神子のお願い
「無事届いたようだな」

泰継の腕の中で目を閉じていた花梨は、泰継の声に目を開いた。それと同時に、さっきまで自分を強く抱き締めていた腕から解放される。それを名残惜しいと思いつつ、花梨は彼の胸から身体を離した。

まもなく白い小鳥の姿をした式神が窓から入って来て、泰継の長い指に止まった。その嘴には、先程託した文はなかった。それを確認した花梨は、ホッと息を吐いた。幸鷹との約束を果たせたという安堵感が込み上げてきて、花梨の顔は自然と綻んだ。

「良かった。ちゃんと届いたんですね」
「ああ。お前のおかげだな」
泰継が微笑んだ。その美しい微笑みに見惚れる花梨の前で泰継が呪を唱えると、白い小鳥は一枚の符に戻り、泰継が広げた手の中に収まった。京に召喚された日、北山で花梨が初めて彼と出逢った時に見たのと同じ光景であるが、何度見ても見惚れてしまう。
じっと自分の顔を見つめている花梨に気付いた泰継は、優しい笑みを花梨に向けた。


『お前が願えば、必ず叶うはずだから』

微笑む泰継の顔を見つめながら、花梨はさっきの泰継の言葉を思い出した。
自分が祈ったから幸鷹の文が無事家族の元に届いたとは思えなかったが、「お前のおかげだ」と言ってくれた泰継の心遣いがとても嬉しかった。「力を貸して欲しい」と彼が頼み事をしてきたのが、さっきあかねに嫉妬して思わず涙ぐんでしまった自分に対する心遣いであることは、花梨にもよく分かっていた。

(なんだか私、泰継さんにすごく気を遣わせてるみたい……)

それでなくても、見知らぬ世界にやって来たばかりで大変なのに、彼はいつも花梨のことを一番に考えてくれる。本当なら、自分のほうが彼の力になってあげなくてはいけないのに…。大切な人に余計な気遣いをさせていることを、花梨は反省した。

「……花梨?」
笑みを浮かべたかと思えば俯いて考え込んでいる花梨を不審に思ったのか、泰継が声を掛けた。
「あっ、何でもないです」
「………」
まだどこか気遣わしげな表情を浮かべている泰継を見て、彼に余計な心配をかけてはいけないと思い、花梨は慌てて言葉を継いだ。
「幸鷹さんとの約束を破らずに済んで、良かったですね」
「…そうだな……」
「ちゃんと文を届けたこと、幸鷹さんに伝えられたらいいんだけど……」
ぽつりと呟いた花梨は、再び泰継の言葉を思い出した。


『此処は龍神に所縁ある地。お前が願えば、必ず叶う……』

その言葉に、ある考えが花梨の脳裏に閃いた。「そうだ!」とばかりにポンと手を打つ。

「泰継さん、紙とペンを貸して下さい」
「何をするのだ」
突然手を打ち、紙とペンを貸して欲しいと言う花梨の意図が分からず、泰継は訝しげに問い掛けた。
「幸鷹さんに手紙を書くんです。『文はちゃんと届けました』って」
花梨の言葉に泰継が目を瞠る。
「だが、それを京に届ける手段はないぞ」
「龍神様に頼んでみるんです」
意表を突かれ、泰継の目が更に大きく見開かれた。
「さっき、泰継さん、言いましたよね。『此処は龍神に所縁のある場所だ』って。所縁のある場所だったら、もしかしたら龍神様に届くかもしれない。だから、駄目で元々と思ってお願いしてみるんです」
「………」
彼女の考えは、相変わらず泰継の想像を超えたものである。先程の文の送り先はこの世界の、しかも此処からそれほど遠くない場所だった。郵便でも送れるものを、わざと式神を使って送っただけなのだ。
しかし、今回は違う。既に時空の扉が閉じられた京への手紙なのだ。龍神に願ったところで叶うかどうか分からない。
それに、泰継には龍神に願い事をすることに躊躇いがあった。
あの神泉苑での出来事を嫌でも思い出してしまう。
龍神と共に空に消えた花梨を目の当たりにして、自分が消えて彼女に会えなくなるかもしれないと思った時に感じたのとは比べものにならないほどの恐怖を味わった。
あんな思いは二度としたくない。
だが、自分には決して彼女の頼みや願いを拒絶することが出来ないのだということも、泰継は認識していた。
泰継は、じっとこちらを見つめている花梨の視線を真っ直ぐに受け止めた。緑色の瞳が懇願の色を湛えて泰継のほうに向けられている。
その瞳の輝きを前に、泰継は自らの敗北を認めた。
「試してみて駄目だったら諦めますから」
花梨が泰継の腕に縋り付く。既にお願いモードに入っている花梨の頼みを断ることは、泰継には不可能だ。
小さく溜息を吐くと、引き出しからレポート用紙と筆記用具を取り出して彼女に手渡す。
「これで良いか?」
それを受け取る花梨の顔に満面の笑みが広がっていった。
「ありがとう」
手渡されたレポート用紙と筆記用具を手に笑顔を浮かべる花梨に釣られ、思わず泰継も口元を綻ばせた。彼女の笑顔は、本当に見る者の心を温かくする。

どんな時も前向きな花梨――…。
時空を越えて手紙を送ることも、花梨なら叶えられるかもしれない。
彼女は龍神の加護を受けた龍神の神子だから……。

紙とペンを手にリビングへ戻る花梨の後ろ姿を見つめながら、泰継は微笑みを浮かべた。





リビングに戻り、花梨は幸鷹への手紙を書いた。
書きたいことは沢山あった。

泰継が預かった文は、ちゃんと幸鷹の家族の元へ届けたこと
幸鷹の家族は、自分と同じ市内に住んでいるということ
先代の龍神の神子と先代の八葉三人に出逢ったこと
そして、泰継と二人、今とても幸せだということ

何から書こうか迷う花梨に、幸鷹の秘密に関わる事は、近況とは別に書いたほうが良いと泰継が告げる。近況を別の紙に書いておけば、幸鷹はそれを紫姫や八葉の皆に見せることが出来るであろうから。
なるほどと思い、花梨は泰継の提案に従って近況を手紙に書いた。文を届けたことと幸鷹の家族の近況については、元々頼まれたのが泰継だったので、彼に書いてもらった。届くかどうか分からない手紙を書くことに最初は当然の如く難色を示した泰継だったが、花梨の『お願い』には結局逆らえないのである。「皆に見せてもらうから泰継さんも一言書いて下さい」と言われ、花梨が書いた近況を伝える手紙にも一言書き添えることとなった。


書き終えた手紙を折り畳み、結び文の形にする。手紙らしく封筒に入れればよいのだが、生憎この家には便箋や封筒は置いていなかったのだ。大抵の用は電話で片付いてしまうし、必要であれば式を打てば良いと考えている超合理主義者の陰陽師二人に、不要な物と判断されたらしい。
如何にも彼ららしい考え方に内心苦笑しつつ、花梨は目の前の花瓶から薄紅色の秋桜の花を一本抜き取り、手紙の大きさに合わせて茎を短かく切ると、先程の文と同様に結び目にそれを挿し込んだ。
手紙を送る準備は出来た。後はそれをどうやって送るかだ。

「私の部屋へ行こう」
ソファから立ち上がり、泰継が促す。
「私がこの世界へ来た時、あの部屋に道が開いた。龍神に呼び掛けるのならば、私の部屋で試したほうが良いだろう」
「そうですね」
泰継の提案に花梨が頷く。それを確認した泰継は、ソファから立ち上がった花梨に微笑みかけると、再び自分の部屋へと向かう。手紙を持ち、花梨は泰継に付いて彼の部屋へ戻った。



花梨は窓の方を向いて、部屋の真ん中に立った。書いた手紙を捧げるように持って、じっと見つめる。
どのような方法で龍神に祈ればいいのか分からなかったけれど、届くと信じて一生懸命祈れば必ず龍神に届くと花梨は信じていた。信じる心が願いを叶えるから……。
手にした手紙を見つめていた花梨は、傍らに立つ泰継に視線を移した。
「泰継さんも一緒に祈ってくれますか?」
花梨の言葉に泰継が頷く。花梨の望みを叶える事が、泰継の望みだ。
しかし、最後の物忌みの日のように、龍神が花梨にちょっかいを出して来ないとは限らない。

――彼女を龍神に渡す訳にはいかない。

泰継は花梨の斜め後ろに立つと、右手で花梨の肩を抱き寄せ、手紙を捧げ持つ花梨の手を支えるように左手を添えた。

花梨は肩を抱く泰継のほうを見た。視線が合うと、泰継が頷く。それを合図に、花梨は視線を前に戻し、目を閉じた。
届くかどうか分からないけれど、心の中で懸命に龍神に呼び掛ける。

(龍神様……。どうかこの手紙を幸鷹さんに届けて下さい……)

肩を抱き寄せたまま花梨の様子をじっと見守っていた泰継は、花梨が集中し始めたのを確認すると、自らも集中するため右手で印を組み、目を閉じた。

まもなく泰継は、花梨の手と重ね合わせた左手が熱を帯びてくるのを感じた。
最初は微かだったそれが次第に強くなるのを感じ、泰継は閉じていた目を開いた。

―――…シャン……

目を開くのと同時に、鈴の音が耳に届く。花梨の手がその音にぴくりと反応するのが、重ね合わせていた左手から伝わって来た。
手紙を捧げ持つ花梨の両手とそれに添えた自身の左手が目映い光に包まれるのを見て、泰継は目を瞠った。花梨のほうを見ると、彼女は先程と変わらず目を閉じたまま祈っているように見えた。しかし、そうではないことに泰継は気が付いた。彼女の内に、何者かの気配を感じたのだ。

(龍神!!)

花梨の京での最後の物忌みの時と同じ気配に、泰継はすぐにそれが龍神のものであることを知った。

「花梨っ!!」
印を解き、右腕を花梨の腰に回すと、背後から花梨の身体を自分の方に強く抱き寄せる。花梨の身体を揺さ振りながら、滅多に出さない大きな声で何度も彼女の名を呼んだ。しかし、それでも花梨は目を閉じたままである。
泰継は左手で花梨の左手首を握り締めた。花梨の両手は手紙を捧げ持ったまま、光に包まれていた。よく見ると、花梨の掌とその上の手紙が光を発しているようだ。
不意に、抱き寄せた身体がぐったりと力なく凭れ掛かって来るのを感じて、泰継は青ざめた。あの物忌みの日と同じだ。

(花梨!!)


――お前を奪う者は、たとえ神であろうと許しはしない…!


強くそう思った時――

花梨の手から強い光が発せらた。余りの眩しさに、思わず泰継は顔を背けて目を瞑った。
その直後、左手に感じていた熱が急速に冷めていくのを感じ、泰継は目を開いて花梨の手を見た。
光が急激に収束していく。
それに伴って、先刻まで目映い光に阻まれて見えなかった花梨の掌が見えるようになった。
その上にあったはずの手紙は、既に跡形も無く消えていた。
花梨の掌の上で蟠っていた光も、泰継の目の前でゆっくりと消えて行った。


「あれ? 泰継さん…?」
腕の中に閉じ込めるように抱き寄せていた身体が身動ぎするのを感じ、泰継は我に返った。同時に、花梨の内から龍神の気配が消えたことを感じ取る。
「あっ! 手紙、龍神様が届けてくれたんですね。良かっ……えっ!?」
両手で持っていた手紙が無くなっているのを見て、後ろを振り向こうとしながら泰継に話し掛けた花梨は、不意に背後から強く抱き締められ、驚きの声を上げた。
「や、泰継さんっ!?」
いきなり抱き締められ、腕の中に閉じ込められた花梨の鼓動は、一気に速くなった。顔は既に茹蛸のように真っ赤である。
突然抱き締められた理由が分からず、泰継の腕を解こうと彼の腕に触れて花梨は驚いた。泰継の身体が小刻みに震えているのが、触れた手と背中から伝わって来たのだ。
「泰継さん!? どうしたんですか!?」
只事ではない泰継の様子に、花梨は戸惑った。強く抱き締められて身体が動かなかったので、顔だけを何とか背後にいる彼のほうに向けようとしたが上手くいかなかった。

「…しばらく……」
耳元で泰継の声が聞こえ、花梨は身動きするのを止めた。
「…しばらく、このままでいてくれ……」
搾り出すような、掠れた小さい声でそう言われ、花梨は目を見開いた。普段の泰継の玲瓏とした響きを持つ声とは全く違うその声に、花梨は戸惑った。しかし、彼の言う通りにすることに決め、まだ微かに震えている泰継の腕を握り締めた。


一体何があったのだろう――…。

花梨は頭の中を整理してみた。
幸鷹に手紙を届けてくれるよう、泰継と一緒に龍神に祈って
しばらくして鈴の音が聞こえて
呼び掛けに応じた龍神と、少しの間話して……
気が付いたら泰継に抱き締められていた。

(もしかして、龍神様が泰継さんに何かしたの?)

――もしそうなら、絶対許さないんだから!

そう思った瞬間、花梨の背後で泰継が深い溜息を吐いた。吐息がうなじにかかり、くすぐったさに肩を竦める。心臓が早鐘を打っているのが、彼にまで伝わりそうだ。花梨は恥ずかしさに首筋まで真っ赤になった。
腕が緩められるのを感じ、花梨は握っていた泰継の腕を放した。
ゆっくりと泰継が身体を起こす。
きつい抱擁から解放された花梨は小さく息を吐いた後、泰継の方に向き直った。

「泰継さん…?」
「すまなかった。もう大丈夫だ……」
微風に煽られ目に覆い被さってくる前髪を無造作に払いながら、泰継は言った。俯き加減だった顔を上げ、花梨の方に向けると、心配そうに見つめている花梨の視線を受け止めた。
泰継は向かい合った花梨の両肩を掴み、真剣な面持ちで彼女の緑色の瞳を見据えた。

「龍神に何をされた?」
唐突な質問に答えられず、花梨は思わず瞬きを繰り返した。
「お前の身の内に、龍神が降りたのを感じた。しばらくお前の意識がなかったのだ」

――あの、最後の物忌みの日と同じ状態だった……。

「えっ!?」
泰継の言葉に花梨は驚く。

「でも……。龍神様とお話しただけですよ?」
「どんな話だ?」
間髪を入れずに泰継が問う。真剣な眼差しが、まるで突き刺さるように花梨を射た。
周囲の空気が一気に冷たくなったような気がする。

(泰継さん、もしかして怒ってる…?)

ぴくりと花梨の肩が跳ねる。いつもは優しい彼の眼差しが、今は何だか少し怖い……。
普段はどちらかと言えば穏和な泰継だが、彼が本気で怒れば怖いことを花梨は知っていた。

「え、えっと……。幸鷹さんに手紙を届けてってお願いして……」
おずおずと花梨が話し始める。
「他には?」
すっと目を細め、見るものを射抜くような視線を向けたまま、泰継が先を促す。
「別に何も……。今どうしているかとか、単なる世間話でしたよ?」
「……そうか…」
花梨から視線を逸らし、掴んでいた彼女の両肩から手を放すと、泰継は小さく安堵の息を吐いた。

花梨は誰にも渡さない――。
そう思っているのに……。
己にその力がないことが嘆かわしい。
何人も、神の前では斯くも無力なものなのか。
泰継は唇を噛み締めた。

「…泰継さん…?」
花梨が気遣わしげな表情を浮かべる。
最後の物忌みの日と同じ状態だったと泰継は言った。恐らく龍神と言葉を交わしていた間のことだろう。
どうやら、また彼に心配をかけてしまったらしい。
名を呼ばれた泰継が、花梨のほうに視線を戻した。そこには先程までの怒気を含んだような鋭さは既になかった。軽く息を吐き、泰継は花梨に問い掛けた。
「……身体に変調はないか?」
「私はないですけど…」
花梨は泰継の腕を掴み、彼の顔を仰ぎ見た。
「もしかして、龍神様が泰継さんに何かしたんですか?」
さっきの泰継の様子は、どう考えても変だった。それに今も、彼はひどく疲れているように見えた。変調があったとすれば彼のほうだろう。
「いや…。そうではない……」
心配そうに自分を見上げる花梨に、泰継は首を横に振った。
一旦口を閉ざし花梨の瞳を見つめた後、泰継は徐に口を開いた。
「龍神に、お前を攫われるかと思ったのだ。お前の身体に降りた龍神に、お前が飲み込まれてしまうのではないかと……」

――そう考えると怖くて……。身体の震えが止まらなかった……。

(お前を失うこと以上の恐怖など、私にはないから……)

泰継の言葉に花梨は驚いた。彼が「怖い」という言葉を口にしたのは、二度目だった。
花梨はあの最後の物忌みの日の出来事と、神泉苑で京を救うために龍神を呼んだ時のことを思い出した。
目の前で龍神に飲まれそうになった花梨を呼び戻すために、必死に呼びかけてくれた泰継――…。
この人がいてくれたから、自分は帰って来られたのだと、花梨は今もそう思っている。
花梨は掴んでいた泰継の腕を放すと、泰継の背中に両腕を回し、ぎゅっと彼の身体を抱き締めた。突然の花梨の行動に、泰継が目を瞠る。

「もしそうなったら、名前を呼んで下さい。泰継さんが呼んでくれたら、何処にいても私はきっと泰継さんの元に帰って来ますから……」

――私が帰る場所は、あなたの傍しかないから……。

(ずっと傍にいるから……。だから、もう怖がらないで……)

花梨は泰継の胸に顔を埋め、彼を抱き締める腕に力を込めた。
もう大丈夫だからと、彼に伝わるように、ぎゅっとしがみ付くように抱き締めた。


花梨の行動をしばし呆然と見守っていた泰継は、やがて花梨の背中に腕を回すと、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと彼女を自分の方に抱き寄せた。
「…ああ。必ず、お前の名を呼ぶと約束する……」

――だから、必ず応えて欲しい……。

彼女の耳元に口を近付け、囁くように告げた。

指で柔らかな髪を梳く。
こうして花梨を抱き寄せ、彼女の髪に触れるのが、泰継は好きだった。
彼女が確かに自分の傍にいるのだと確かめることが出来るから。
そして、花梨の存在を近くに感じることで、泰継はようやく安心することができるのだ。
自分が今も彼女の傍に存在しているのだと。

抱き寄せた華奢な身体から伝わって来る清浄な気に包まれ、さっき感じた痛みが癒されていくのを感じる。
その心地良い暖かさに、泰継は目を閉じた。


「…泰継さん…?」
いつの間にか身体を起こした花梨が心配そうに見つめていた。
泰継は抱き寄せていた身体を解放し、彼女に微笑みかけた。口元だけの微かな笑みだったが、彼の瞳の表情がいつもと変わらないのを確認して、花梨もようやく笑みを見せた。
その笑みを見つめながら、泰継は花梨の額に手を伸ばした。さっき抱き付いて来たせいで少し乱れてしまった彼女の前髪を、梳くようにして整えてやる。花梨は一瞬驚いた表情を見せたが、目を閉じて大人しくされるままになっていた。
やがて、前髪に触れていた指が離れて行くのを感じて、花梨はゆっくりと閉じていた目を開いた。
「ありがとうございます……」
少しはにかんだ笑顔で、花梨は泰継に礼を言った。
しばらく見つめ合った後、どちらからともなく窓の外に目を向けた。



青く澄んだ空を薄い雲が流れて行くのが見える。
京の空のほうが美しかったと花梨は言うが、泰継はそうは思わない。
京と変わらぬ空が此処にはある。

「幸鷹さんへの手紙は、龍神様が京に届けてくれるって約束してくれました」
窓から入ってくる風に乱されそうになる髪を押さえながら、花梨が言った。
「そうか……」
どうやら京の守護神も、神子の『お願い』には否と言えぬらしい。
空を見上げたまま、泰継は小さく溜息を吐いた。
「龍神は、お前に甘過ぎる」
「え?」
ぽつりと呟かれた言葉に、花梨は傍らに立つ泰継の横顔をまじまじと見つめた。
普段はあまり表情の変化がない美貌に、今は明らかに不機嫌そうな表情が浮かんでいる。
珍しいものを見るような不躾な視線を向けられた泰継が、むすっとした表情で言葉を継ぐ。
「既に時空の扉が閉ざされた京とこの世界の間で文の遣り取りをするなど、理を乱すことだ」
「ごめんなさい……」
花梨は俯いた。
それを見た泰継は、小さく息を吐いた。
彼女を責めるつもりではなかった。第一、「理を乱す」と言えば、自分が此処に存在していること自体、既に理を乱すことだ。
「すまぬ。お前を責めるつもりではなかったのだ。責められるべきは、お前の願いを叶える力を持たぬ私のほうだ。龍神を呼べば、お前の身に危険が及ぶかもしれぬのに、神に頼らざるを得ないのだから……」

――お前の願いは、すべて私が叶えたいと思っているのに……。

その言葉に花梨は驚いて顔を上げた。
泰継がこちらを見下ろしている。既に不機嫌な表情は払拭されて、いつもの無表情に戻っているように見えた。しかし泰継の瞳を見た花梨は、そこに傷付いたような表情が浮かんでいるのを見て取った。

『お前の願いは、すべて私が叶えたいと思っている……』

泰継の言葉が嬉しい。
だけど……。

「泰継さん…。泰継さんは、大事なことを忘れているよ……」
花梨の言葉に泰継が目を瞠る。
「私の一番の願いは、泰継さんにしか叶えられないもの」
驚きの表情を浮かべる泰継に、花梨は柔らかな微笑みを向けた。
言葉もなく物問いたげに見つめている泰継に、花梨は話す。

――私の願いは、泰継さんとずっと一緒にいることだから……。

今の花梨には、それ以外に望む事はない。
確かに、泰継が今この世界に存在していることは、龍神が願いを叶えてくれたおかげだと思う。
だけど、もし泰継が「一緒に行く」と言ってくれなかったら叶わなかった事だ。
これからも共に在ることを、彼が望んでくれたから――…。
だから、花梨の願いは叶えられる。

「だから、私の願いは、泰継さんじゃないと叶えられないの」
泰継の顔を見つめ、花梨が微笑む。
しばらくの間、目を見開いたまま花梨の笑顔を見つめていた泰継は、やがて口元を綻ばせた。
「その願いは、必ず私が叶えよう」
泰継は、花梨の頬に手を伸ばした。輪郭に沿って、そっと頬を撫でる。
「それは、私の望みでもあるのだから」
じっと泰継の顔を見つめていた花梨は、泰継の言葉に目を見開いた後、ゆっくりと花開くように微笑んだ。
「私も、泰継さんの願いを叶えたいと思っているから……」

――二人で、叶えましょう……。

「そうだな……」
花梨の頬に触れていた泰継の手が、花梨の顎を捉えた。
顔を近付けて来た泰継の首に両手を投げ掛け、花梨は目を閉じる。
互いを求め合う唇を重ねた後、力を抜いて凭れ掛かってくる花梨の身体を、泰継は強く抱き締めた。





◇ ◇ ◇





「やれやれ……」

神子と地の玄武が抱き合う姿を見て、龍神はほうっと溜息を吐いた。
神子の呼び声に応え、しばし神子と話していたところ、突然殺気に満ちた冷たく鋭い気が伝わって来たのだ。それが地の玄武のものであることは、すぐに分かった。
せっかくの神子との逢瀬を邪魔されたのが気に入らなかった龍神は、神子の身体を解放した後、向こうの世界を龍玉に映して成り行きを見守っていたのだった。

神子の用件は、京に残った天の白虎に文を届けろというものだったが、呼び掛けに応えた龍神に、彼女は開口一番こう言ったのだ。

――泰継さんをこの世界に連れて来てくれてありがとう……。

ずっとお礼が言いたかったのだと神子は言った。
自分を呼び出した用件よりも先に礼を言うあたり、どうやら彼女の頭の中は、あの地の玄武のことで一杯らしい。

「全く、あんな朴念仁のどこが良いのやら……」

思えば、先代の神子が選んだのも地の玄武であった。この世界の女子は、人ではない者が好みらしい。
龍神は再び溜息を吐いた。

水晶玉のような龍玉に目を遣ると、幸せそうな神子の姿があった。
本来であれば、神子としての務めを終えた彼女たちに接触するのは良くない事だが、どうしても神子の願いは聞き入れてやりたいと思ってしまう。おかげで地の玄武には、「神子に甘過ぎる」などと言われてしまった。

「そなたも同類であろう?」

玉の中で神子と寄り添う地の玄武に、不機嫌そうな声で言う。
だが、彼の腕の中で幸せそうに微笑む神子を見て、龍神はすぐに機嫌を直した。

最も大切なことは、神子たちが幸せであることだ。
龍神が息を吹きかけると、龍玉の中の映像が変わった。
そこには、先代の神子と先代の地の玄武の仲睦まじい姿があった。

それを確認して口元を綻ばせた龍神の脳裏に、先刻、別れ際に神子と交わした言葉が甦る。

『今、幸せか? 神子』

そう問い掛ける龍神に、神子は一瞬驚いた表情を浮かべたが、次の瞬間には満面の笑みで答えた。

『はい! とっても!』

咲き誇る花のようなその笑顔が、彼女の現在のすべてを物語っているようだった。


「ならば、良い」

龍玉に映し出されていた映像が消え、元の透明な玉に戻るのを見つめながら、龍神は呟いた。







〜了〜


あ と が き
「秋桜」のおまけのしょぼい続編……だったはずなのに、なぜこんなに長いのでしょうか。本編より若干短いだけですね……。
取り敢えず判ったことが三つ。
 (1)龍神と地の玄武は、神子のお願いには逆らえない。
 (2)うちの花梨ちゃんは抱き付き魔である。
 (3)うちの泰継さんは、花梨ちゃんの髪の毛をいじるのが好きである。
今回、龍神様が初登場。応龍ですね、この場合。この方、神子である花梨ちゃんには激甘ですが、その花梨ちゃんを奪った泰継さんには意外と意地悪です。おかげでうちの泰継さんは、現代に来た当初、花梨ちゃんと一ヶ月間会えませんでした。このあたりの話は、いずれ書きたいと思っています。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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