Happy Birthday Morning
「…ん……」
窓の外から聞こえて来る小鳥の囀りに、花梨の意識は心地良い微睡みから引き戻された。余りの心地良さに、暫くの間覚醒するのを拒むように目を閉じていたのだが、花梨の意思に反して意識は勝手に浮上する。徐々にはっきりと聞こえて来るようになった鳥の声に抗えず、花梨は仕方なく目を開けた。
仰向けになって眠っていたため、先ず天井が目に入る。ぼんやりとした頭のまま諦めたように小さく息を吐いて、花梨はまだ眠そうに目を擦った。
(今、何時だろう…?)
仰向けになったまま、花梨は顔だけを窓の方に向けた。薄い色のカーテンの隙間から、柔らかな光が差し込んでいる。
既に朝のようだ。
(そろそろ起きなきゃ……)
小さく欠伸をした花梨は、起き上がろうと窓の反対側に身体を向けてドキッとする。
「あ…れ…? 泰継さん……?」
ダブルベッドの隣に、二日前から出張中の筈の夫の寝顔があったからだ。





三日前のことである。


「すまぬ、花梨。緊急の仕事が入ってしまった」
夕刻、外出先から帰宅してリビングに入って来るなり、泰継は申し訳なさそうにそう言った。

花梨と共に京からこの世界にやって来た泰継は、先代の地の玄武であり泰継と同じ出自を持つ泰明と出逢って間もなく、彼と二人で陰陽師として仕事をこなすようになった。
泰継より半年ほど先にこの世界にやって来た泰明は、安倍晴明の愛弟子と呼ばれていた実力を遺憾なく発揮し、泰継と共に仕事を始めるようになる頃には、既にこちらの世界でも有能な陰陽師として名を広めつつあった。
そこにやって来たのが泰継である。
泰明ほどの力はないと泰継は言うが、泰継は泰明にとって得難いパートナーだった。何故なら、仕事中も全てを説明せずとも、安倍家の陰陽師同士、阿吽の呼吸で通じ合えたからだ。それに、泰継が持つ九十年に渡る陰陽道の研究から得た知識の中には、泰明が京を去った後の研究成果もあり、それが仕事をする上で役に立つことがあったからだった。
二人で仕事するようになってから、双子の兄弟陰陽師の実力は益々評判となり、全国各地から引っ切り無しに仕事が舞い込むようになっていた。
今日も午後から仕事の依頼主と会うため、泰継は外出していたのだ。

「明日の朝、出掛ける」
上着を脱ぎながら、泰継は言った。花梨が手を伸ばし、泰継が脱いだ上着を受け取った。
「何時帰って来られる?」
「明々後日の夜には帰れると思う」
「明々後日の夜!?」
思わず花梨は大きな声を出していた。
花梨の驚きには訳があった。
明々後日は花梨の誕生日だったのだ。

京から帰って来てから二度あった花梨の誕生日――。
その日だけは、泰継はいつも仕事を入れないようにスケジュールを調整し、花梨と過ごせるようにしてくれていた。
今回の誕生日は、高校を卒業し、泰継と結婚してから初めての誕生日だった。
これまで、花梨の誕生日はいつも平日で高校の授業があったから、泰継が一日予定を空けて置いてくれても、実際に会うことが出来るのは放課後だったのだ。
だから、花梨は今年の誕生日こそ丸一日泰継と過ごせたらと思っていた。そんな花梨の気持ちを察した泰継が、今まで通り花梨の誕生日には仕事を入れないよう調整していたことを、花梨は知っていた。
その彼が引き受けた緊急の仕事なのだから、一日も早く手を打つ必要がある深刻な依頼だったのだろう。
頭ではそう理解出来るのだが、やはり感情は理性とは別物だ。
(夜だけしか一緒にいられないのか……)
誕生日を心待ちにしていただけに、花梨の落胆は非常に大きいものだった。
花梨は深い溜息を吐いて俯いてしまった。

「……花梨…?」
溜息を吐いた花梨の気が沈んだことを感じ取り、気遣わしげに泰継が声を掛けた。彼女の反応は予期していたことだった。しかし、実際に予想通りの反応を見てしまうと、花梨の気持ちが分かるだけに胸が痛んだ。
忽ち泰継の顔が曇る。
「すまない。お前との約束を果たせず……」
心の底から申し訳なさそうに話すその声音に、花梨は弾かれたように顔を上げた。花梨から視線を逸らした泰継の顔には、案の定苦しげな表情が浮かんでいた。
京にいた頃から、花梨は泰継のこの表情に弱かった。
「泰継さんが謝る必要ないよ」
首を横に振りながら、慌てて花梨が言った。
「泰継さんのお仕事は、困っている人を助ける仕事でしょう? 助けを必要としている人がいるんだったら、助けてあげて。ね?」
漸く顔を上げた泰継の瞳を見つめ、花梨は笑顔を見せた。折角の誕生日に泰継がいないのは淋しいが、花梨は泰継の仕事を誇りに思っていたのだ。彼の力を必要としている人がいるのなら、仕事を優先させて欲しいと思うのも、偽りのない気持ちだった。
それに、仕事が休みの日は、彼はいつも花梨の傍にいてくれる。それ以上のことを望むのは、単なる我が儘のように思えた。余り我が儘を言って、彼を困らせたくないと思う。
「泰継さんの好きなお料理を作って、待っていますから」
「花梨……」
泰継は花梨を抱き寄せた。
――待っている……。
花梨はいつも笑顔でそう言って送り出してくれる。そして仕事から帰った自分を、変わらぬ笑顔で出迎えてくれる。どんなに疲れていても、彼女の笑顔を見ればいつも疲れなど一瞬にして吹き飛んだ。
しかし、最近は遠方からの依頼が多くて家を空けることが多かったから、自分が留守の間花梨は淋しい思いをしてはいないだろうか。
泰継にはそれだけが気掛かりだった。
花梨を抱き寄せたまま考え事に沈んでいた泰継は、暫くしてから口を開いた。
「なるべく早く帰る。お前の誕生日の翌日は仕事の予定はないから、埋め合わせはその日必ずやろう」
「本当!?」
抱き寄せられるがままに泰継の胸に顔を埋めていた花梨は、彼のその言葉に弾かれたように顔を上げた。泰継の顔を仰ぎ見ると、穏やかな笑顔が花梨を見下ろし頷いた。
それを見た花梨の顔に笑みが広がって行く。
「約束ですよ!」
嬉しそうに満面に笑みを湛えて見つめて来る花梨が、堪らなく愛しい。
「ああ、必ず……」
花梨の耳元でそう囁いた後、軽く口付けた。
突然の口付けに頬を染めた花梨は、自分を見つめる琥珀の瞳が仄かに熱を帯びていることに気付き、慌てて泰継から身体を離した。
「じゃ…じゃあ、これから出張の準備をしますね!」
思い出したように言うと、泰継の上着を持ったまま、急いでリビングから出て行った。
スリッパが立てるパタパタという軽快な音が遠ざかって行くのを聞きながら、泰継はくすりと笑った。
本当は、花梨の誕生日の翌日には次の仕事の依頼主と会う約束があったのだが、誕生日を一緒に過ごせないと知った花梨の落胆ぶりを目の当たりにして、つい偽りを口にしてしまった。
(まあ、泰明一人でも問題ないだろう)
今回の打ち合わせには泰明一人に行ってもらうことに決め、泰継は花梨を追ってリビングを後にした。





花梨は硬直したまま、じっと泰継の顔を見つめていた。
(なんで泰継さんがいるの……?)
予定では、泰継が帰宅するのは今夜だった筈だ。
今回の仕事は遠方だった上、やっかいなものらしいということは、泰継が何も言わなくても花梨にも想像が付いていた。だから、今夜は遅めの帰宅になるかもしれないと思っていたのだ。
一体、泰継は何時帰って来たのだろうか?
花梨が昨夜就寝したのは、既に日付が変わった頃だった。
その後のことだから、真夜中か今朝方なのだろう。
(やだ。起こしてくれればいいのに……)
仕事から帰って来た泰継を玄関先で笑顔で出迎えることは、花梨が彼と結婚した時自分に課した仕事のようなものだった。もちろん花梨自身が真っ先に出迎えたいと思っていたこともあるのだが、出迎えた花梨の笑顔を見て「疲れが癒された」と泰継が言ったことがあったからだ。
彼が自分の笑顔を好きでいてくれるのなら、いつも笑顔で出迎えよう――。
そう思っていたのだ。
それなのに、予定より早かったとは言え、泰継の帰宅に全く気付かず朝まで眠っていたとは……。
そんな事で、泰継が呆れたり責めたりすることがないことは分かっている。むしろ、花梨を起こさないよう、ドア一つを閉めるにしても、泰継はいつも以上に注意を払った筈だ。普段から余り気配をさせない泰継が、細心の注意を払って気配を消していたのだから、花梨が気付かなくても当然である。
それでもやはり、「泰継さんに相応しい妻でいよう」という目標を立てていた花梨には許し難い事だったのだ。

左腕を支えにして上体を起こそうとしていた花梨は、泰継を起こさないよう静かに身体を横たえた。
丁度花梨の方に顔を向けて眠っている泰継と、向かい合う体勢になった。
普段であれば、僅かな気配でも感じ取って直ぐに目を覚ますのに、起き上がりかけて再び横になった花梨の動きにも、泰継が目を覚ます気配はなかった。
(疲れているんだろうな……)
穏やかな寝息を立てている夫の顔を見つめながら、花梨の口元が綻んだ。
あの日、火之御子社で初めて彼の寝顔を見た時のことを思い出す。
(泰継さんの寝顔を見たことがあるのって、きっと私だけだよね?)
泰継と一緒に仕事をしている泰明は、彼と同じ部屋に泊まることがあるようだが、彼らの場合気配に敏い者同士、互いの気配を感じ取って同時に目覚めるらしいのだ。
毎日一緒に暮らしている花梨でさえ、泰継が病気で寝込んだ時くらいしか、彼の寝顔を見たことはなかった。それと言うのも、いつも泰継の方が先に目を覚ますからだった。
折角の機会だから、このまま暫く彼の寝顔を見守っていようと花梨は決めた。

花梨の大好きな琥珀色の瞳は、今は目蓋に隠されて見ることが出来ない。常に真っ直ぐ見つめて来る泰継の瞳は、最も雄弁に彼の感情を映し出す鏡のようなものだと花梨は思っている。そして、神秘的な泉のようなその輝きは、それ自体が何かの力を帯びているようで、一度視線を合わせたら逸らすことが出来なくなるのだ。
見る者に怜悧な印象を与える瞳が閉じられている今、泰継は起きている時よりも少し幼く見えた。
(綺麗……)
男性に「綺麗」や「美しい」と言うと嫌がられるかもしれないが、泰継や泰明の場合、そう形容する以外言葉がないと花梨は思う。京にいた頃、人ならぬもの故の神秘的な美しさを纏っていた泰継だが、人となった今、また別の美しさが増したような気がするのは、花梨の気のせいではないだろう。その証拠に二人で街を歩いていると、すれ違う女性たちが必ず泰継の方を振り返り、何時の間にか注目の的になっているのだ。
――綺麗な恋人を持つと、女としては辛いわよねぇ。
(本当にそうよね……)
かつてあかねが言っていた言葉を思い出して、思わず花梨はくすくすと声を上げて笑っていた。

「…ん……」
眠っている泰継の口から微かな声が漏れる。
花梨は慌てて口に手を遣り、笑い声を抑えた。
つい今し方まで固く閉ざされていた目蓋が動き、長い睫が微かに震える。
起こしてしまったかも知れないと思いながら見つめる花梨の前で、泰継がゆっくりと目を開けた。
琥珀色の瞳が花梨の顔を捉えるのと同時に、泰継は口元に笑みを浮かべた。
「おはよう……」
いつもと変わらぬ朝の挨拶を口にする。
「おはようございます」
花梨は挨拶を返した後、身体を起こしてベッドの上に座った。
「私は、間に合ったようだな……」
まだ横になったまま花梨を見上げてそう言う泰継に、花梨は先程から疑問に思っていた事を訊ねた。
「泰継さん、帰るの今夜になるって言っていたのに……。一体何時に帰って来たの?」
「五時前だったか……」
「五時前〜〜っ!?」
驚いて目を瞠った花梨は大声を上げていた。慌ててベッドサイドに置かれた置時計を見ると、時刻は七時過ぎを示していた。
「どうしてもう一泊して来なかったんですか?」
五時前に此方に着いたということは、向こうを出たのは夜遅くだった筈だ。普通ならもう一泊してから帰宅の途に就くところだろう。
「『なるべく早く帰る』と言っただろう?」
「でも! そんな無理しなくても……」
優しい笑みを向けて言う泰継に、花梨は諌めるように言った。
「やはり、お前の誕生日は共に過ごしたいと思ったのだ。泰明にも協力してもらい、仕事を早めに終えることが出来たから……。だから私だけ先に帰って来たのだ。無理はしていない」
少し眠そうな声ながらも、嬉しそうな表情を浮かべて泰継が話す。
しかし、泰継が言う「無理はしていない」という言葉を、花梨は全く信じていなかった。彼が自分の行動について「無理していない」と言う時は、大抵の場合かなり無理をしているのだ。
確かに泰継が予定より早く帰って来てくれたことは嬉しいが、そのために彼に無理をさせたのであれば申し訳ないと思ってしまう。しかも仕事を終えた後の長旅で疲れている筈なのに、彼は二時間ちょっとしか眠っていないのだ。こんな事をしていては、身体を壊してしまう。
(もう。本当に自分の身体に無頓着なところは、八葉だった頃とちっとも変わらないんだから……)
花梨は溜息を吐いた後、ベッドから下りた。
泰継の方を向くと、彼も横たえていた身体を起こすところだった。ベッドが軋む小さな音が耳に届く。
「泰継さんはまだ休んでいて下さい。朝帰って来たところなんだから」
「問題ない」
お馴染みの台詞を口にしながらベッドの上に座った泰継が、小さく欠伸をする。
それを見た花梨は、一瞬目を丸くした後笑みを浮かべた。
(滅多に見られないものを見ちゃった……)
よく見ると、泰継の髪に寝癖が付いている。ずっと花梨の方に顔を向けていたためだろう。右側にだけ珍しく寝癖が付いているのだ。小さな子供のようなその姿が、何だか可愛いと思ってしまう。
いつも花梨より先に目を覚ます泰継が、こんな風に眠そうな表情を見せることは今までなかった事だった。それだけ彼が疲れているということなのだろうと思い、申し訳ないと思いつつも、いつも隙のない彼が自分にだけ無防備な姿を見せてくれることが、何となく嬉しい。
くすくすと笑う花梨を訝しげに泰継が見つめる。
「どうかしたか?」
身体を此方に向けて、ベッドの端に腰掛けた姿勢で泰継が問う。
「ううん。何でもないです」
心の中で考えている事を見透かされそうな気がして、花梨は慌てて泰継から視線を逸らし、窓辺に向かった。カーテンを開けると、穏やかな日差しが部屋に差し込み、一気に室内が明るくなった。
「今日も良い天気みたいですね」
「ああ……」
泰継は眩しげに目を細め、窓辺に立つ花梨を見つめた。花梨が開けた窓から心地良い風が入って来て、カーテンを揺らせた。
「明日も良い天気の筈だから、出掛けるのは明日にしよう」
その言葉に、窓の外を眺めていた花梨が泰継の方を振り返った。
「じゃあ、今日と明日二日間二人きりでいられるの?」
外の日差しに負けないくらいパッと顔を輝かせて、花梨が言う。
「出掛ける前の日、そう約束しただろう」
「泰継さん、ありがとう!」
歓声を上げる花梨に泰継は苦笑した。
「じゃあ先に朝食にしましょうか。直ぐ用意しますね」
「待て、花梨」
急いでドアの方に向かった花梨を、泰継が呼び止めた。
「何ですか?」
突然呼び止められ振り返った花梨は、寝室の入り口で小首を傾げて泰継を見た。
「まだお前に言わねばならぬ事がある」
そう言うと、泰継はベッドから立ち上がり、サイドテーブルの上に置いていた小箱を手に取った。可愛い包装紙に包まれリボンを掛けられたその小箱は、一目でプレゼントであることが分かった。
ドアの前で立ち尽くしている花梨に近付き、泰継はそれを彼女に差し出した。
「誕生日おめでとう」
花梨は大きく目を見開いた後、はにかんだ笑みを浮かべた。
「ありがとう、泰継さん……」
泰継から物を贈られたのは初めてではないが、今日は特別に嬉しかった。
「開けてもいい?」
その問いに、泰継が頷く。
慎重にリボンを解き、包装紙を開けて行く。最後に辿り着いた小さな箱から出て来たのは、可愛いペンダントだった。花梨はそれに見覚えがあった。
「泰継さん。覚えていてくれたの?」
泰継が優しい笑顔で見つめている。
以前二人で出掛けた時に立ち寄った店で見かけ、花梨が気に入った物だったのだ。いつまでもそれを見つめている花梨に気付いた泰継がその場で買ってくれようとしたのだが、悪いと思った花梨はその申し出を断ってしまったのだった。
欲しいと言葉に出して言った訳ではなかったのに、これを誕生日のプレゼントに選んでくれた泰継の気持ちがとても嬉しかった。
「気に入ってくれたか?」
「うん、とっても! 本当にありがとう!」
急に抱き付いて来た花梨を抱き止め、泰継は花梨には分からないよう小さく息を吐いた。贈り物をする機会が殆どなかった泰継は、彼女が喜んでくれるまで、これで良かったのかどうか実は少し不安だったのだ。
「気に入ってくれたなら、私も嬉しい」
泰継の胸に顔を埋めていた花梨が、顔を上げて泰継を仰ぎ見た。
「でもね……」
花梨はそこで一旦言葉を止めた。
真っ直ぐに見つめて来る花梨の視線を受け止めたまま、泰継は笑みを消して花梨の言葉を待った。
――この贈り物では何か不都合があったのだろうか。
そう考えた泰継の胸に、またもや不安が湧き起こる。
そんな泰継の胸の内を知る由もない花梨は、笑顔で言葉を継いだ。

「でも、泰継さんが一緒にいてくれることが、私にとっては何よりのプレゼントなの」

思い掛けない言葉に、泰継が目を瞠る。

「ありがとう。それから、大好き!」

泰継の背中に手を回し、ぎゅっと花梨が抱き付いた。触れ合った部分から伝わって来る清浄で優しい気が、疲れた身体に残っていた気だるさを消し去って行くのを感じる。
笑みを浮かべた泰継は、ゆっくりとした動作で腕を花梨の背中に回し、そっと彼女を抱き締めた。

『泰継さんが一緒にいてくれることが、私にとっては何よりのプレゼントなの』

その言葉を聞けただけで、そして花梨の嬉しそうな笑顔を見られただけで、予定を早めて帰って来た甲斐があったと思う。その所為で泰明に借りを作ってしまったのだが、それはお互い様だ。

(私も同じだ……)

京で過ごした九十年間、泰継が何かを欲したということはなかった。強いて言うなら、ずっと探し求めていた自らの存在意義がそれに当たるかも知れない。
しかし、花梨が現れた。
龍神の神子である彼女の存在が、泰継に存在意義を与えた。そして生まれて初めて、泰継に欲しいものが出来たのだ。
唯一つ欲しいと思ったものを手に入れ、花梨と共にこの世界にやって来ることが出来た今、心から思う。
自分にとっては、花梨こそが、天が与えてくれた何よりの贈り物なのだと――…。

「……泰継さん?」
突然黙り込んでしまった泰継に、花梨が訝しげに問い掛けた。
腕を緩めると、小首を傾げて花梨が見つめていた。

――彼女は本当に何も分かってはいない。
   自分が、どれ程沢山のものを私に齎してくれているのかを。

泰継は微笑みを浮かべ、花梨の緑色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
間近で泰継に見つめられた花梨の胸が高鳴る。
そんな彼女の胸の内を知ってか知らずか……。
泰継は花梨の耳元に顔を寄せ、甘い声で囁いた。


「では、今日はお前に、私を贈ることにしよう……」



顔を真っ赤にして俯こうとする花梨の顎を捉え、泰継は熱い口付けを贈った。







〜了〜


あ と が き
カウンタ1万を踏んで下さったシルビア様にリクエスト頂き、シルビア様の素敵なイラストを元にお話を作らせて頂きました。泰継さんのとある朝の風景です。
私の地玄武たちのイメージって、「寝る」と言った一瞬後には既に寝息を立てていて、朝はすっきりお目覚め…というものだったんです。だから、寝癖が付いていて少し眠そうな泰継さんのイラストが、凄く印象に残りました。それで、このイラストを創作の題材に選ばせて頂きました。
最初に、泰継さんが眠そうになるシチュエーションは…と考えて、仕事でドロドロに疲れて頂くことにしました。すまん、継さん(^^; 次に、泰継さんが無理を押しても帰って来るのはどんな日だろうと考え、最初の設定では結婚記念日にしていました。でも、結婚後数ヶ月くらいの甘々な新婚さんにしたかったので、花梨ちゃんの誕生日ということにしました。でもこの二人、年を取っても新婚さんみたいにアツアツですよね、きっと(笑)。
どういう風に終わるのか書いている本人にも皆目見当が付かない話だったのですが、泰継さんの激甘な台詞に、慌てて「了」の字を打ちました。これ以上書いたら、きっと清々しい朝の風景じゃなくなってしまうと思ったので;;
シルビア様、リクエストありがとうございました。

この創作の元となったイラストはこちら
novels' index top