し響いているような気がする。

『儂はお主の庵を訪ねることを神子が嫌がっているなどと、一言も言ってはおらんぞ』

昨日天狗が言っていた言葉は、確かに嘘ではないらしい。
しかし――…。

(何が親心だ……)

泰継が膝の上に置いた手で拳を作った瞬間、庵内の空気が一気に凍り付いた。
おしゃべり好きの鴉達も口を噤み、まるで寒さを凌ごうとしているかのように一箇所に集まって小さくなっている。
主の命に忠実な式神を通して鴉達の話を聞いていた花梨も、その気配を察して泰継の方を見た。
普段は凪いだ泉のように静かな琥珀色の瞳に、今は明らかに怒りが宿っている。
昨日と全く同じ状況に、花梨の緑色の瞳が大きく見開かれた。

「花梨……」
「はっ、はい!」
普段花梨の名を呼ぶ甘い声とは全く違う低く押し殺した声に、花梨の肩が跳ね上がる。
「前言撤回だ。天狗には金輪際この庵には踏み込ませぬ」
泰継は懐から符を取り出して呪を唱えた。符は忽ち梟に変化した。
「泰継さん! 天狗さんと喧嘩しちゃ駄目ですっ!」
どうやら天狗に向けて式を放つつもりらしいと察した花梨が慌てて泰継の腕を掴み、止めようとした。
「喧嘩する訳ではない。親心とやらを一方的に押し付けられるのは有難迷惑だと言ってやるだけだ」
不機嫌そうに言いながら式神を放つ。
(もう。本当にこの親子は……)
花梨は小さく溜息を吐いた。喧嘩するほど仲が良いとは言うものの、もう少し仲良く出来ないものだろうか。
(でも……)
天狗の前では、泰継は花梨が知らなかった一面を見せてくれることが多いようだ。
いつもの無表情や花梨の前でのみ見せる優しい笑顔とは違う、心を許したような打ち解けた表情がそこにはあった。
それが花梨には嬉しい。

「どうした?」
突然くすりと笑いを漏らした花梨に泰継が問う。既に先程まで纏っていた怒気は感じられない。
「ううん。何でもないの」
笑みを浮かべたまま首を横に振る花梨を、訝しげに泰継が見ている。それに気付いた花梨は言葉を継いだ。
「でも、天狗さんに言っておかなきゃ。『私が泰継さんに愛想を尽かしたりすることはありません』って……」
その言葉に一瞬虚を衝かれたようにきょとんとした表情になった後、泰継は柔らかな笑みを浮かべた。
「花梨……」
今度は先程とは違い、いつもの甘い声で花梨を呼ぶ。
「ありがとう……」
花梨を抱き寄せ、何か答えようと僅かに開きかけた唇に軽く口付けた。



安倍の方と龍神の神子の熱々ぶりは、それを目の当たりにした噂好きの鴉達によって、すぐに北山全体に広がった。
それを聞いた天狗は、梟に付けられた引っ掻き傷だらけの顔を綻ばせて喜んだという。







〜了〜


あ と が き
お題創作「すれ違い」の後日談です。「すれ違い」が夫婦喧嘩だったので、今度は親子喧嘩でも…と思って書き始めたものの、当初の予定と違う話が出来上がってしまいました(苦笑)。最初、泰継さんは花梨ちゃんのために天狗さんに怒る予定ではありませんでした。
余談ですが、本来うちの泰継さんは白梟の式神は夜しか使わないという設定になっているのです。日中鳥形の式神を使う時は、ゲームの初日に出て来た白い小鳥を使っていることになっています。でも今回は特別に梟を使っておりますね。一応猛禽類ですから、攻撃するには打って付けと判断したのかも(笑)。少々過激な親子喧嘩になるのかもしれませんね。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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