親心−龍神編−
「花梨っ!!」

静寂に包まれた北山に、花梨の名を呼ぶ泰継の声が響いた。
その声に驚き、近くの木に止まっていた鳥達が、けたたましいとも言える鳴き声と羽音を残して一斉に飛び去った。
泰継はそちらには目もくれず、唇を噛んで前方の一点を凝視したままその場に立ち尽くしていた。
彼の視線の先には、全速力で北山の更に奥へと駆けて行く花梨の姿があった。
目の前に見えているのに、彼女を追い掛けることが出来なかった。
花梨を追おうとした泰継の邪魔をする者があったからだ。
その者のお陰で、山道の脇から突然伸びて来た蔓に足首や手首を絡め取られてしまい、身動きが取れなくなってしまった。手を動かすことが出来ないため符を取り出すことも出来ず、動けない自分の代わりに式神に花梨を追わせる事も叶わなかった。
やがて木立の向こうに花梨の姿が見えなくなってしまい、泰継はぎりっと歯を軋ませた。


『泰継さんの馬鹿っ! もう大嫌いっ!!』


そう言い捨てて、庵を飛び出した花梨。
呼び止める泰継の声に振り向こうともせず、まるで振り切るように走り去ってしまった。

(何故……?)

自らの疑問に対する答えを見つけ出すべく、泰継は先程の花梨との遣り取りを思い起こした。







それは、朝餉を済ませた後のことだった。
今日は、安倍家が然る貴族から依頼された加持祈祷に、泰継も加わることになっていた。安倍家からその依頼が来たのは昨夜のことだったのだが、花梨に話す間もなく狸がやって来たため、泰継がその事を彼女に伝えたのは、朝餉を終えて仕事に出掛ける直前になってしまったのだ。
その瞬間、花梨の顔色がさっと変わったことに、泰継は気が付いた。怒りを宿した緑色の瞳が射るように泰継を見ている。
そんな花梨の様子に目を瞠った泰継が「どうした?」と訊ねるより早く、花梨が口を開いた。

「泰継さんっ! 昨夜も一睡もしていないのにお仕事なんて! 自分の身体を大切にして欲しいって、いつもあんなに言っているのに!」

早口で捲し立てるように話す花梨を、泰継は瞠目したまま、言葉もなくただ呆然と見つめていた。
どうやら花梨は、身体を休めることなく仕事に行こうとしていることを諌めているらしい。
しかし、泰継が眠らずに夜を明かすことは、人になってからもよくあることだった。陰陽師の仕事は夜を徹することなど珍しくない。今更取り立てて言う程の事ではないという思いが、泰継にはあった。
そんな事を考えている間にも、花梨は興奮した口調で続け様に捲し立てている。いつの間にか彼女の話は泰継の身体の心配ではなく、此処に居を移してからの不満のようなものになっていた。
この庵を新居とする事は、元はと言えば花梨が言い出した事だった。彼女の願いを叶えたいと思ったからこそ、泰継は「次の冬が来るまで」との条件付きで、それを承諾したのだ。
それなのに、花梨には何か不満があるらしい。
しかし、泰継には彼女の不満が何処にあるのか解らなかった。
泰継に口を挟む隙も与えない程に話し続ける花梨の言葉は、かなり感情的なものになっており、泰継には到底理解不能だったからだ。
それ故、花梨の言葉に反論することもなく、ただ聞いているだけだったのだが――…。

――『傍にいてほしい』って泰継さんは言ってくれたけど……。
   泰継さんにとって私は、人形みたいにただ傍にいればいいだけの存在なの?

そう言われた瞬間、普段表情の変化の少ない泰継の顔が、はっきりと凍り付いた。いつもなら他の誰よりも彼の表情の変化に敏感な花梨だったが、この時は興奮状態にあったため、その事に全く気付いていなかった。
花梨のその言葉に少し目を細めた泰継は、それまで噤んでいた口を初めて開いた。
「私がいつ、そのような事を言った?」
玲瓏とした声が庵内に響く。
「お前の言いたい事がよく解らぬ。落ち着いて話せ」
泰継がそう言った瞬間、花梨は息を呑み絶句した。
泰継の口調は、いつもと変わらぬ冷静なものに聞こえた。
自分だけが興奮して取り乱していることに気付いた花梨は、まるで道化のようだと思った。瞬時にして興奮状態から冷め、呆然と泰継の顔を見つめていた。
平静でいられず取り乱した自分に対して、彼は飽く迄も冷静だ。
そんな泰継の態度を「冷たい」と感じた花梨は、びくっと身体を震わせた。

「――花梨?」
思い掛けない花梨の反応に、泰継は気遣わしげに彼女の方に手を伸ばした。しかし花梨が後退ったため、その手が彼女の肩に届くことはなかった。
思わぬ拒絶を受け、泰継の目が驚愕に大きく見開かれた。こんな事は、今までなかった事だったのだ。
暫くの間、お互いにただ呆然と見つめ合っていた。
やがて、花梨の肩が微かに震え始めた。自分を見つめる緑色の瞳が潤み始めたのを見て、泰継は狼狽えた。
「花梨……?」
先程よりも、幾分恐る恐る妻の名を呼ぶ。
「……い…よ」
震える声で花梨が何か言うのが耳に届いたが、何と言ったのかまでは解らなかった。
「……もういいよ……。泰継さんの馬鹿っ! もう大嫌いっ!!」
花梨の言葉を聞き取ろうと一歩彼女の方に踏み出した泰継に、花梨はそう叫んで庵を飛び出してしまったのだった。






――やはり、解らない。

微妙な動きを見せる人の心は、人になってそれ程経っていない泰継にとっては、まだまだ難解なものだった。
花梨の姿が消えた木立を見つめながら、泰継は深い溜息を吐いた。

思えば、今朝は特に花梨の気が大きく乱れていた。
元来、花梨は喜怒哀楽をはっきりと示す少女ではあった。それは、彼女が龍神の神子であった頃から変わらない。
最初のうちは彼女のそういう面を見る度、「落ち着きがない」と思うことが多かったが、いつの間にか様々な感情が作り上げる彼女の表情の変化を見ることが喜びとなっていた。
しかし先程の彼女の表情は……。
今にも泣き出しそうなのを堪えるように歪められた花梨の顔を思い出し、泰継の胸に痛みが走った。
彼女の怒りは大抵の場合、他者を思ってのものであり、怒りが通り過ぎた後には優しさだけが残る。
八葉として花梨の傍にいた頃から、泰継自身も何度か彼女に怒りの感情を向けられたのだが、その度に泰継が感じていたのは、花梨の温かさと優しさだった。
だが今朝は違った。
―――胸が、痛い……。
彼女の怒りが齎したのは温かさでも優しさでもなく、まるで稲妻のように胸に走った鋭い痛みのみ――。

(何故……?)

そう問い掛けたい相手は、既に目の前にはいない。
泰継に解るのは、この胸の痛みと邪魔をした者が何者であるかということだけだった。
その者に対する怒りが沸沸と込み上げて来る。
再び唇を噛んだ泰継は、自分を戒めている物に目を遣った。
それは、山道の脇から突然伸びて来た下草の蔓だった。
走り去る花梨に意識を集中させていたため、不覚にも避けることが出来なかったのだ。
先程力任せに引き千切ろうとした所為で、蔓に縛られた手首に痣が出来ていた。
忌々しげに蔓を睨んだ泰継は、自分の邪魔をした者に問い質すことにした。
未だ姿を見せないその者――。
しかし、この人ではあり得ない神々しいばかりの気は、紛れもなく『彼』のものだ。
泰継は正面を見据えた。
目の前に広がっているのは、泉に続く道と鬱蒼と茂る木々。
いつも見慣れた風景だ。
だが、泰継の目には、自分の周囲に張り巡らされた結界の存在が見えていた。
恐らく自分の力ではこの結界を破ることが出来ないであろうことは、試してみなくてもよく解った。
神気の持ち主が、飽く迄も花梨を追おうとする自分を足留めするつもりであるらしいことを悟り、泰継は唇を噛んだ。

「何のつもりだ、龍神!」

静かな、それでいて明らかに怒気を含んだ冷たい声が山中に響く。
それに応える者はいないかのように思われた、その時―――
泰継が見据えていた彼の真正面の空間が揺らぎ、僅かに生じた歪みから一人の青年が姿を現した。
腰まで届く艶やかな銀色の髪と金色に瞬く瞳。
白磁のように白く滑らかな肌。
桜色の薄い唇。
細身の身体に純白の式服を纏った姿は人ならぬ者の美しさ――。
突然現れた青年が人ではあり得ないことは、彼が発する目映いばかりの神々しく清らかな気が証明していた。あの日、神泉苑で見た彼本来の姿とは違う姿であるが、目に見える姿形など、泰継には関係のないものだった。
神々しい気に一瞬だけ眩しげに目を細めた泰継は、直ぐに表情を改めた。
「……龍神、か?」
「久しぶりだな、地の玄武」
鋭い視線を向けた泰継を気にした様子もなく、龍神は口端に薄っすらと笑みを浮かべてそう言った。







銀色の糸のような髪が、風に靡いている。
龍神は、顔に振り掛かる前髪を鬱陶しそうに手で払った。
その様子を、泰継は射るような目でじっと見つめていた。手足を戒められたまま龍神が張った結界の中に閉じ込められた泰継の髪は、周囲を吹き抜ける風にも動かない。
髪を払い除けた龍神がゆっくりと自分の方に顔を向けるのを見ていた泰継は、金色の瞳と目が合った時、再び龍神に問い掛けた。
「これは、一体何の真似だ?」
蔓に縛られた手を動かそうとしながら、泰継は言った。
他の者であれば臆してしまうであろう鋭い視線を、龍神は真正面から受け止めた。
(全く…。良く似ておるな……)
苛立ちと怒りも露な琥珀色の瞳を見て、龍神は小さく溜息を吐いた。


百年前、今目の前にいる陰陽師と全く同じ表情で睨み付けて来た者がいたことを、龍神は思い起こした。
彼もまた泰継と同じく安倍晴明の陰の気から作られし者であり、八葉の一人、地の玄武に選ばれた者だった。神子のお陰で人となり、神子の心を得たことも、彼らの共通点だ。違っていたのは、神子と出逢うまでの境遇とそれまでに要した年月、そして先代の地の玄武が神子と共に神子の世界へ旅立ったのに対し、今回は神子が地の玄武の元に残ったことだった。
だから、龍神は京に残った花梨のことを、先代の神子よりも気に掛けていた。
先代の神子はいい。自分の世界に地の玄武を連れて帰ったのだから。あの朴念仁と何か諍いが起きても、家族や友人もいることであるし、地の青龍や地の朱雀も力になるだろう。実際に龍神は何度か龍玉にあちらの世界を映して彼らの様子を窺ったことがあったが、今のところ大きな問題もなく、神子は地の玄武と幸せに過ごしているようだった。
だが、花梨は違う。
先代と同様、愛想の無い男と一緒になったのだから、些細な事から夫婦喧嘩も起きるだろう。しかし、元の世界を捨てて京に残った彼女には、力となってくれる身近な者が少ない。
それならば自分が彼女の親代わりを務めようと、時々花梨の様子を窺っていた龍神は、今朝の事態を逸早く知った。それで、京の守護神自ら下界に下りて来た次第である。

(しかしこやつら、一体誰に似たのやら……)

「早く戒めを解け」と言わんばかりに睨んでいる泰継の顔を見ながら、龍神は再び溜息を吐いた。
龍神は五龍祭などを通じて、泰継と先代の地の玄武、泰明を作っている陰の気の持ち主であり、泰明の創造主で師でもあった安倍晴明とは懇意であった。それ故、晴明の人となりを知っている。
龍神が知る限り、安倍晴明という男は、どちらかと言えば愛想の良い男だったのだ。
その晴明の気と力を受け継いでいながら、地の玄武達が揃いも揃って朴念仁であるのが、龍神には不思議だった。
更に龍神を驚かせたのが、神子達が選んだのが何れも彼らだったという事実であった。
龍の宝玉が選ぶ八葉は、何故か毎回個性豊かな男達である。それにもかかわらず、まさか神子が二人とも晴明に所縁ある者を選ぶとは思ってもみなかったのだ。
人の心の機微に疎い男を選んだがため、花梨が泣くようなことがあってはならないと心配していたのだが、案の定である。
長い年月、「人ならぬもの」と自らを戒めて来た泰継に、人になったからと言って直ぐに神子が口に出さずにいる思いを察しろと言うことが酷であることは、龍神にも分かってはいる。しかし龍神としては、女心を解そうとしない泰継に仕置きをせずにはいられない。
神子達の幸せこそが、龍神の最大の願いであったから――…。


そんな事を考えていた龍神は、泰継の苛立った声に我に返った。

「答えろ、龍神!」

琥珀色の瞳が、射抜くように睨み付けている。
しかし、鋭い視線を向けられた龍神は、フッと鼻先で笑っただけだった。
人を馬鹿にしたようなその笑みを見て、一瞬目を瞠った泰継の表情が、次の瞬間更に険しいものへと変化する。
結界の外からその様子を見ていた龍神は、予想通りの反応を見せた地の玄武を見て、面白そうに笑った。その笑みは、泰継の目には、京の町を散策中に出会った貴族に対して、翡翠がよく見せていた嘲笑に似ているように思えた。
薄笑いを浮かべたまま、じっと泰継の顔を見つめていた龍神は、泰継が口を噤んだことを確認した後、漸く口を開いた。


「――そなたに、神子を追う資格はあるまい?」


龍神の返答に、泰継は大きく目を見開いた。


『泰継さんの馬鹿っ! もう大嫌いっ!!』

そう言い捨てて、北山の更に奥へと走り去ってしまった花梨の後姿と、今にも涙が溢れ出しそうなくらい潤んでいた彼女の瞳が、泰継の脳裏を過ぎった。
それは、泰継の胸に再び鋭い痛みを齎した。
龍神の言葉の意味は、説明されるまでもなく理解している。
花梨の怒りの原因はよく解らないが、少なくとも花梨にあのような表情をさせてしまったのは、自分の所為だ。
そう思った瞬間、自由を取り戻そうと抵抗していた手足から、がくりと力が抜けていた。唇を噛み締め、力なく項垂れる。


先程まで泰継の全身から感じられた鋭い怒気が弱くなったのを見て取り、龍神は嘲笑を浮かべたまま言葉を継いだ。

「そなたに神子を任せることは出来ぬ――」

龍神の言葉に、泰継が弾かれたように顔を上げた。
その反応を楽しむかのように冷笑を浮かべた美貌が泰継を見据えている。
一旦閉ざされた桜色の薄い唇がゆっくりとした動きで開かれた。


「――だから、神子を、一人で行かせようと思ったのだ」


その言葉に再び大きく目を見開いた泰継は、一瞬にして顔色を失った。
花梨の跡を追うことを邪魔した龍神に対する激しい怒りがまるで潮が引くように消え去り、蔓に戒められたままの身体が微かに震え始める。

「――“行かせる”とは、何処に、だ…?」

龍神の言葉に「もしや」と思い、泰継は震える声で、何とかその問いを発した。
自らの推測が外れていることを祈りながら――。

しかし――


「神子の、元いた世界へ――」


薄笑いを消して龍神が返したのは、無情にも泰継が推測した通りの答えだった。
龍神のその答えに、泰継は身動きが取れぬまま、呆然とその場に立ち尽くすことしか出来なかったのだった。





身体の震えが収まらない。
手足の自由が利けば、自分自身を抱き締めて震えを抑えるところだが、今の泰継にはそうすることすら許されていなかった。
花梨の存在を確かめようと気を探ってみたが、彼女の気を感じ取ることが出来なかった。
それが、自分を閉じ込めているこの結界の所為なのかどうかさえ判らなかった。

―――神子を、一人で行かせようと思ったのだ。
     神子の、元いた世界へ――。

先程の龍神の言葉が頭の中を駆け巡り、冷静な思考や判断力を奪い去って行くような気がした。

(まさか……)

――花梨の気が感じ取れないのは、もしや、もう龍神が花梨を元の世界に帰してしまった所為ではないか…。

そう考えた泰継は、その考えを振り払うように、頭を横に振った。


『私も、泰継さんと一緒にいたい……』

花梨が龍神を喚んだあの日――。
泰継が「京に残って欲しい」と告げた時、花梨ははにかみながらそう答えた。
あれから三ヶ月。
その言葉の通り、京に残った花梨はいつも泰継の傍にいてくれた。特に、この北山の庵で共に暮らし始めてからは。

泰継の意思に反し、龍神に問い質そうと開いた唇は小刻みに震え、舌は言葉を上手く乗せてはくれなかった。



つい今し方まで怒りと苛立ちを宿していた琥珀色の瞳が今ははっきりと揺らいでいるのが、結界の外からも見て取れる。大きく見開かれたそれに視線を合わせたまま、龍神は口を開いた。


「そなた、先の地の玄武のことは知っておろう? そなたと同じく晴明の陰の気を核とする者だ」


その言葉にまるで怯えたかのように、泰継の肩がぴくりと揺れる。
何故、今、龍神が泰明のことを持ち出して来たのか――、泰継にはその意図を推し量ることが出来たからだ。
泰継と同じ出自を持ちながら、泰継より強く優れた力を持っていた泰明――。
彼は八葉の任を終えた後、京から姿を消したと安倍家では言い伝えられている。
それは、泰明が彼の神子と心を交わし、務めを終えた神子と共に、神子の世界へ旅立ったという事実を示しているのだと、泰継を始め安倍家の者達は考えている。
花梨の八葉として、彼女と共に京を救うために行動し始めて以降、何度考えたことだろう。
――泰明であれば、と……。

自分よりも優れた力を持つ泰明であれば、もっと神子の助けとなれたのではないか。
神子が住まう館に結界を施すことが出来た泰明であれば、神子に穢れや鬼を近付けることはなかったのではないか。
泰明であれば――…。

そして、今――。

――泰明であれば、己の神子に、このような思いをさせなかったのではないか――。
   何もかも捨てて、神子と共に、神子の世界へ旅立った泰明であれば――…。

そんな思いが胸に湧き起こる。知らず知らずのうちに、泰継は自分を見据える龍神の視線から逃げるように顔を背けていた。

そんな泰継の様子を口元に薄っすらと笑みを浮かべて見ていた龍神には、先代の地の玄武の話を持ち出された泰継が今何を考えているかなど、容易に推測することができた。
龍玉を通して神子の涙を見てしまった龍神は、女心を解そうとしない娘婿にはもう少し仕置きが必要かと考え、視線を逸らして言葉を失くす泰継に追い討ちを掛けた。

「先の地の玄武は神子と共に行くことを望み、全てを捨てて、神子の世界へと旅立った。それに対し、そなたは神子が京に残ることを望んだ。――神子に何もかも捨てさせたのだ。家族も、友人も。生まれ育った世界さえもな」

泰継は弾かれたように龍神に視線を戻した。琥珀色の目を大きく見開き、龍神を凝視する。
龍神は既に笑みを消し、厳しい視線を泰継に向けていた。

「そなた、神子にのみ犠牲を強いたのだ。そなたは神子を得、神子は今まで持っていたもの全てを失った」

泰継の唇が小刻みに震え始める。
何も言い返すことが出来なかった。
まさに、それこそが、泰継が花梨に対してあの日以来ずっと抱いていた負い目だったからである。
泰継は苦しげな表情を浮かべ、俯いた。
その様子を見つめながら、龍神が更に彼を追い詰める。

「そなたには、神子が口に出さず胸の奥に隠している本心は決して解らぬだろう」

言いながら、龍神が組んでいた腕を解き、胸の前で左手の掌を上に向けると、掌の上に透明な玉が現れた。――龍玉である。
それを口元に近付けると、龍神はふっと息を吹き掛けた。すると、透明だった玉にある光景が映し出された。

「よく見よ」

龍神の声に泰継が顔を上げると、周囲に張られた結界の壁に映像が映し出された。
それは、長年北山で暮らして来た泰継には見慣れた風景――庵から少し山を登った先にある泉周辺の風景だった。
泉の辺の松の木の枝には、いつものように天狗が腰掛けているのが見て取れた。そして、松の木の手前、泉の脇の大きな石に此方に背を向けて腰掛けているのは――。

「花梨っ!!」

声を上げ、泰継は思わず結界の方に近寄ろうと、一歩前に踏み出そうとした。しかし、手足を蔓に絡み取られた身体はぴくりとも動かず、却って蔓が手首と足首に食い込むばかりだった。
それには構わず、泰継は食い入るように結界に映し出された光景を見つめていた。
どうやら、話をしているのは花梨の方で、天狗は彼女の話を聞いてやっているようだ。
(これは現在の出来事か? では、花梨はまだこの京にいるということか……)
泰継は安堵の息を吐いた。
その時――

『……別に動物達に『来ないで』と言ってる訳じゃないの。むしろ泰継さんが皆に好かれていて頼りにされているんだって思えるから、私も嬉しいの……』

突然、花梨の声が届くようになり、泰継は目を瞠った。花梨が天狗に話している内容を、龍神が自分に聞かせるために、龍玉を通してこの結界内に花梨の声を届けているのだろうと推測する。
そんな事を考えていた泰継だったが、続く花梨の言葉を聞いて、至近距離から胸を射抜かれたような、強い衝撃を受けた。


『でも、泰継さんが皆と話している間、私には居場所がなくて…。淋しくて…でも泰継さんには言えなくて…。二人だけで過ごしたくて北山に住みたいって思ったのに……』


花梨のその言葉に、泰継は言葉もなく、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
顔色を失い、身体が小刻み震え始める。
次の冬が来るまでとの条件付きながら、新居を北山の庵に決めたのは、花梨がそうしたいと強く希望したからだった。
しかし、花梨はその理由を、
「泰継さんがずっと暮らしていた場所で暮らしてみたいの」
としか説明していなかった。
だから、祝言の後北山に居を移し、二人で暮らし始めたことによって、花梨の願いは叶えられたものと思い込んでいた。

『二人だけで過ごしたくて北山に住みたいって思ったのに……』

それが、花梨が北山で暮らしたいと願った本当の理由だったとは、泰継には考えも及ばなかったのだ。
花梨と共に北山に帰ってからの日々を改めて思い返してみると、花梨の願いが叶えられたとは到底言えない状況であったことに気付く。北山で暮らし始めた日の夜以降、毎日のように庵を訪れる者があったからだ。
しかも、彼らが庵を訪れた際、自分は一体何をしていたのか。
独りで暮らしていた頃と変わらず、一日中訪問者の相手をしていたのだ。花梨を放ったままで――…。

(そんな私のことを、花梨はどう思っていたのだろうか)

――泰継さんが皆と話している間、私には居場所がなくて…。淋しくて…でも泰継さんには言えなくて…。

花梨は先程天狗にそう言っていた。
『淋しい』――…。
それは花梨と出逢い、泰継が初めて覚えた感情だった。
神子の務めを終えれば、花梨は元の世界に帰ってしまう。そう考えた時感じた、耐え難い胸の痛みと苦しみ。花梨を想うが故に湧き起こる痛み――それが、泰継が知る『淋しい』という感情だ。

(私が庵を訪ねて来る者たちの相手をしている間、花梨はずっとあのような痛みと苦しみを感じていたのだろうか。それを私に告げることもできず、一人黙って耐えていたと言うのか……)

ズキリ、と胸に痛みが走った。
だが、この痛みの何倍もの痛みを、花梨に与えてしまったのだ。

――そなたには、神子が口に出さず胸の奥に隠している本心は決して解らぬだろう。

先程の龍神の言葉が耳に蘇る。

龍神の言う通りだ。
龍神に花梨の言葉を聞かされなければ、恐らく私には花梨が隠していた本心を察することは出来なかっただろう。花梨のお陰で人になれたとは言え、人の心の機微というものは、未だ完全には理解出来ぬ難解なものだ。しかし、それでも花梨が考えている事だけは、私が理解してやらねばならなかったのに――。

『泰継さんの馬鹿っ! もう大嫌いっ!!』

罵られて当然だ。
耐え難い胸の痛みと苦しみを、花梨に与えてしまったのだから。

『泰継さんにとって私は、人形みたいにただ傍にいればいいだけの存在なの?』

――違う。
花梨を、“ただ傍にいればいいだけの存在”などと思ったことはない。
可能であれば、誰の目にも触れさせぬよう、この腕の中に閉じ込めておきたいと……。その清浄で暖かな気を感じながら、常に花梨を抱き締めていたいと、そう考えているくらいなのに――。


『そなたに神子を任せることは出来ぬ――』


龍神が京に残った花梨の事を実の娘のように心配しているであろうことは、理解しているつもりだ。
だから、花梨を放置して淋しい思いをさせた自分に対して龍神が怒り、そう考えたとしても仕方がない。龍神のその言葉に反論の余地がないことは、花梨の本音を聞いた今、認めざるを得なかった。
しかし、それでも花梨を失うわけにはいかない。花梨の傍にいたいと思っているのは、自分の方なのだから。

(龍神は本当に花梨を元の世界に帰すつもりなのだろうか。そして、花梨は私に愛想を尽かして、元の世界に帰りたいと考えているのだろうか)

そう考えた途端、胸に鋭い痛みが走った。
――耐えられない。
花梨を失うことを想像するだけで、胸に走る耐え難い痛み。
今、本当に花梨を失ったら、その痛みに耐え切れず、きっと壊れてしまう――。


花梨に許しを請わなければ……。
龍神が、花梨を元の世界に帰してしまわないうちに――。


泰継は蔓に拘束された手を握り締めた。手を動かし、手首に絡み付く蔓の状態を確かめる。

(先ずこの戒めを解き、結界を壊さねばならぬ)

手首と足首の蔓は渾身の力を込めれば何とかなりそうだと判断したが、結界の方は簡単には破れないだろう。京の守護神が自分を閉じ込めるために張った結界だ。無理に破ろうとすれば、人の身となったこの身体が持たないかもしれない。
八葉の務めを終え、玄武の加護も既になくなった今、泰明にさえ劣る自分の力で、神に抗し切れるとは思えなかった。だが、このまま見す見す龍神に花梨を奪われ失うのであれば、此処でこの身体が壊れても同じ事だと思えた。花梨を失って、自分が今まで通りに生きて行けるとは、泰継にはどうしても思えなかったのだ。

神に抗うことを決意し、泰継が結界の外に目を向けると、龍神は龍玉を目の高さに掲げるところだった。
龍神が玉に手を翳すと、結界に映し出されていた画像が消え、同時に花梨の声も聞こえなくなった。
それを確かめた後、龍神が結界に閉じ込められた泰継に視線を向ける。

「どうだ。神子が本当は何を考えていたのか判ったか」

金色に輝く瞳が泰継を見据えた。射抜くようなその視線を、泰継は今度は目を逸らさずに受け止めた。琥珀色の瞳が金色の瞳を睨み返す。
それを見て内心「面白い」と思った龍神だったが、それをおくびにも出さず、更に泰継を挑発した。

「先代の地の玄武であれば、どうだったであろうな」

最も泰継の自尊心を刺激する言葉、すなわち先代の地の玄武、泰明との比較を、龍神は敢えて口にする。泰明と彼の神子が京に残った場合、恐らく彼らの間にも似たような問題が発生し、泰明が泰継と同様の対応をして自らの神子を泣かせることになっただろうと予測しつつも、龍神は「泰明であればこのような事態にはなっていなかっただろう」との含みを持たせた言い方をした。
泰継を挑発しようという龍神のその意図は、正確に彼に伝わった。
しかし、花梨の本心を知り、一刻も早く花梨を追い掛けたいと気が急いていた泰継は、龍神の挑発には乗らなかった。

「確かに、私は泰明に劣る者かもしれぬ。しかし――…」

一度言葉を切った泰継は、挑むような目を龍神に向けた後、神子の親代わりを自任しているらしい龍神に、これだけは言っておかねばならないと思った事を言い放った。


「しかし、神子を…、花梨を想うこの気持ちだけは、泰明にも、他の誰にも負けはせぬ!」


言い捨てると同時に、泰継は渾身の力を右腕に込めた。蔓が手首に食い込み、擦れた部分から血が滲み出すのにも構わず、先ず右手の自由を取り戻そうとしたのだ。
人ならぬものであった頃は、細身の身体には似つかわしくないくらいに強い力を持っていた泰継だが、人となってその力はあの頃に比べれば落ちている。それでも、やはり並の人間より強い力を持ち合わせていたのだった。
泰継が言い放った言葉とその後の彼の行動に、龍神が吃驚して目を見開いた。その目の前で、ブチッという鈍い音を立てて蔓が引き千切られる。
右手の自由を取り戻した泰継は、続けて左手の拘束を解いた。右手を使えた分、先程より短い時間で済んだ。そして今度は両手を使い、続けざまに両足の束縛を破った。
最後に残った左足の拘束を外した直後、泰継はその場に膝を突いた。両手を地面に突けて身体を支えると、荒い呼吸を繰り返した。弾む息を整えながら顔を上げ、眼前の結界を見据えた。
どうやらこの結界は、風の力を用いたもののようだ。神が造っただけあって、泰継が使う陰陽の術で破れる結界ではないが、強行突破という方法もある。
但し、その場合は風の刃に皮膚を切り刻まれることを覚悟しなければならないだろうが。
それでも今の泰継には、このまま何も出来ずに花梨を失うことを思えば、遥かに増しだと思えたのだった。
漸く呼吸が整うと、結界に視線を固定させたまま、泰継はゆっくりと立ち上がった。もはや結界の外にいる龍神を一顧だにせず、ただ花梨の元へ向かおうとする自分を阻む結界のみに意識を集中させる。
(玄武よ。もしまだ私に加護を与える意思あらば、降臨せよ)
心の中で玄武に呼び掛ける。
北山は洛北、玄武の守護地である。既に役目を終えた八葉に玄武が応えるかどうか判らないが、京の守護神と対峙する以上、使えるものは何でも使いたいところであった。

前を見据えたまま一歩、また一歩と結界に向かって歩を進める泰継を見て、彼が何をしようとしているのか悟った龍神が、思わず声を上げた。

「そなた、何をするつもりだ!?」

この結界は生身の人間が越えられるものではないのだ。当代一の陰陽師である地の玄武にそれが判らぬはずはない。
それでもなお結界を越え、神子を追おうとする泰継に、龍神は驚きを隠せなかった。
一方、泰継は声を掛けて来た龍神を無視し、風が形作る壁の手前で立ち止まった。右手で印を結び、集中力を高めると、左手で結界に触れようとした。

「地の玄武っ!!」

結界に手を触れれば、風の刃に指を断ち切られかねない。
それを知りながら、何の躊躇いもなく結界に触れようとする泰継に驚愕した龍神は、彼の手が届く前に結界に持たせた力を緩めた。八葉の中では随一の冷静さを誇った地の玄武が、「神子を元の世界に帰す」と脅しただけで、まさかそこまで捨て身の行動をとるとは思わなかったのだ。
龍神が力を緩めたのとほぼ同時に、泰継の手が結界に触れた。

「っ……!」

痛みを感じて顔を顰めた泰継は、一旦手を戻した。結界に触れた左手を確認すると、鎌鼬に切り付けられたような切創が指や掌の至る所に出来、血が滲み出ていた。
手が触れる直前、何故か龍神が結界を緩めたのを感じた。そして、それと同時に感じ取ったのだ。玄武が自分の声に応えたことを――。
左手から結界に視線を戻すと、龍神が呆然としたまま立ち尽くしているのが視界の隅に入る。龍神が結界を緩めたまま元に戻さないのを見て取り、この機を逃す手はないと、泰継は迷うことなく結界に向かって足を踏み出した。
忽ちの内に、着ていた衣は切り裂かれ、両目を庇った腕や手の甲に、切創が刻まれていく。髪を結わえていた紐が断ち切られ、長い翡翠色の髪が風に靡いた。
しかし、それでも泰継は足を止めなかった。

「くっ…!」

泰継の口からくぐもった声が漏れる。
腕で庇い切れなかった剥き出しの頬を、刃先が撫でて行った。
再び玄武の加護が与えられたとは言え、龍神の力は四神のそれより遥かに強大である。玄武の力も結界を破壊するまでには至らず、風の力を弱めるだけで精一杯のようだ。それでも、少しでも負う傷が少なくて済めば有り難い。やはり血塗れの姿を花梨には見せられないと思ったからだ。

(あと、少し……!)

泰継は渾身の力を振り絞って、自分を結界内に押し戻そうとする力に抵抗し、もう一歩足を踏み出そうとした。力と力がぶつかり合い、拮抗する。

(花梨……っ、花梨っ!)

呪の代わりに、心の中で愛する者の名を唱える。
泰継が一歩踏み出したその瞬間、パリンッという音と共に結界が崩れ去った。拮抗していた力の一方が不意に消えたため、支えを失った泰継は勢い余ってその場に倒れ込んだ。
乱れた呼吸が治まるのを待つこともせず、ふらつきながら立ち上がると、泰継は呆気にとられた様子の龍神には一瞥をくれることもなく、泉に向けて山道を駆け出した。
その背中が木々の向こうに消えるのを、龍神は呆然と見送ることしか出来なかったのだった。




「……信じられぬ……。何という無茶をするのだ……」

暫くの間呆気にとられていた龍神は、泰継の姿が見えなくなった後、まだ唖然としたまま呟いた。
本気で神子を元の世界に帰そうと思った訳ではなかった。何故なら、神子がその役目を終えてもなお、この京に留まることを願った理由を、龍神は誰よりも承知していたからだ。
ただ、余りに女心を解しない娘婿の朴念仁ぶりに、少しばかり灸を据えてやろうとしただけに過ぎなかった。
だが、普段小憎らしい程冷静沈着な態度を崩さない泰継の全くの予想外の行動に、龍神は彼の神子への想いの深さを再確認したのだった。
(まあ、少しは反省したであろうし、今回はあれで良しとするか)
龍神は小さく息を吐くと、山道の脇の藪に視線を投げた。

「いい加減に出て来ぬか、玄武」

不機嫌そうに言うと、藪の中から一匹の白い蛇が姿を現した。玄武が憑代として使っている蛇である。
地の玄武が結界を破るのに、玄武が力を貸していたことに龍神は気付いていたが、敢えてそのままにさせておいたのだ。

「何故あやつに加勢した?」
役目を果たし終えた八葉に四神が再び加護を与えることは、これまでなかったことだ。玄武が地の玄武に特に肩入れしていた訳ではないことも、龍神は知っている。
『貴方こそ、何故力を緩められた?』
龍神の問い掛けに答える代わりに、玄武は質問で返した。自分が地の玄武に力添えした理由など、龍神は既にお見通しなのだろうと考えたからだ。
もっとも、玄武も自らが投げた質問に対して龍神が何と答えるのかくらい、予測が付いていたのだが。

「――あの者に何かあれば、神子が泣くことになろう?」

暫しの沈黙の後、龍神はそう答えた。
予想通りの龍神の返答に、玄武は苦笑する。相変わらず神子に甘いと思ったのだ。
「……そなたも同じであろうが」
玄武の苦笑を感じ取り、むすりとした様子でそう言うと、龍神は手にした龍玉に視線を移し、神子と彼女の元に駆け付けた泰継の様子を窺った。
玉には、突然現れた泰継に驚きながらも、神子が慌てて駆け寄る光景が映し出されていた。泰継の傍らに駆け寄った花梨は、彼の頬に出来た切傷の状態を見ているようだ。自分が痛みを感じたかのように顔を顰めた後、花梨の表情が明らかに怒りを含んだものに変わった。怒りの矛先が向けられたのは、言うまでもなく彼女の大切な夫の顔に傷を付けた京の守護神その人だ。
それを見て、龍神は益々憮然とした表情になっていく。

『親心の押し売りは、神子に嫌われるだけですぞ』
「………」

呆れたような、それでいて諭すような口調で玄武が言う。
龍神が京に家族のいない神子の親代わりを務めようとしていることは、玄武も知っていた。だが、夫婦が諍いを起こす度に守護神自ら降臨して来て地の玄武を甚振るなど、神子にとっては余計なお世話以外の何物でもないだろう。
神子は元の世界に帰ることより地の玄武の傍にいることを選ぶくらい、地の玄武のことしか目に入っていない。また、地の玄武が神子のことをどう思っているかは今見た通りだ。あの者は神子のためなら何度でも命を捨てるだろう。
夫婦喧嘩をしたところで、あの二人の絆は決して切れることはあるまい。時空を越えて、想いを成就させた二人なのだから。
(なんだかんだ言って、地の玄武に神子を盗られたのが気に入らぬのだ、このお方は……)
だから、必要以上に地の玄武を挑発し、「神子を帰す」などと彼が最も恐れていることを言って、嫌がらせをして楽しんでいたのだ。鬱憤晴らしをしていた、とも言えるかもしれない。
もっとも、神子を失うかもしれぬと恐れを抱いた地の玄武が、まさかあのような行動に出るとは夢にも思わなかったのであろうが――。
そんな事を考えながら龍神の方を見ると、憮然とした表情を浮かべ押し黙ったままである。
そんな京の守護神の様子に、玄武は溜息を吐いた。

玄武が溜息を吐いたことを感じた龍神は不快そうな顔をしたが、それは玄武の言葉が痛いところを突いていたからだ。龍神自身、少しやり過ぎたかと考えていたので、「親心の押し売り」と言われても反論することが出来なかった。そして何より、「神子に嫌われる」というのは、龍神が最も避けたいことであった。
ふと龍玉に目を移すと、神子と地の玄武が抱き合う姿が目に入った。
どうやら仲直りしたらしいことが判り、龍神は漸く憮然とした表情を解き、口元を綻ばせた。
何よりも大切なことは、神子が幸せであることだ。
あの朴念仁のどこが良いのかさっぱり理解出来ないが、神子が地の玄武の傍で幸せでいられるというのであれば、それで良い。
――そう思った時――…

『こんな怪我して……。もし傷跡が残ったりしたら、私、絶対龍神様を許せない!』

聞こえて来た神子の声に驚き、龍神は目を見開いた。
玄武の方に視線を遣ると、素知らぬ顔をしてはいるが、憑代である白蛇の向こうで玄武が笑いを堪えているのが伝わって来て、龍神は渋い表情を浮かべた。

『このままでは、二度と神子に口を聞いてもらえなくなりますぞ』

笑いを押し殺しながら、玄武が忠告する。暗に、「早く地の玄武の傷を癒せ」と言っているのだ。
玄武を一睨みした後、深い溜息を吐くと、龍神は龍玉に手を翳した。
ちょうど花梨が泰継の頬の傷をなぞるように指で触れた時、龍神は花梨の手に自らの力を宿らせ、先程泰継に付けた全ての傷を一瞬で治癒させた。

「いつまで笑っているのだ、玄武!」

照れ隠しのためか明らかに八つ当たりしている龍神に、玄武は更に笑いを誘われる。
一頻り笑った後、玄武は龍神に言った。

『神子が幸せであるなら、それで良いではありませぬか』

それは、先程龍神自身も思ったことだった。やはり、玄武も同じ気持ちであったようだ。
龍玉の中には、突然の事に驚いた後、嬉しそうに最愛の夫に微笑みかける神子の姿があった。
それを見て、龍神は漸く機嫌を直した。
京に残った神子が、いつもこのような笑顔でいられるように気を配ってやるのが、親代わりたる自分の務めなのだと龍神は改めて思うのだった。





その後も、些細な事で泰継と花梨の間に諍いが生じる度、龍神は娘婿を懲らしめるために降臨することになった。
そんな京の守護神の神子に対する過保護ぶりに、玄武を始めとする四神達は呆れつつも、自分達の主がやり過ぎないよう、また、龍神に抵抗するため泰継が無茶をしないよう気を配ることを決意するのだった。







〜了〜


あ と が き
お題創作「すれ違い」のサイド・ストーリーです。花梨ちゃんが天狗さんに話を聞いてもらっている間、舅(自称)と婿殿の間でこんな事があったのでした。
女心を解しない娘婿に嬉々としてお仕置きする龍神様(笑)。玄武には諌められるし、全く神様らしくないですが、それだけ龍神様にとって神子は大事な存在で、本当の親のように神子の幸せを祈っているのでしょう。ただ、その気持ちは花梨ちゃんにはあまり通じていないようですが……(仕置きが過ぎて泰継さんの顔に傷を付けてしまったから(^^;)。天狗さん同様、なんとも気の毒な親代わりです。
一方、「花梨を失うくらいなら…」と、とんでもない無茶っぷりを発揮する泰継さん。天然度150%アップ設定の所為で、とんでもないことに……(^^; でも、その神様の度肝すら抜く無茶苦茶ぶりに、龍神様も泰継さんの花梨ちゃんへの想いの深さを思い知ったのではないかなと思います。
十年前に途中まで日記で公開したことがあるお話なのですが、やっと完成いたしました(汗)。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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