親の心子知らず
そろそろ日が傾き掛けようかという刻限、北山を訪れた泰継は、目的の者をいつもの松の上で発見し、声を掛けた。

「天狗!!」

「声を掛けた」と言うより「怒鳴り付けた」と言った方が正しいその呼び掛けにも、呼ばれた当の本人は一向に意に介した様子もなく、いつもの調子で返事をした。
「久しぶりじゃな、泰継。どうじゃ、八葉の務めは?」
のほほんと返されたその応えに、泰継はあからさまに顔を顰めた。
確かに八葉に選ばれてからは、何かあった時に神子が住まう四条の館に直ぐに駆け付けることが出来るよう、安倍本家の離れを仮住まいとしていたから、こうして天狗と言葉を交わすのは久しぶりのことである。しかし、今の泰継には、天狗とのんびり世間話をする気にはなれなかったのだ。その原因は、他ならぬ天狗の行動にあった。
「一体、何のつもりなのだ!?」
「『何のつもり』とは、なんじゃ」
首を傾げ、天狗が問い返す。
「恍けるな。鴉達に神子と私の行動を監視させているのは、お前だろう?」
その言葉に目を瞠った天狗に、泰継は渋い表情のまま話し始めた。





事の発端は、まだ八葉が泰継を含め四人しか集っていなかった頃に遡る。

その日は他の三人の八葉が都合で花梨の元を訪れることが出来ず、泰継は花梨と二人きりで京の町を巡ることになった。当時、花梨は極端に穢れに弱かったので、泰継は自分以外に供がいない時は、なるべく彼女を怨霊のいる場所には近付けないよう気を配っていた。そのため、その日は土地に宿る五行の力を強めることに専念したのだった。


「花梨、よくやったな」
その日最後に訪れた火之御子社で、不足していた火の力を上昇させることに成功した花梨に、泰継が労いの言葉を掛けた。「これで良かったのだろうか」と少々不安げに泰継の方を見た花梨は、その時彼が浮かべていた表情を見て目を瞠った。
(うわぁ……)
京に来て北山で出逢ってから、ほぼ毎日のように彼と行動を共にしているが、この「安倍泰継」という名の陰陽師は、殆ど無表情を崩すことがなかったのだ。これまでも稀に口元を僅かに綻ばせることはあったのだが、今彼が浮かべているのは、はっきりそれと判別出来る柔らかな微笑みだった。
(綺麗……)
ぽかんと口を開けたまま、花梨は言葉もなく暫し彼の微笑みに見入ってしまっていた。男の笑顔を見て「綺麗」との感想が浮かんだのは、初めての経験だった。
初めて会った時から、泰継が完璧に整った美貌を持ちながら、滅多に表情を動かすことがないことを残念に思い、「笑ったら凄く綺麗だろうな」と密かに思っていた花梨は、初めて彼がはっきりとした笑顔を見せてくれたことを嬉しく思った。
「ありがとうございます!」
誉められたことも手伝って、花梨の顔に嬉しそうな笑みが浮かぶ。

――と、その時、静寂に包まれた境内に、けたたましい鴉の鳴き声が響いた。
その声に驚いて花梨が辺りを見回すと、社の周囲に広がる林の木の上に、数羽の鴉が止まっていた。
「どうした?」
鴉の姿を見た途端、笑みを引っ込めて顔を曇らせた花梨に気付き、泰継が問い掛けた。問われた花梨は、木の上の鴉に目を向けたまま、躊躇いがちにこう答えた。
「私が住んでいた所では、『鴉が騒がしく鳴いたら誰かが亡くなる予兆だ』という言い伝えがあるんです」
その言葉を聞いた泰継が、軽く目を瞠る。
つまり、彼女は鴉が騒がしく鳴いたことから、自分が住む世界の言い伝え通り、近いうちに亡くなる者がいるのではないかと心配しているのだ。
「お前は、優しいのだな」
「え……?」
思い掛けない泰継の言葉に、花梨は木の上に向けていた視線を、慌てて傍に立つ泰継の方に戻した。鴉の鳴き声が響いた瞬間、笑みを消していつもの無表情に戻った泰継だったが、再び口元を綻ばせている。いつにも増して優しい表情を宿した双色の瞳に見つめられ、花梨の頬は薄っすらと赤く染まった。
「心配いらぬ。あれらは、人に災いを為すために騒いでいた訳ではない」
「え? じゃあ、どうして突然、あんなに騒いだんですか?」
どうやら鴉が騒いだ理由まで見通しているらしい泰継に驚き、花梨が訊ねた。陰陽師という特殊な職業の所為だろうか。花梨にとって泰継は、出逢った時から不思議な人だった。
「それは……」
言いながら、泰継は鴉が止まっている木に目を遣った。木の上から花梨と泰継の方を見下ろしていた鴉達は、泰継と目が合った途端、慌てたように北山の方角へ飛び去ってしまった。「逃げた」という表現が正しい彼らの行動にも表情を変えず、泰継は騒がしい鳴き声を上げながら遠ざかって行く鴉達を見送った。

『おい、安倍の方が笑っているぞ!』
『珍しい事もあるもんじゃ』
『あの清らかな気の持ち主は、龍神の神子かの?』
『あの安倍の方にあんな表情をさせるとは、さすがじゃな』
『これは、御大にお知らせせねば』

木の上で大騒ぎしていた鴉達は、実はこんな会話をしていたのだ。だが当然の事ながら、動植物の言葉を解する泰継には、その遣り取りは筒抜けであった。

「泰継さん…?」
言い止したまま、鴉が去った空を見上げて沈黙してしまった泰継が心配になり、花梨が声を掛けた。名を呼ばれて我に返った泰継は、何故か心配そうな表情を浮かべている花梨にこう告げた。
「いや、何でもない。お前が知る必要のない事だ」
泰継の言葉に、花梨は怪訝そうな顔をした。他の人間であれば言い難い事もはっきりと口に出す泰継が、言い掛けたまま止めるということは珍しい。
(泰継さんは、なんで途中で話すのを止めちゃったんだろう?)
「お前が知る必要のない事」と言うのだから、やはり彼は鴉が騒いだ理由を知っているのだろう。途中までしか聞けなかった話は、続きが気になるものである。もちろん、花梨も気になった。
しかし、「帰るぞ」と声を掛けて泰継が踵を返すと、花梨は訝しげな表情を消して、置いて行かれないよう、早足で歩き始めた泰継を慌てて追った。

その日以降、泰継と花梨は行く先々で鴉の姿を見掛けるようになったのだった。





「あの後、鴉達が向かったのは、お前のところなのだろう?」
不機嫌極まりない声音で泰継が問う。不穏な気が含まれたその問い掛けに、天狗は慌てて弁解した。
「ちょっと待て。あれは、儂があやつらに頼んだ訳ではないぞ」
確かにその鴉達は天狗の元にやって来て、『安倍の方は龍神の神子といる時はまるで別人のようだ』と、一頻り興奮気味に話して行った。しかし、それは天狗が彼らに依頼した訳ではなく、塒に帰る前に火之御子社で羽を休めていた鴉達が、偶然散策中の神子と泰継の姿を見掛けて目撃した事実を、日頃から泰継の親代わりだと吹聴している天狗に伝えに来ただけだったのだ。
しかし、やはり泰継にはそのような言い訳は通用しなかった。
「『あれ』はそうかも知れぬ。だが、あの日以来やたらと鴉達が付き纏っていたのは、お前の指図だろう」
すっと目を細めて睨み付けながら、泰継が指摘する。
(ありゃりゃ。さすがにバレておったか)
ばつの悪そうな表情を浮かべ、天狗は肩を竦めた。泰継の指摘は図星を指していたのだ。
鴉達から、泰継が他の者の前では決して見せない柔らかな笑みを神子に向けたと聞いて、天狗は喜んだ。泰継と同じ出自を持つ泰明が、百年前に八葉に選ばれ、神子のお陰で人となったのを目の当たりにしていたので、神子と出逢ったことによって泰継に起き始めた変化が、きっと彼にも幸せを齎すことになるだろうと思ったからだ。
だから、その過程を最後まで見守りたいと思い、最近では殆ど北山から出ることが叶わなくなった自分の代わりに、その鴉達に様子を窺わせることにしたのだ。
「確かに、鴉達にはお主の八葉としての働きを伝えさせてはいたが、監視しておった訳ではないぞ」
ぴくりと泰継の眉が跳ね上がる。
それを見た天狗は、泰継から無言の圧力を感じ取った。琥珀と翡翠の双色の瞳が、「嘘を吐くな」と言わんばかりに見据えている。
「何じゃ、その目は。可愛い息子の活躍を見守りたいという親心が、解らんもんかのう」
――我が息子ながら、ほんに愛想の無い奴じゃ。
やれやれ、と言った口調で天狗がそう漏らすと、忽ち泰継の視線が更に冷たいものへと変わった。

「――神子が言っていたのだが……」
無言で天狗の主張を聞いていた泰継が、漸く口を開いた。
彼が切り出した言葉に、天狗は「おや?」っと意外そうな表情を浮かべた。普段の泰継であれば、天狗が息子扱いすると直ぐに、「誰がお前の息子だ」と切り返して来るからだ。その反応が見たくて、日頃から泰継を「可愛い息子」扱いしている天狗としては、少々肩透かしを食らったような気分になったのだ。
「神子が、何と?」
話の先が読めず、天狗が先を促す。
「私が供に付いていない日も、散策で訪れた地でよく鴉を見掛けるのだ、と……。まるで『すとーかー』のようだ、と言っていた」
「『すとーかー』?」
耳慣れない単語の意味が解らず、天狗が問い返した。
「神子の世界の言葉で、『しつこく人を付け回す者』を意味するらしい」
「ほう」
「付け回した」と言われれば確かにその通りだから、神子の喩えは正しいようだ。
妙な事に感心している天狗を、泰継が追及する。
「つまり、目的は私だけではあるまい。――いや、寧ろ神子の方か?」
射抜くような目で天狗を見据えたまま、泰継は続けた。
「神子によると、『すとーかー』とは『懸想した相手を執拗に付け回す者』を指す場合が多いのだそうだ」
泰継が目を細めた瞬間、周囲の空気が瞬時にして張り詰めたのを感じ取り、天狗は目をぱちくりとさせた。
(こやつ、変わったものよの)
他の者であれば震え上がりそうな視線を向けられていながら、天狗が考えたのは、泰継に起きた変化についてだった。

以前の泰継に比べて格段に増えた表情の変化――。
それは、特に神子が絡んだ時に表れるようだ。
鴉達が垣間見た柔らかな笑顔にしても、今目の前で見せている冷ややかな表情も。
そして――…

『目的は、神子の方か?』

その言葉から、天狗は漸く泰継が此処に来た目的を悟った。
最初は、神子と泰継の行動を鴉達に覗き見させていたことに対して抗議に来たのかと思っていたが、どうやらそれが主な目的ではないらしい。寧ろ、泰継が神子と共に行動していない時にも神子の様子を探らせていたことが、泰継の気に障ったようだ。

――『すとーかー』とは『懸想した相手を執拗に付け回す者』を指す場合が多い。

低く押し殺した声で吐かれた言葉と、今にも式神をけしかけて来そうなくらい冷ややかな泰継の表情から、天狗は鴉に神子を付けさせたことが、大きな誤解を招いているらしいことを悟った。
自覚していないのかも知れないが、恐らく泰継は、天狗が百年振りに京に現れた龍神の神子に懸想して、自由に京の町中に下りられなくなった自分の代わりに、鴉達に神子の様子を探らせているのではないかと疑っているのだろう。
普段の彼であれば絶対しないような、突飛な発想である。いつもの泰継であれば、事実から論理的に考えて答えを導き出すはずだ。それが出来ないくらい、泰継の中で神子の存在が大きくなっているということか。
(神子が絡むと、普段の冷静さは何処へやら、じゃなぁ……)
小さく溜息を吐いた天狗だが、寧ろ泰継のその変化を嬉しく思う。泰継の神子への気持ちがどのようなものであるのか、彼自身の言動にはっきりと表れるようになったからだ。
天狗は、自分を射るように見据えている双色の瞳を真っ直ぐに受け止めた。
今、天狗の前にいる泰継は、神子を守る八葉ではなく、思いを寄せた相手を守ろうとする一人の男だ。
以前の泰継であれば、このように他者に読み取れるほど、感情を露にさせることなどなかっただろう。
(神子のお陰か……)
我知らず顔を綻ばせた天狗は、ふと泰明のことを思い出した。
神子のお陰で人となった泰明――。
彼を人に成らしめたのが神子への想いだったことを、天狗は知っていた。しかし、何度訊ねられても、泰継には泰明が人となれた理由を一切語ってはいなかった。もし泰継に、泰明にとっての神子のような存在が現れることがあったら、彼自身にその答えを見つけて欲しかったからだ。
神子への想いを未だ自覚していないらしい泰継には、答えを見出すことが出来ていないようだ。しかし、明らかな泰継の変化に、天狗は近い将来その時が来ることを確信した。


天狗が何故か笑みを浮かべたことを見て取り、泰継の表情が一層冷ややかなものとなる。判り易いその表情の変化は、更に天狗を喜ばせた。冷たく鋭い視線を向けられていても、天狗には「可愛い」と思えてしまうのだ。

「お主の神子がどんな娘か、知りたかったのじゃ」

泰継の顔を見つめたまま暫くの間考え事をしていた天狗が、漸く答えた。その答えを聞いた泰継が目を瞠る。
「儂はなぁ。神子に会って話してみたいのじゃ。北山に連れて来いと前々から言うておるのに、いつまで経ってもお主、連れて来んではないか」
泰継が八葉に選ばれたと聞いてから、天狗はずっと彼が守るべき神子がどんな少女なのか、会って話してみたいと思っていた。彼女が泰継に福を呼ぶ存在であるのかどうか、泰明の時のように自分の目で確かめたいと思ったからだ。その気持ちは、鴉達から初めて報告を受けて以来、日に日に大きくなっていた。
だから、度々北山に住まう鳥達を遣わせて、泰継に神子を連れて来るようにと伝えさせていたのだ。
しかし、泰継は頑として神子を天狗に会わせようとしなかった。
最近になって、北山に現れた怨霊を祓うため、神子が此処を訪れたこともあったのだが、さすがの天狗も怨霊が出現した場所には近付けず、こちらから会いに行くことが出来なかったのだった。
「泰明は直ぐに連れて来たというのに、お主、ほんに頑固よのう。やはり長く生きておると、頑なな性格になるようじゃな」
その言葉に、再び泰継の眉が上がる。しかし、泰継に睨まれることに慣れている天狗は、全く気にした様子もなく続けた。
「まったく……。見掛けは若くとも、中身はお主より遥かに長く生きておる儂より『頑固爺』じゃ。余り頑な事を言っておると、神子に嫌われるぞ」
「……余計なお世話だ」
揶揄するような口調で天狗が言うと、暫し沈黙した後、むすりとして泰継が言う。

――確かに、泰明は人型を与えられて二、三年後に八葉に選ばれたと聞いているから、自分のように長い歳月を過ごした訳ではないだろう。
そう思った泰継だったが、果たして泰明が素直に神子を天狗に会わせたものかどうか、疑問に思った。
(どうせ、「神子に会わせろ」と煩く言われ、泰明の方が根負けしたというのが真実だろう)
齢数百年と言われている北山の大天狗には、意外な事に駄駄っ子のような一面がある。しつこくせがまれて泰明が根負けしたとしても、不思議ではない。泰明が京にいた頃、天狗は時々晴明の屋敷を訪ねていたと聞いているから、尚更だ。やはり、使いの者達から何度も同じ伝言を聞かされるより、駄駄を捏ねる天狗の相手をする方が、遥かに疲れるだろう。
泰継が天狗のお強請りをずっと無視していたのは、うっかり天狗に神子を会わせなどしたら、彼女に何を言うか判らないと考えたからだった。神子の前で、いつもの如くからかわれては堪らない――そう思ったから。

「神子には神子の務めがある。お前の願いを叶えるために割く時間などない」
「おや、本当にそうかのう?」
天狗は泰継の言葉を聞いて、にやりと笑った。からかうようにそう言った後、ふぉふぉふぉ、としわがれた笑い声を上げた。それを聞いて泰継が顔を顰めるのを確認してから、天狗は続けた。

「お主、八葉と神子の務めに関係なく、神子を連れて野宮と羅城門跡に行ったことがあるじゃろうが」

天狗の言葉に驚き、泰継が大きく目を見開いた。確かに「話が聞きたい」と神子を誘って、二人きりで野宮と羅城門跡に行ったことがあったからだ。それは、天狗の言う通り、八葉と神子の務めには全く関係のない行動だった。
「つい先日も、神子と糺の森に行ったと聞いておるぞ」
天狗がそう言った瞬間、泰継は頬がかっと熱くなるのを感じた。
神子との会話に気を取られていた所為か、鴉達がいたことに全く気付いていなかったのだ。


あの日――…。
封印の力を手に入れた後、東の札を手にすべく、数日間ずっと頼忠と勝真の二人と共に行動していた花梨を、糺の森に連れ出した。朝、いつものように館を訪れた時、強い穢れを感じたので、清浄な気に満ちた糺の森に花梨を連れて行き、彼女が穢れの影響を受けていればそれを祓い清めようと思ったからだ。
しかし、花梨には異常はなかった。泰継が祓うまでもなく、神子としての力を着実に強めて来た花梨は、少しくらいの穢れならば跳ね返せる程の清らかさを、既に身に着けていたのだ。
本来であれば喜ぶべき事実なのだろう。しかし、あの時の泰継には、神子が穢れの影響を受け難くなった事を、心から喜ぶことが出来なかった。
(先代であれば……。神子の住まいに結界を施す力を持っていた先代であれば、今朝感じたような穢れを、神子の直ぐ傍にまで侵入させるような失態は見せなかっただろう)
先代と自分の力量の差を見せ付けられたような気がしたのだ。
(神子を守ることこそが、私の存在意義であるのに……)
それすらも満足に果たせない自分の不甲斐無さを痛感した。
だから、己の力不足を神子に詫び、自分が如何に先代の地の玄武、泰明に劣っているかを説明した。彼と同じく晴明の陰の気から作られたものでありながら、そして龍神の神子を守る八葉に選ばれていながら、如何に力不足で不完全であるのかを――。
話すうちに、無意識に弱音と思われても仕方がない言葉を吐いていたように思う。
しかし、それを聞いた彼女から返って来たのは、意外な言葉だった。

『泰継さんは泰継さんだよ』

その言葉を聞いた時、自分の持てる力の全てを使い彼女を守ることを、改めて決意した。
泰明でも他の誰でもなく、私を頼りにしていると言ってくれた神子を、何があっても必ず守ると――。
その時感じた胸の痛みと共に、その誓いを胸に刻み込んだ。

あの日の神子と私を見ていたというのか――…。


白皙の頬に薄っすらと赤みが差したのを見て、天狗は大きく目を見開いた。
ほんの僅かな変化だったのだが、長年彼と付き合って来た天狗には、その表情の変化がはっきりと見て取れたのだ。
二、三日前、鴉達から泰継が神子と二人きりで糺の森に出掛けたとの報告を受けていたので、いつもの如く軽く揶揄したつもりだったのだが、まさかこんな反応が返って来るとは思いも寄らなかった。
驚きの表情を浮かべた天狗から、仄かに熱を帯びた顔を隠すように、泰継が顔を背けて目を逸らす。それを見た天狗の眦が自然と下がった。
(龍神の神子は、また、奇跡を起こしてくれるかも知れぬな……)
百年前、神子への想い故に作られた存在から人となった泰明のように、泰継にもまた同様の奇跡を――…。
最後まで、それを見届けたいと思う。

「――お主に神子を連れて来る気がないなら、別に構わん。お主に邪魔されぬよう、神子が他の八葉と北山を訪れた時に、儂の方から神子に会いに行けば良いだけの話じゃ」
それを聞いた泰継は、はっとしたように逸らしていた視線を天狗の顔に戻した。
天狗は先程までの子を見守る親のような優しい微笑みを既に消して、泰継をからかう時いつも見せる意味ありげな薄笑いを浮かべていた。
その表情に、泰継が僅かに顔を顰める。
「この前神子が此処に来た時は怨霊の所為で会えなかったが、幸い神子が祓ってくれたからの。暫くは大丈夫じゃろう。お主がおらぬ時に、ゆっくり神子と話すとしようかのう」
にやにや笑いながら天狗が言う。それを見た泰継は、何故か胸の辺りがむらむらとして来るのを感じた。
(神子が他の八葉と北山に来た時に会う――だと?)
いつの間にか、泰継は無意識に拳を作っていた。突然湧き出して来た不可解な感情に背を押されるように、泰継は口を開いていた。
「ならば、神子と他の八葉だけで、北山に来させないようにするまでだ」
押し殺された低い声には、明らかに怒りが込められている。
「とにかく、今後神子には付き纏うな」
そう言い捨てると、泰継は踵を返した。
いつもの如く早足で庵へと続く山道を歩き始めた彼の姿は、あっという間に見えなくなったのだった。


遠ざかって行く背中を松の木の上から見送った天狗は、泰継の後姿が見えなくなった瞬間、はぁ、と息を吐いた。
「一体誰のために神子の様子を探らせているのか、ちっとも解っておらんようじゃな」
変化の兆しが見え始めたとは言え、まだまだだな、と天狗は思う。
泰継が神子と行動している日に鴉達に後を付けさせたのは、二人の仲の進展具合を観察させるためだった。そして、泰継以外の八葉と散策している神子の様子を探らせていたのは、他の八葉が神子にちょっかいを出すことがないよう、監視させるためだったのだ。
「本当に、親心の解らぬ奴じゃ。神子に妙なムシが付かぬように、儂がしっかり見張ってやっていたというに……。『親の心子知らず』とは、よく言ったものよの」
親代わりたる自分の愛情がなかなか通じない愛息子に文句を言った天狗は、次の瞬間、ふっ、と口元を綻ばせた。
鴉達の報告では、他の八葉達もそれぞれ神子に淡い想いを抱いているようではあるが、肝心の神子は彼らの気持ちには全く気付いていないらしい。
それは、彼女の瞳が常に唯一人だけに向けられているからだった。
散策の間、花梨は泰継の姿を目で追っていることが多いのだという。恐らく無意識なのだろうが、遠巻きに見物している鴉達の目にも明らかなのだから、彼女が泰継に思いを寄せていることは、二人に同行している八葉にも確実にばれていることだろう。
但し、当の泰継は、神子の想いに全く気付いていないようなのだが……。
(考えてみると、気の毒なことじゃな)
想い人の視線が常に他の男に注がれているのを、間近で見せ付けられる八葉達も。
「大好き」と大きく書いてあるような顔で見つめ続けているのに、全く気付いてもらえない神子も。
(あやつ、泰明と同じく、そういう事にはとんと鈍いからのう)
天狗は再び、はぁ、と深い溜息を吐いた。
晴明の力を継ぐ息子達は、揃いも揃って人の心の機微に疎い。自分達を付け回している鴉達の気配には直ぐ気付くくせに、その鋭さをもっと他の事にも回せないものかと思ってしまう天狗であった。

しかし、近い将来、必ず二人の想いが通じ合う日が来るだろう。
恐らく、もう間もなく――。
天狗はそう信じている。

「お主も、行ってしまうのかのう、泰継……」

八葉の務めが終わった後、神子の世界へ――。
泰明のように、二度と会うことの叶わない異世界へ……。

天狗の呟きは、黄昏時を迎えた北山に吹き始めた冷たい風に乗り、空に消えて行った。
その横顔が、嬉しそうでもあり少し淋しそうでもあったことを、見た者はいなかった。





すっかり日も暮れた刻限―――

一日の散策を終えて自室で寛いでいた花梨は、泰継から突然の訪問を受けた。

「神子、失礼する」
いつものように声を掛けて室内に入って来た泰継を見て、花梨は驚いた。館を清めるため、一日一度は此処を訪れる泰継だが、今日は朝、既に顔を出していたからだ。泉水と幸鷹と共に散策に出掛ける花梨を見送った後、泰継は清めを行って帰ったはずだった。
「泰継さん。何かあったんですか?」
日が落ち、辺りが暗くなってから再び訪ねて来た泰継に、花梨は何か緊急の用でもあるのかと思い、そう訊ねた。
花梨の問い掛けに、泰継は小さく頷いた。
「神子に話があるのだ」
「話って?」
訝しげに小首を傾げながら鸚鵡返しに問う花梨の瞳を真っ直ぐに見つめ、泰継は此処に来るまでの間考えていた事を彼女に告げた。


「神子。北山に行く時は、必ず私を連れて行け」

「え?」


小さく声を上げた花梨は、軽く目を瞠った。
泰継の言葉はいつも端的過ぎて、花梨には先が読めない。
だが、無駄を嫌う彼が、わざわざそれを告げるためにやって来たのだから、その言葉には何か意味があるのだろう。
そう考えた花梨は、ふと先日北山を訪れた時のことを思い出した。
その日は勝真が都合で来られなかったため、東の札探しを諦めて、怨霊が現れたとの情報を受けていた北山に、イサトと泰継と共に出掛けた。しかし、怨霊を封印することが出来なかったのだ。
怨霊を散らしたお陰で、泰継の心のかけらを見つけることが出来たものの、折角封印の力が使えるようになったというのに、選りに選って泰継の庵がある場所に出現した怨霊を封印出来なかった。その事実は、花梨を落ち込ませたのだ。
気の変化に敏感な泰継は、花梨の気が沈んだことに気付いて、「気にするな」と言ってくれていた。
だからこそ、次はきっと、怨霊と化した天狗を封印して救いたい。
――そう思っていた。

(もしかして、泰継さんは、その手助けをしてくれるって、わざわざ伝えに来てくれたの?)

泰継の意図は良くは解らないが、想い人と散策に出掛ける回数が増えることは、花梨にとっては望ましい事である。
「分かりました」と答えた花梨は、泰継の双色の瞳を真っ直ぐに見つめ、自らの決意を泰継に告げた。

「泰継さん。私、今度こそ天狗さんを封印して、苦しみから解放出来るように頑張りますから……。だから、力を貸して下さいね」

龍神の神子として、皆が暮らす京を守りたいという気持ちも、もちろんあった。しかし、それだけではない。特に北山は、花梨にとって特別な場所だったのだ。
それは北山が、花梨が京に召喚された時降り立った場所であり、泰継と出逢った場所だったからだ。
それに、いつ訪れても静寂に包まれている深遠な山の雰囲気は、何処か泰継が纏う静かで泰然とした雰囲気に似ているような気がするのだ。
だから、怨霊を封印して、怨霊だけでなく北山も救いたい――。
真っ直ぐに泰継を見つめる緑色の瞳には、花梨の決意が表れていた。

しかし、泰継が返した応えは、花梨の度肝を抜くものだった。


「――北山の怨霊は、封印しなくても良い」


予想外の言葉を返した泰継に驚き、大きく目を見開いた花梨は、「えっ?」と声を上げた。京でも名高い陰陽師である彼の言葉とは思えなかったのだ。
「どうしてですか?」
意気揚揚と決意表明をしたのに、あっさりそれを退けられてしまった花梨は、腑に落ちない様子で訊ねた。
一瞬、泰継が天狗との戦闘を心配しているのかと思った花梨だったが、それは違うだろうと思い直した。北山に現れた天狗の怨霊の属性は金。火属性の花梨にとっては、有利に戦える相手だ。その所為で、先日北山の怨霊と戦った際、火属性の八葉であるイサトと二人して力加減を誤り、封印する前に怨霊を散らしてしまったくらいなのだから。
「……………」
訊ねる花梨を見つめたまま、泰継は直ぐに口を開くことなく、暫し沈黙した。
怨霊がいる限り、天狗が花梨にちょっかいを出して来る心配はない。出来れば、数日後には復活するであろう怨霊には、そのまま北山に巣食っていて欲しいくらいだった。

「……北山には、怨霊よりも厄介な天狗がいるからだ……」

やがて口を開いた泰継は、ぽつりとそう呟いた。
益々訳が分からなくなり、ぱちぱちと瞬きを繰り返した花梨に、泰継が告げた。

「だが、神子は、必ず私が守る」

――怨霊と化した天狗からも、そしてあの御節介で厄介な天狗からも、な……。

その言葉を聞いて、ぱっと顔を輝かせた花梨には、泰継が心の中でそんな事を考えているとは知る由もなかったのだった。




その後、大晦日を迎えるまでの間ずっと、花梨が北山を訪れる時は必ず泰継が同行した。そして、北山の怨霊は、泰継の希望通り最後まで封印されることなく、神子に近付こうとする天狗の邪魔をし続けたのだった。

それ故、天狗が初めて花梨と会ったのは、翌年の春――。
泰継と結婚した花梨が、北山の庵で暮らし始めてからのことだった。







〜了〜


あ と が き
あづさ蘭様へのお礼として書かせて頂いた作品です。
どんな話にしようかと考えて、以前あづさ様が「親心−天狗編−」の感想をBBSに書き込みして下さった際、「天狗さんが鴉に偵察に行かせたのが泰継さんにばれて、親子喧嘩するっていうのも面白いかも」と言って下さっていたのを思い出し、あづさ様の了解を得た上で、それをネタに話を作ってみました。お題創作「すれ違い」の数ヶ月前、東の札を手に入れる前くらいのお話です。
しかし、天狗さんと泰継さんの遣り取りは、本当に子供同士のじゃれあいのようで(笑)。泰継さんは天狗さんといると、子供っぽくなるみたいです。大切な恋第三段階を済ませて、何かとお悩み中のはず……なのに、親子喧嘩なんかしていて良いのでしょうか(^^;
最後、まさか泰継さんが花梨ちゃんに「北山の怨霊は封印するな」などと言うとは、思ってもみませんでした。当初の予定では、北山に行く時は自分を連れて行くようにと告げるだけだったのですが……。それで良いのか?継さんよ。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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