花の行方
「泰継さん、まだお仕事終わらないのかなぁ……」

ぼんやりと御簾の向こうに広がる庭を眺めながら、花梨は深い溜息を吐いた。



泰継は本家から依頼された仕事で、昨夜遅くから内裏に詰めていた。
夜遅くまで書物を広げ、調べ物に余念がなかった泰継が、いつもの如く花梨に「根を詰め過ぎると身体に毒です」と諭されて、漸く寝所に入った直後、安倍家が火急の用を告げる式神を寄越したのだ。寝所に愛妻と二人きり。良い雰囲気になり始めたところに齎された仕事の依頼に、泰継は珍しく渋い表情を見せた。
式神が伝えた話では、飛香舎に物の怪が現れたのだが、陰陽寮に詰めていた陰陽師だけでは手薄なので、力を貸して欲しいとの事だった。
花梨が龍神を喚んでから、龍神の神子の力を借りて封印しなければならない程、強い力を持つ怨霊は鳴りを潜めたものの、人間が此の世で営みを続ける限り、死霊の類は無くなる事は無いのだ。恨みや憎しみといった人間の負の感情が、人に災いを為す怨霊を生み出すのだから。
式神が安倍家の当主からの言伝を伝え終えた後、泰継は小さく息を吐いた。後宮に現れる怨霊ほどやっかいなものはない。夜通しの仕事になることは間違いないだろう。しかし、飛香舎は清涼殿に近い。帝の膝元で起きた怪異であれば、断ることは出来まい。そして、何よりも――。
泰継は後ろを振り返った。几帳の脇に立ち、心配そうに式神が伝える話を聞いていた花梨と目が合った。緑色の瞳が、訴えかけるように真っ直ぐに見つめている。何も言わなくても、泰継には彼女が望んでいる事が判った。元より、花梨は困っている人を放っては置けない性格である。そして、彼女の望みを叶える事は、夫婦となった今も、泰継の望みであり喜びでもあった。
それ故、泰継はその仕事を引き受けることにし、深夜内裏へと向かったのだった。


「気を付けてね」と泰継を送り出した花梨は、結局朝まで殆ど眠ることが出来なかった。夜通し休むことなく危険な仕事に立ち向かっている泰継を思うと、自分だけのうのうと眠っていて良いのかと思ってしまうのだ。それに、もし予定より早く泰継が帰って来たら、との思いもあって一晩中起きていたのだが、夜が明けて日が完全に昇り切っても、泰継が帰って来る気配はなかった。
「今度のお仕事、大変なのかな」
泰継の仕事には、危険が伴うことが多い。だから、こうして彼が徹夜の仕事に出掛けた時、一人屋敷に残って無事を祈ることしか出来ないことが、花梨にはもどかしかった。
それに、一人でいると、泰継に傍にいて欲しいと思う気持ちが湧き起こる所為だろうか。泰継がいない時間は、花梨にとっては常よりも遥かに長く感じられるのだ。
「待ってるだけって、もどかしいよね……」
――私も手伝えたら良いのに……。
泰継が許すはずがないことは十分解ってはいるが、ついそんな考えが浮かんでしまう。
はぁ、と再び大きな溜息を吐くと、花梨は視線を庭から部屋の内部に戻した。まだ八葉だった頃、泰継が借り受けていた安倍家の離れと同じく、必要最低限の調度しか置かれていない部屋は、主がいない今、いつもよりがらんとして見えた。
こうして一人泰継の帰りを待っている時、部屋の広さや普段より遅く感じられる時間の流れなどから、花梨はいつも、自分にとっての彼の存在の大きさを実感することになるのだった。
「泰継さん、早く帰って来てくれないかなぁ」
溜息交じりの花梨の呟きに、応えを返す者はいなかった。

その時、花梨の耳に、ばさりと何かが落ちる音が届いた。物思いに耽っていた花梨がその物音に我に返り、音がした方に視線を向けると、部屋の隅に置かれた文机の上から巻物が転がり落ち、床に広がっている。昨夜泰継が熱心に読んでいた、陰陽道に関する書だ。
床に広がった巻物の上には、先月から飼い始めた子猫の姿があった。どうやら文机の上から巻物を落とした犯人は、飼い猫の虹らしい。
「駄目だよ、虹ちゃん! それは、泰継さんが大切にしているものなんだから!」
慌てて駆け寄った花梨は、巻物の上に立っていた虹を抱き上げた。猫の爪は鋭い。うっかり爪を研がれでもしたら、貴重な書物が台無しになってしまう。
巻物に傷が付いていないか確かめた花梨は、どうやら無傷らしいことを知り、ほっと胸を撫で下ろした。物に対する執着心が余り無い泰継だが、書物だけは別であることを知っていたからだ。
早く放せと言わんばかりに、足をばたつかせながら「にゃあ」と鳴き声を上げた虹を、巻物から離れた床の上に下ろし、糸で作った小さな毬を投げてやると、遊び盛りの子猫は一目散にそれを追い掛け、じゃれ付くように遊び始めた。それを確認して微笑みを浮かべた花梨は、床に広がった巻物を元通りに巻き始めた。
巻き終えて、再びそれを文机の上に置こうとした花梨は、ふと手を止めた。此処に置いておけば、また虹の遊び道具にされるかも知れないと考えたのだ。
子猫の手の届かない場所は、と考えながら顔を上げると、文机の傍に据付けられた書棚が目に留まった。
家具らしい家具のないこの屋敷で一番目立っているのが、この書棚だった。図書寮で見掛けた物によく似たその棚は、この屋敷を建てた際、泰継が唯一欲しいと言った物だった。人になる前、忘却することがなかったため、書物を一度読んだだけでその内容を全て記憶することが出来た泰継には、読み終えた書物を手元に置いておく必要がなかった。しかし、人となって忘却することを知ってからは、やはり以前のようにはいかなくなったのだ。そのため、調べ物をしたい時すぐに取り出せるよう、手元に置いておく書物が格段に増えたのだった。それらを収納するために泰継が欲しがった書棚は、花梨から相談を受けた彰紋と泉水が、二人の結婚と新居の完成を祝って贈った物だった。
――自分でさえ背伸びしなくては手が届かないこの棚の上の方であれば、まだ小さな虹が上ることは出来ないだろう。
そう考えた花梨は、空いていた書棚の一番上の段に、それを片付けることにした。

「あれ……?」
踵を上げ、巻物を持つ手を伸ばして、漸く届いた棚の上にそれを置こうとした花梨は、その棚には既に何かが置いてあることに気が付いた。巻物の軸が何かに邪魔されて、奥まで入ってくれないのだ。
(――何だろう?)
一旦背伸びするのを止めた花梨は、書棚の一番上の段を見上げて首を傾げた。毎日目にしている書棚だが、最上段にはまだ何も置かれていないと思っていたのだ。それと言うのも、書棚にはまだ余裕があるため、泰継は文机に近い下の段から巻子本と冊子本に分けて置いていたからだ。
花梨に心当たりが無いのだから、これをこの場所に置いたのは泰継ということになる。まるで花梨の目の届かない場所に隠すように置かれたその物が何であるのか、花梨は無性に気になり始めた。
花梨は巻物を文机の上に置くと、限界まで背伸びして、書棚の最上段の奥の方に手を伸ばした。すると、指先に何か木箱のような物が触れた。指先だけで何とかそれを棚の口の方まで手繰り寄せ、手に取ることに成功した花梨は、それが何であるのかを見て取り驚いた。
「これ、泰継さんの硯箱じゃない」
それは、古い硯箱だった。泰継がまだ安倍家で暮らしていた頃、師である安倍吉平から譲り受けた物で、以来ずっと使って来たのだと聞いている。しかし、流石に九十年もの間使い続けて来た物なので、新居に移って来た機会に新しい物に替えたのだ。現在泰継が使っているのは、やはり結婚祝い兼新居完成祝いとして、筆や硯、卦算と共に幸鷹から贈られた物だった。
生まれてからずっと使い続けて来た愛用品だからというだけでなく、今となっては師の遺品のようなものだから、泰継がそれを捨てることなく取って置いたとしても不思議ではないが、何故こんなところに置いてあるのかが解らなかった。
硯箱は、中が空であるかのように軽かった。試しに軽く振ってみると、かさり、と紙が擦れる軽い音がした。どうやら中身は文のようだ。
――普段自分の目に触れることのない場所にこれを置いてあったということは、自分には見られたくない物なのだろう。
そう考えた花梨の脳裏に、ある疑惑が頭をもたげて来る。
(まさか、女の人からの文とか……)
泰継に限って、との思いはあるが、花梨にはその考えを完全に否定することが出来なかった。昨夜のように、安倍家からの依頼で内裏や後宮に出入りする機会がある泰継を、後宮に仕える女房たちが見初めないとは限らない。元より非の打ち所が無い美貌の持ち主ではあったが、妻である花梨の目から見ても、柔らかな表情を見せることが多くなった泰継を、後宮の女たちが放って置く訳がないと思えるのだ。
泰継が自分に何か隠していることを知り、花梨は少なからず動揺した。彼を信じる気持ちと、もしかしたらと思う気持ちが鬩ぎ合い、花梨の心を激しく揺さ振った。
夫婦とは言え、泰継の留守中にこっそりと中を見るのは卑怯な事だと思う。しかし、一度頭をもたげた疑惑は、晴らされるまでずっと花梨を悩ませることになるだろう。
手にした箱を見つめたまま暫くの間逡巡した花梨は、やがて意を決した。
(泰継さん、ごめんね)
心の中で詫びながらも、やはり確かめずにはいられなくて、花梨は硯箱を文机の上に置き、蓋を開けた。

蓋を開けた瞬間、ふわりと菊花の香りが薫った。中に入っていたのは、淡香色の紙に認められた文の束だった。
――泰継の好みの色と香り。
「やはり恋文だ」と思った花梨の胸に衝撃が走る。――が、次の瞬間、あることに気付き、花梨は箱の中身を全て出して、文机の上に並べた。
淡香の文は全部で六通。文の他に、箱の底に薄い冊子が入っていた。
「これ…。もしかして……」
花梨は文を手に取り、順に開いて中を改め始めた。
「これも、これも」と呟きながら花梨が開いた文には、見覚えのある文字が躍っている。まだ手習いを始めて間もない子供が書いたような、拙い文字で書かれた文――。内容は全て同じだ。
六通全部確認し終えた花梨は、文机の上に広げられた文を呆然と見つめていた。
「これ、私が泰継さんに送った文じゃない」
物忌みの日の前夜、慣れない筆と格闘しながら書いた文。文字は綺麗じゃないけれど、「明日来て欲しい」との想いだけは沢山込めて、泰継に送った。彼が好きだという花を添えて。
その気持ちに応えるように、彼はいつも来てくれた。
「取って置いてくれたんだ……」
恋心を綴った文ではなく、「明日物忌みなので来て欲しい」と伝えるためだけの、言わば事務的な文だったのに。それを捨てずに、しかも師の遺品と共に大切に保管してくれていることが、堪らなく嬉しかった。
花梨の顔に笑みが広がって行く。
最後に送った文を手に取った花梨は、それを胸に当ててみた。
(これを書いた頃って、「帰りたくない、泰継さんと離れたくない」って思っていたよね……)
その願いが叶い、今も泰継と共に此処にいる。あれからまだ一年も経っていないけれど、既に良い思い出となった出来事たちは、思い出す度花梨の胸を温かくさせた。
文を置いた花梨は、今度は文と一緒に硯箱に保管されていた冊子を手に取った。こちらは見覚えの無いものだ。
何だろうと思いながら、ぱらぱらと頁を捲った花梨は、思わず「あっ!」と声を上げていた。その時脳裏を過ぎったのは、以前泰継に見せてもらった泰明が残した書付けのあの頁――。泰明の神子、あかねが物忌みの文に添えて贈った山吹の押し花が挟まれていた頁だった。
あれと同じものが、今、花梨の目の前にあった。但し、押し花にされていたのは春の花である山吹ではなく、秋の花である女郎花の花――。花梨が文に添えて、泰継に贈ったものだ。
さらに頁を捲ってみると、女郎花だけでなく、石蕗もあることに気が付いた。物忌みの前日、慌てて摘みに行ったことが、懐かしく思い出された。
「あ……」
冊子を開いたまま石蕗の押し花を見つめていた花梨は、無意識に吐息のような小さな声を漏らしていた。
泰明の書付けに挟まれていた山吹の花を見た時、もし泰継が自分が贈った花をこんな風に保存してくれていなかったとしても、それで泰継の自分への想いが、泰明のあかねへの想いに劣る訳ではないと思った。しかし、あかねを羨ましく思う気持ちが全くなかった訳ではないとも思う。いや、恐らく心の奥底に、羨む気持ちがあったに違いない。花梨の泰継への想いは、あかねの泰明への想いに勝るとも劣らず深いものだったから。
文はともかく、花は何れ枯れるものだから、捨てられても仕方がないと、そう思っていたのに――…。

(泰継さん……)

『花は、想いを相手に伝えるために贈るもの……』

あの日の泰継の言葉が甦る。
泰継に想いを伝えるため文に添えた花たちは、その役目を終えた今、彼の手でこうして大切に保管されている。花梨が泰継に伝えようとした想いと、それに応えてくれた彼の想いと共に――。
初めて知ったその事実に、花梨は目頭が熱くなるのを感じた。

――心から、「嬉しい」と思った。





◇ ◇ ◇





「――花梨…?」

深夜思い掛けず入った仕事を何とか片付け、泰継が屋敷に帰ると、いつもは真っ先に出迎えに飛び出して来るはずの花梨の姿がなかった。
(庭にでもいるのか?)
訝しく思いつつも、泰継は簀子を渡りながら花梨の気を探った。庭ではなく、どうやら母屋にいるらしい。
ほっと息を吐いた泰継の顔に、次の瞬間険しい表情が浮かんだ。
――花梨の気がいつもと違う。
沈んでいる訳でも乱れている訳でもないが、自分の帰宅に気付かない程、何かが彼女の心を捉えていることだけは確かなようだ。
泰継は足早に花梨がいる母屋に向かった。


「花梨!」
勢い良く御簾を上げ、滑り込むように母屋に入った泰継の目に飛び込んで来たのは、珍しく文机の前に座っている花梨の姿だった。しかし彼女が俯いていたため、その表情を確かめることは出来なかった。
「――花梨…?」
再度声を掛けて歩み寄ろうとした時、漸く花梨が顔を上げて泰継の方を向いた。
「泰継さん……」
こちらを向いた花梨の表情を見て、泰継は息を呑んだ。笑みを浮かべてはいるものの、緑色の瞳が今にも涙が零れ落ちそうなくらい潤んでいたからだ。その表情は、泰継の目には、泣きたいのを堪えて微笑んでいるように見えたのだった。
「お帰りなさい。お仕事、お疲れ様でした」
目に浮かんだ涙を指で拭いながら、花梨は泰継が仕事から帰った時、いつも掛ける労いの言葉を口にした。
「花梨、一体……」
――何があったのだ?
そう続けようとした泰継は、花梨が文机の上に広げていた物に目を留めると、大きく目を見開いた。一歩踏み出した足をそのままに、その場に立ち止まる。さらに花梨の手の中の冊子を見て取った泰継は、喉を撫でてもらおうと足元にじゃれ付いて来た虹にも気付いていないかのように、呆然とその場に立ち尽くしてしまったのだった。
花梨が見ていたのは、まだ龍神の神子だった頃、彼女が物忌み前夜に泰継の元に送って来た文だった。
――明日物忌みなので来て欲しい。
ただそれだけを伝えるためだけに送られて来た文を、安倍家からの仕事の依頼の文など、他の文と同様に扱うことが出来なくて、取って置いたのだ。
龍神の神子の物忌みには、八葉の一人が付き添う。その役目を担える者が八名いるにも拘わらず、常に自分に付き添いを依頼して来る花梨を最初のうちは不思議に思っていた。しかし何度か彼女から文を受け取るうちに、いつの間にかそれを待っている自分に気が付いた。淡香色の紙、焚き染められた菊花の香り、そして添えられた女郎花と石蕗の花――。それらが齎す心地良い温かさを感じたかったのかも知れない。
そして、彼女からの文を見る度思い出すその温かさを手放したくないと思って――ずっと自分のものにしておきたくて、全て置いておくことにしたのだ。
しかし、新居に移る際も持って来たそれを、花梨には見られたくないと思っていた。如何に自分が彼女という存在に縋って生きているのかを、証明するもののように思えたからだ。
(私が、花梨に寄り添うことでしか人として生きて行けない者だと知って、花梨はどう思っただろうか? 愛想を尽かしはしないだろうか?)
呆然と立ち尽くしたまま花梨の顔を見つめていた泰継は、花梨に見られないよう、硯箱に術を施して置かなかったことを後悔した。

「勝手に見ちゃって、ごめんなさい」
花梨は先ず謝罪の言葉を口にした。その言葉には、泰継の留守中、勝手に彼の持ち物を改めたことに対する謝罪の他、一瞬とは言え彼の心を疑ってしまったことに対する謝罪も含まれていた。
潤んだ瞳で泰継を見つめていた花梨は、広げて持ったままになっていた冊子に視線を落とした。そこに挟まれていた石蕗の黄色い花を、壊さないようにそっと指でなぞった。この花を摘むために膝頭を擦り剥いたことや、泰継に隠し事をして嫌な思いをさせてしまったことなどが、まるで昨日の出来事のように思い出された。
二人の距離が確実に近付いた優しい思い出に思いを馳せながら、花梨は口元を綻ばせた。
「取って置いてくれたんですね」
石蕗の押し花を見つめたまま、花梨は言った。
「泰明さんの書付けの山吹の花を見た時、本当は気になっていたの。『泰継さんは私が贈った花をどうしたんだろう』って……」
その言葉に、泰継が大きく目を瞠った。泰明が神子から贈られた花を押し花にして残していたことは、書付けを初めて見た時から知っていた。真似をした訳ではなかったのだが、花梨から貰った花を押し花にして保管することにしたのは、間違いなく彼が残した山吹の花の影響があったと思う。
冊子から顔を上げた花梨が、母屋の入り口近くで立ち尽くしたままの泰継に目を向けた。
「『こんな風に残して置いてくれたら良いな』って思っていたから、すごく嬉しい……」
潤んだ目を指で拭った花梨は、冊子を文机の上に置いて立ち上がると、泰継の傍に歩み寄った。
「ありがとう……」
言うなり花梨は泰継の胸に顔を埋め、背中に回した手でぎゅっと抱き締めるように抱き付いた。

――すごく嬉しい……。

花梨の言葉を聞いて「嬉しい」と思ったのは、泰継の方だった。花梨から贈られた花を保存しておいたのは、花梨の暖かで清浄な気と彼女の想いが込められたそれが齎してくれる温かさに、縋りたかったからに他ならない。まさかその行為が花梨を喜ばせることになろうとは、思いも寄らなかった。
「お前の想いの籠もったものだ。捨てられる訳があるまい」
いきなり抱き付いて来た花梨をじっと見つめていた泰継は、やがて躊躇いがちに華奢な身体を抱き寄せると、そう告げた。その言葉を聞いて、泰継の胸に顔を埋めていた花梨が漸く顔を上げた。泰継は自分を見上げる緑色の瞳が、まだ潤みを帯びつつも喜びに輝いているのを見て取った。言葉に出さずとも、彼女の気持ちは瞳が雄弁に語っている。――「嬉しい」と……。
「泰継さん。あのね……」
「何だ?」
「泰継さんに見て欲しい物があるの」
花梨は、訝しげに首を傾げた泰継の手を取った。
「こっちに来て下さい」
促されるまま、泰継は彼女の後を付いて行った。



花梨が泰継を連れて行ったのは、寝所だった。徹夜の仕事を終えて帰宅した泰継が直ぐに休めるようにと、既に夜具が整えられている。寝所の入り口で泰継の手を離した花梨は、褥の横を通り過ぎると、部屋の隅に置かれた唐櫃に近付いた。
その櫃には、花梨が泰継の元に嫁ぐ際、紫姫が仕立ててくれた着物の他、京に来た時身に着けていた異世界の装束や、龍神の神子として京の町を巡っていた頃纏っていた水干など、花梨が大切にしている物を保管していた。
花梨は櫃の蓋を開けると、その中に顔を突っ込むようにして、何かを探し始めた。その様子を寝所の入り口から見ていた泰継は、やがて花梨の傍へ歩み寄った。
「花梨。何を探しているのだ?」
櫃の底の方に手を突っ込んで、ごそごそと手探りで何かを探している花梨の手元を覗き込みながら、泰継が訊ねた。
「泰継さんに見てもらいたい物です……あっ、あった!」
目的の物を発見し、上体を起こした花梨の手の中にあったのは、料紙入れだった。紫姫の館に世話になっていた頃、物忌みの文に使っていた料紙を保管していた箱である。
両手で捧げ持ったそれを暫くの間じっと見つめていた花梨は、やがてその場に座り、床の上にその箱を置いた。怪訝そうな表情を浮かべて傍に立っていた泰継も、彼女に倣ってその場に腰を下ろした。
花梨は、床に置いた料紙入れを泰継の前に置き直した。
「開けて見て」
そう促す花梨の顔を一度見つめた泰継は、花梨が見守る中、その蓋を開けた。
中に入っていたのは、物忌みの前夜、花梨が送って来た文に使われていた淡香の薄様だった。
「私に見せたい物とは、これか?」
一見何の変哲もない料紙の束を見て、泰継が問い掛けた。花梨が何故これを自分に見せたいと言うのか、解らなかったのだ。訝しげに首を傾げ、ぱらぱらと指で料紙を捲った泰継は、その間に挟まれていた物に気付き、目を瞠った。
「これは……」
数枚おきに料紙の間に挟まれていたのは、さっき花梨が見ていたのと同じ石蕗の黄色い花――。
しかし、これは泰継が押し花にして保存した物ではない。
泰継が抱いた疑問が聞こえたかのように、花梨が答えた。
「泰継さんが私に贈ってくれた石蕗の花です」
それを聞いた泰継は、弾かれたように顔を上げ、視線を花梨に向けた。淡く頬を染め、恥じらいの表情を浮かべた顔が、じっと見つめていた。
「私の宝物なの……」
そう言いながら、花梨は愛しい者を見守るような優しい目で、泰継の前に置かれた料紙入れを見つめた。
その様子を呆然と見ていた泰継の脳裏に、あの日の出来事が甦った。


『神子殿は石蕗の花を知らなかったようだが、一目で気に入ったようだったよ』

翡翠のその言葉に促されるように、花梨に石蕗を贈った。文に花を添えて人に送るのは、相手に自らの想いを伝えるためなのだと、そう教えられたからだ。
だから、自分の心無い言葉の所為で涙を見せた彼女に、謝罪の気持ちを込めて石蕗を贈ったつもりだった。



「――捨てなかったのか?」
「だって、泰継さんが想いを込めて贈ってくれた物なのに、捨てられる訳ないじゃないですか」
ぽつりと呟くように訊ねる泰継に、花梨はさっき彼自身が言った言葉をそのまま返した。

――花を贈られれば、その人を思い心が温かくなる……。

泰継が言った通り、その石蕗は見る度に彼の姿を思い起こさせ、花梨の胸を温かくさせた。
「それに、泰継さんが初めて私にくれた物だもの。記念に取って置きたかったの」
そのまま放置すれば枯れてしまう花を、長期間保存出来る方法はないかと、何日もの間花梨は考えた。枯れないよう、泰継に術を掛けてもらったら――との考えも浮かんだのだが、何よりも自然の理を重んずる立場にある泰継が、そんな事を承諾するとは思えなかった。
貰ってから日が経つにつれ、部屋に飾っていた石蕗の花が色褪せ始め途方に暮れていた時、花梨はそれを押し花にすることを思い付いた。押し花では瑞々しい姿のままでは保存出来ないが、花が散って形すら無くなってしまうことに比べれば、遥かに良いと思ったのだ。


『私の宝物なの……』

石蕗の押し花に向けられた花梨の柔らかな横顔を見つめながら、泰継は先程の花梨の言葉を思い起こしていた。泰継が師から譲り受けた硯箱に保管していた文と花を見つけて「すごく嬉しい」と花梨は言ったが、彼女が自分が贈った石蕗を、こうして押し花にして残していたことを知った泰継が感じたのも、花梨と同じ気持ちだった。
花梨の想いが込められた花を見る度、彼女を想い温かな気持ちになった。その温かさをいつまでも手放したくなくて、大切に取って置いたのだが――。

(お前も、そう思ったのだろうか?)

――まだ感情というものに疎い私が、言葉では伝え切れない想いを託して贈った花を見て、手放したくないと思う程の温かさを感じてくれたのだろうか?

泰継は、何か温かいものが胸の内に満ちて来るのを感じた。自然と、隣に座る花梨の肩に手が伸びる。
「や、泰継さん!?」
突然伸びて来た手に肩を掴まれるのを感じた次の瞬間、泰継の腕の中にすっぽりと収まっている自分に気付き、花梨は狼狽えた。忽ち鼓動が速くなり、頬が紅潮する。
「――嬉しい……」
「え?」
耳元で囁かれた言葉に、花梨は思わず聞き返した。
「お前が、私と同じ気持ちでいてくれたことが……」
はっとして、花梨は泰継の顔を見上げた。
間近に在ったのは、普段表情を動かすことの少ない泰継が滅多に見せない嬉しそうな笑顔――。
言葉を発することも忘れ、その笑顔に見惚れた花梨の唇に、柔らかな唇が重ねられた。


――花は、想いを相手に伝えるために贈るもの……。

これからも、この胸に溢れんばかりの想いを、花に託して伝えよう。
愛しいお前に――…。







〜了〜


あ と が き
2005年の新年お年玉企画として無料配布したコピー本用に書き下ろした作品です。
このコピー本は、一周年企画作品として書いた「山吹の記憶」をメインにすることを決めていたのですが、一作だけでは物足りないと思い、物忌みの花を扱った作品という繋がりで、50のお題の一つ「思い出」も収録することにしました。その際、折角なので二つの話を繋ぐような話も書こうと思って、この話を書いた次第です。 そのため、このお話では「思い出」が現代エンディング後であることを無視し(実は元々後付け設定だったので)、「山吹の記憶」の二人が「思い出」の回想シーンの出来事を経験していたら、という設定になっています。
この話の元ネタは「山吹の記憶」執筆時に出来たものです。「山吹の記憶」で、花梨ちゃんが泰明さんが残した山吹の押し花を見て、自分が泰継さんに贈った女郎花と石蕗がどうなったのか気にしているようだったので、それをヒントに作った話だったのです。
「泰継さんが花梨ちゃんから贈られた花を捨てる訳ないじゃない」などと思いながら、泰継さんも泰明さんのように押し花を作っていました、という話を作ったのですが、「逆も有り得るよな」と思いまして。ちょうど「思い出」ではお互いに石蕗を贈り合っていたので、それを絡めて一つの話に纏めてみました。
しかし、ほのぼのだったはずなのに、激甘な話になってしまいました(苦笑)。最後の場面が寝所(しかも、徹夜明けの泰継さんが直ぐに休めるように、既に床の準備が完了している)だったのが敗因かも……。
敢えてあの場面で終わらせてしまったのですが、あの後二人に何が起きたのか、想像するに難くないですよね。きっと、前夜邪魔が入ったので、続き(?)をしたことでしょう(笑)。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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