秋桜
「泰継さん、おはようございます」

インターホンが鳴る前に気配を感じ取っていた泰継がドアを開けると、そこには新聞紙で包んだ薄紅色の花を持った花梨が立っていた。




龍神の神子としての役目を終えて泰継と共に現代へ帰って来た花梨は、帰って来た日に泰継と再会してからというもの、彼の仕事がない日は、放課後はもちろん、週末も必ず泰継の住むマンションを訪れていた。まだこちらの世界に慣れていない泰継の世話をするためだと理由を付けている花梨だが、彼と少しでも長い時間を過ごしたいというのが本音であった。
今日も、土曜日で授業がないため、花梨は朝から泰継に会いに来たのだった。



「あれ、今日は泰明さんいないんですか?」
リビングのガラステーブルの上に持って来た花の包みを置いた花梨は、部屋の中に泰継以外の人間の気配がしないのを感じて訊ねた。この世界では、泰継は先代の地の玄武であり彼と同じ出自を持つ泰明の兄弟かつ同居人として暮らしているのだ。
「ああ。先刻あかねが来て、二人で出掛けたのだ。今日は映画を見に行く約束なのだそうだ。駅で会わなかったか?」
お茶の用意をするためキッチンに向かいながら、泰継が答える。
「見かけませんでしたよ。入れ違いになったのかもしれませんね」
「そうか」
花梨は泰継を追ってキッチンに向かった。
そこには既に二人分のカップが用意されていた。

(待っててくれたんだ……)

花梨の顔に笑みが広がる。
今日ここに来ることは、泰継には昨日電話で告げておいたのだが、何時になるか分からなかったので、彼には「午前中に行く」としか言っていなかったのだ。それなのに、泰継がお茶の準備をして自分の訪れを待っていてくれたことが、とても嬉しい。京では彼の訪れを待っていたのは自分のほうだったから、何だか新鮮な気分だ。
ティーバッグの紅茶を入れ、慣れた手付きでポットの湯をカップに注ぐ泰継を見て、花梨は満面の笑みになった。
泰継がこちらの世界に来て一ヶ月半程なのだが、その間に彼は様々な事を覚えていった。元々好奇心旺盛な性格の上、飲み込みが早いということもあり、既に日常生活では不便はないようだ。

「それより、なぜ家を出る前に電話して来なかったのだ?」
「え?」
紅茶を入れた二つのカップを盆に載せながら問い掛けてきた泰継に、花梨は思わず問い返してしまう。きょとんとした表情を浮かべた花梨に、泰継は小さく溜息を吐いた。
「電話して来れば駅まで迎えに行くと、いつも言っているだろう」
「だって、歩いて十分もかからない距離だもの。夜ならともかく、昼間なら一人で大丈夫ですよ。わざわざ迎えに来てもらうのも泰継さんに悪いし……」
泰明と泰継の住むマンションがある地域は、確かに昼間も人通りが多いとは言えないが、そんなに心配されるほどではない。泰明の神子、あかねがここを訪ねて来る時も一人でやって来ることを、花梨は知っていた。

(泰継さんって、意外と心配性なんだ)

泰継の意外な一面を知ったようで、花梨は嬉しく思った。自然と笑みが零れる。
そんな花梨の様子に、泰継は僅かに顔を顰めた。しかしすぐに真顔に戻ると、花梨に告げた。
「私がそうしたいと言っているのだ。迷惑などではない。何処の世界にいようと、お前を守ることは私の望みなのだから」
その言葉を聞いた花梨は頬を紅潮させた。
この人は、時々こちらが赤面してしまうような事を平気で口にする。しかも、言った本人には全くその自覚がない。彼からすれば、思った事を言葉にしているだけなのだ。
そう言われて嬉しくない訳ではないのだが、恥ずかしがり屋の花梨は嬉しいと思うよりも先に恥ずかしいと思ってしまう。
「……花梨? 分かったのか?」
顔を赤らめたまま黙り込んでしまった花梨に、泰継が問い掛ける。
花梨を見据える琥珀色の瞳が「どうなのだ?」と問うている。その強い視線から目を逸らすことができないまま、花梨はこくりと頷いた。
「ならば良い」
花梨の了解を得た泰継が、ふわりと微笑んだ。
その微笑みは、先刻までの少し不機嫌とも取れる無表情を一変させる。柔らかいその微笑みに、花梨の目は釘付けとなった。
「行くぞ」
カップを載せた盆を手にリビングへと促す仕草を見せる泰継に我に返った花梨は、慌てて泰継の跡を追ってリビングに戻った。



「その花は? 京では見たことがない花だな」
ソファに腰掛け、ガラステーブルの上に置いた新聞紙の包みを広げる花梨に、包みの中身を見た泰継が問い掛けた。
「この花はコスモスって言うんです。漢字では『秋桜』と書くんですよ」
「『秋の桜』、か……」
花梨の説明を聞いた泰継は、テーブルに広げられた新聞紙の上の初めて見る花を観察した。薄紅色と、深紅色、そして白い花の三種類があるようだ。花弁の数は桜より多いようだが、なるほど、少しだけ桜に似たところのある花である。
「うちの庭に植えてあるのが咲いたんです。お花を飾れば、少しでも心が和むかなと思って持って来ました」

――この部屋、殺風景だから……。

そう言いながら、花梨は花瓶に花を挿していく。
男世帯はとかく殺風景なものだが、泰明と泰継の二人の場合、自分たちが必要と思う物しか置かないため、とにかく物が少ない。そのため、部屋に入っても人が生活している感じが余りしないのだ。あかねもその事には気付いていたらしく、泰明がここで独り暮らしを始めた頃から、何かと物を持ち込んでは普通の家らしく見えるようにしていたらしい。
花梨が今使っている透明なガラスの花瓶も、実はあかねが持って来たものなのだという。花瓶はあっても花ばさみはないだろうと予想した花梨は、花ばさみ持参でやって来たのだった。
花瓶の高さに合わせて一本一本丁寧に切りながら、花瓶に挿してみては少し離れて全体のバランスを見ながら整えて行く。
考え込む表情になったり笑顔になったりしながら作業を進める花梨を、泰継は眩しげに目を細めて見つめていた。

「ほら、綺麗でしょう?」
出来上がった花瓶をテーブルの中央に置きながら、花梨は泰継に視線を移した。
「花を生けておくだけで、部屋が明るくなった気がしませんか?」
花瓶に挿した花を整えながら問い掛けると、泰継は微かに口元を綻ばせた。
「そうかもしれないな」
その答えに花梨が嬉しそうな笑みを浮かべた。
「だが……」
泰継が続けて何か言いかける。花梨は笑みを消し、彼のほうを見た。訝しげな花梨の表情を見て、泰継は微笑みを向けた。
「花などなくとも、お前がいるだけで部屋の中が明るくなる」
柔らかな微笑みを浮かべた美しい顔を直視できず、花梨は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

(や、泰継さんって……)

――それは立派な口説き文句ではないだろうか……。
彼が無意識に言っているのは分かっているのだが、それだけに始末が悪い。花梨は早鐘を打つ鼓動を何とか抑えようと、俯いたまま胸に手を当て、深呼吸してみた。
その様子を見ていた泰継が訝しげな視線を向けているのを感じたが、花梨の予想に反し彼は何も言わなかった。
やがて泰継がソファから立ち上がり、再びキッチンのほうへ足を向ける。それを感じた花梨は顔を上げた。まもなくキッチンから水音が聞こえて来た。
しばらくしてリビングに戻って来た泰継の手には、水を入れたグラスがあった。ジュースなどを入れるための、少し背が高めの脚の無いグラスである。
それを静かにテーブルの上に置いた泰継に、花梨は不思議そうな視線を向けた。その視線を真っ直ぐに捉えた泰継は、口元に微かな笑みを浮かべて言った。
「一本、貰うぞ」
花梨が生けた花瓶から薄紅色の秋桜の花を一本だけ抜き取り、花梨が持って来た花ばさみでグラスの高さに合う長さに茎を切ると、それをグラスに入れる。
「どうするんですか、それ?」
泰継の意図を図りかね、花梨は小首を傾げながら訊ねた。
泰継はグラスを手に持ち、愛しげに薄紅色の花を見つめている。
「もちろん、私の部屋に置くのだ。お前が持って来てくれたものなのだから」
リビングは泰明と共同の居住空間だが、彼らの部屋はそれぞれの個人スペースであり、お互いに干渉することはない。せっかく花梨が持ってきてくれた花なのだから、共同スペースだけに飾るのは勿体無いような気がしたのだ。
「それに、この花には僅かだがお前の気が移っているようだ。枕元に置いておけば良く眠れるだろう」
言いながら泰継は立ち上がり、自分の部屋へと足を向ける。またもや頬を紅潮させて呆然とその背中を見送った花梨は、ドアを開ける音に我に返り、泰継の跡を追った。


花梨が部屋に入ると、泰継はベッドのすぐ横に置いたサイドテーブルにグラスを置いているところだった。
花梨が泰継の部屋に入ったのは、この世界で彼に再会して初めてこのマンションに案内された日以来、二度目である。そのため、つい部屋の中を見回してしまう。
ベッドとサイドテーブル、それに机と椅子がある以外には家具は無く、元々広めの部屋が余計に広く見える。ドアを入って左側の壁面は、作り付けのクローゼットと本棚になっていた。
主の性格を表しているかのように、余計な物が一切無い小奇麗な部屋である。余りにも泰継らしい部屋の様子に、初めて部屋を見せてもらった時、花梨は思わず苦笑してしまったくらいだ。
開け放した大きな窓が、秋独特の高い蒼穹を切り取っている。そこから心地良い風が部屋の中に入って来て、薄いベージュ色のカーテンを揺らせていた。室内の気が澱むことを嫌う泰継は、窓を開け放していることが多いのだ。
ふと、花梨は机の上に置かれた紙が風に煽られてパタパタと音をさせているのに気付き、机に近付いた。
そこに置かれていたのは、墨で何かが書かれているらしい、重ねたまま四つ折りにされた数枚の料紙と、京にいた頃、物忌みが来るたびに花梨も出していた結び文だった。
この世界に来てから、早くこちらの世界に慣れるために、呪符を書く時以外、泰継がなるべく筆を使わないようにしていることを花梨は知っていた。この文は泰継が書いたものなのだろうか。
「花梨、どうした?」
入り口から真っ直ぐに机のほうに歩み寄った花梨に、泰継が声を掛けた。
「泰継さん。これ……」
文を指差し、花梨が口を開く。
「ああ……」
花梨が指差しているものを見て、泰継は彼女が言わんとしている事を察した。
「それは、幸鷹の文だ」
花梨のほうに歩み寄りながら、泰継は答えた。
「こちらに来る前、神泉苑で幸鷹から預かったのだ。この世界にいる実の両親に渡して欲しいと……」
花梨は驚いて、傍らに立つ泰継を見上げた。

八葉の一人、天の白虎、藤原幸鷹は、龍神の神子として京に召喚された花梨より数年前に、この世界から召喚された。京の人間として生きて行くために記憶操作をされていた幸鷹が本来の記憶を取り戻したのは、同じ世界の人間である花梨と出逢ったからであった。
しかし、彼が異世界の人間である事は、他の八葉たちも誰一人として知る者はなかった。親戚に当たると言っていた紫姫や深苑さえ、全く知らないようだった。だから、幸鷹の秘密を知っているのは、彼の京での育ての親と自分だけだと花梨は思っていたのだ。

「……泰継さん、知ってたんですか? 幸鷹さんがこの世界の人だって……」
花梨の大きく見開かれた緑色の瞳が、真っ直ぐに泰継の琥珀色の瞳を見つめた。
花梨の問いに、泰継は頷いた。
「右大臣に依頼されて、京に迷い込んだ幸鷹にまじないをかけたのは、安倍家の当主と私だ」
泰継の答えに花梨は驚愕した。
そう言えば、本来の記憶を取り戻した時、「まじないが解けた」と幸鷹は言っていた。そのまじないを施したのが泰継だと言うのか――…。
「まじないが解けた後、幸鷹が安倍家に私を訪ねて来て告げたのだ。『本当の記憶を取り戻した』と……」


『誰が、というのは推測はできます』

まじないが解けた時、幸鷹はそう言っていた。恐らく彼には分かっていたのだろう。彼の両親が安倍家に記憶操作のまじないを依頼したことも、そしてそのまじないを施したのが、同じ八葉である泰継だという事も。そのような術を施せる人間は、安倍家と言えどもそう何人もいないだろうから。


「そうだったの……」
花梨は机の上の結び文に視線を落とした。
微かに侍従の香りがするような気がするのは気のせいだろうか。
――侍従……。
幸鷹が好んで付けていた香り……。

文を見つめたまま黙り込んでしまった花梨を見て、泰継はその秀麗な顔を曇らせた。

二人の間に沈黙が流れる。
窓から入ってきた風が、カーテンと幸鷹の文を微かに揺らせた。



少し長めの前髪が穏やかな秋風に撫でられ、長い睫に被さるように揺れていた。
泰継はそれを払おうともせず、ゆっくりと目を伏せた。いつの間にか、無意識に両手で拳を作っていた。
偽りの記憶に塗り替えるまじないを幸鷹に施すこと――。
それは、あるべき姿を歪める、言わば理に逆らう行為であった。そのため、いつかまじないが解ける日が来るであろうことは、最初から分かっていたことだったのだ。それでも安倍家がその依頼を受諾したのは、右大臣の達ての願いだったからだ。幸鷹が京の者とは異なる気を纏っており、しかも記憶に混乱を来たしていたため、そのほうが彼にとっても良い事だと判断したというのも受諾した理由の一つだったのだろう。彼が京に存在すること自体が既に理を乱すことであったから。
それ故、幸鷹にまじないを施したことは、泰継にとっては依頼された仕事をこなしただけという認識だった。少なくとも、花梨と共にこの世界に来るまでは。
こちらの世界に来るにあたり、泰継は龍神からこの世界で生きていくための最低限の知識と、この世界で生まれ育った人間としての作られた記憶を与えられた。もちろん、これまでの京での記憶を残した上でのことである。
その事に関して不快感がなかったと言えば嘘になるかもしれない。だが、花梨と共に在るためならば、その程度の事は些細な事だった。それに、この世界で生きて行くのにその記憶が役に立っているのも事実である。泰継が感じたのはむしろ違和感であった。確かに記憶にはあるのに、まるで書物を読んでいるかのような感覚があるのだ。
龍神により作られた記憶を与えられた泰継は、自ずと幸鷹のことを考えることとなった。
自分が施したまじないにより偽りの記憶を与えられた幸鷹――。
彼はその記憶をどのように感じていたのだろうか。
そして、そのようなまじないを依頼した両親と実際にそれを施した自分のことを、どのように考えているのだろうか。
おかしなものだ。生まれてから九十年もの間、他人が自分をどのように見ているかなど気にしたことなど無かったというのに。これも人になったせいなのだろうか。
まじないを解いたのが花梨であったという事実も、泰継に複雑な感情を与えた。
花梨は自分のことを、どのように思っているのだろうか。
請われて行った仕事とは言え、他人のあるべき姿を歪めた自分を……。
答えを聞くのが怖いと思う反面、答えが知りたいと思ってしまうという矛盾した思いがあった。


「……お前は、私を軽蔑するだろうか? 幸鷹のあるべき姿を歪めた私を……」
ぽつりと泰継が漏らした呟きに、花梨は弾かれたように彼の方を見た。
苦しげな表情を浮かべた美しい顔を見て、花梨は目を瞠った。
「どうしてそんなこと…!」
泰継のほうに向き直り、花梨は声を上げた。
「泰継さんは、幸鷹さんのお父さんとお母さんに頼まれただけなんでしょう? 幸鷹さんのご両親だって、幸鷹さんのことを思ってそうしただけだもの。誰も悪くなんかないよ。幸鷹さんだってそう言っていたし……」
花梨は再び文に視線を向けた。
「それに私、幸鷹さんのお父さんとお母さんの気持ち、分かるの……」
花梨の言葉に泰継が目を瞠る。

本当の記憶を取り戻した後、二つの世界の間に挟まれて幸鷹がどれほど苦しんだか、花梨は知っていた。
元の世界に帰れば、京で自分を拾い育ててくれた藤原の両親を裏切り傷付けることになる。しかし京に残れば、元の世界で行方不明となった彼を探し、その帰りを信じて待っているであろう実の両親を悲しませることになる。
元の世界の記憶を持ったままでいては、二つの世界の間に挟まれ、幸鷹はずっと苦しむ事になっただろう。
彼の両親が安倍家にまじないを依頼したのは、突然異世界に放り出された幸鷹が、そのような苦しみを味わう事がないようにとの配慮があったのではないだろうか。
確かに、子供がいなかった右大臣の正妻が、子供欲しさに記憶に混乱を来たしていた幸鷹を利用したと見る事も出来るかもしれない。
でも、それは違うと花梨は思うのだ。
幸鷹を見ていれば、彼が両親に愛された子供であったことがよく分かるから。

「だから、誰も悪くないと思います」
花梨は泰継の右手を取り、ぎゅっと握り締めた。
泰継が驚きの表情を浮かべている。そこには既に先程の苦しげな表情はなかった。

(良かった……)

花梨はホッと息を吐いた。


『お前は、私を軽蔑するだろうか?』

さっきの泰継の言葉――。
以前の泰継なら、絶対言わなかった言葉だと花梨は思う。
請われてこなした仕事だと、以前の彼ならそう言ったはずだ。
彼は今も変わりつつある。それがとても嬉しい。

なぜか嬉しそうな笑みを浮かべた花梨に、泰継が怪訝そうな視線を向けた。それに気付いた花梨は、慌てて握り締めていた泰継の手を放した。


「でも、その文、届けようにも幸鷹さんのご両親の住所が判らないんじゃ……」
「ああ。手掛かりを書き留めたものを、幸鷹からその文と共に渡されていたのだ」
泰継は結び文の下に置いてあった四つ折りされた料紙を手に取り、それを広げて花梨に見せた。
それは京で幸鷹が書いていた流れるような文字ではなく、花梨にも読める楷書で書かれていた。アルファベットで書かれている部分もある。この世界の者が見ることを見越してのことだろう。
花梨は泰継の手元を覗き込み、何が書いてあるのか確認した。そこに書かれていたのは、幸鷹の両親と兄弟の名前やアルファベットで書かれた外国の大学の名前らしきもの、雑誌と出版社の名前らしきもの、そして幸鷹が書いたという物理学の論文の題名などであった。それらには一つ一つ説明書きも添えられている。
「この世界のことは、私にはまだよく分からない。だから、こちらに来てしばらくして、あかねに調べてもらえないかと頼んであったのだ」

泰継のその言葉に、今度は花梨が顔を曇らせた。
泰継がこの世界に来たのは、花梨が京に召喚される一ヶ月ほど前のことである。花梨がこちらに戻ったのは、召喚された日、恐らく召喚された一瞬後だったのだと思う。花梨にしてみれば泰継とは帰ってすぐに再会したことになるのだが、泰継のほうは一ヶ月という時間を、既にこの世界で過ごしていたのだ。
その間に、早く幸鷹との約束を果たすため、こちらの世界に知人のいない泰継が泰明の元に出入りしていたあかねに調査を頼んだのは、ごく自然の成り行きだったのだろう。
それは花梨も理解しているつもりなのだが、理性と感情は別物だ。
彼が自分ではなくあかねを頼ったことが、なぜこんなに苦しくて悲しいのだろう。

(やだ。どうして私……)

視界がうっすらとぼやけていくのを感じ、花梨は慌てて両目を手で擦った。
泰継の気持ちを疑っている訳ではないというのに。
自分があかねに嫉妬していることに気付き、その考えを振り払うかのように、花梨は小さく頭を振った。

「今日あかねが結果を持って来てくれたのだ。実際に調べたのは天真らしいのだが……花梨、どうした?」
何かを振り払うかのように、ふるふると頭を振る花梨の仕草に気付き、手にしていた料紙を机に置いて泰継が訊ねる。
「あっ、何でもないです。ごめんなさい。それで、幸鷹さんのご両親は何処に?」
「…………」
笑顔を作って自分のほうを見る花梨を、泰継は無言で見つめた。彼女の笑顔が無理に作られたものであることに気が付いたのだ。

笑みを浮かべ、こちらを見つめる大きな緑色の瞳が潤んでいる。
花梨がいつも見せる、見る者の心を温かくする明るい笑顔ではなく、ぎこちなくどこか悲しげな笑顔――…。
花梨と出逢う前の泰継であれば、彼女が悲しげな表情を見せた理由が分からなかっただろう。
だが、今なら分かる。
それは、泰継自身にも覚えのある感情だったから。
物忌みの日の前夜、花梨が自分以外の者に文を送ろうとしていたことを知った時、生まれて初めて泰継が知った感情――…。
それは、『嫉妬』と言う名の感情だ。

「泰継さん…?」
無言のままじっとこちらを見つめている泰継に、花梨は笑みを消し、小首を傾げて問い掛けた。
己の迂闊さに唇を噛んだ泰継は、やがて小さく息を吐くと、ぽつりと呟いた。
「すまなかった」
突然の謝罪の言葉に驚いた花梨が目を見開く。
「お前に頼むべきだったのだな」
「そんな……」
言いかけた花梨を、泰継は手で制した。
「いや、私の落ち度だ。お前にそんな表情をさせるとは……」

――お前の悲しげな表情を見ると、胸が苦しくなるのだ……。

視線を逸らして泰継が呟く。無意識に右手で胸の辺りのシャツを掴んでいた。

「……じゃあ、しばらくの間、私の我が儘を聞いてくれますか?」
その言葉に泰継が花梨のほうを向くと、花梨はその華奢な身体を泰継に預けてきた。不意を衝かれた泰継は、少し上体をぐらつかせたが、すぐに体勢を立て直して花梨を抱き留めた。
「抱き締めていて下さい。少しの間でいいですから……」
泰継の胸に顔を埋め、小さな声で花梨が言った。それに応えるように泰継の腕が背中に回されるのを感じ、花梨はゆっくりと目を閉じた。

鼓動が聞こえる……。
こうして、泰継の腕の中で、微かに伝わって来る彼の鼓動を感じているのが、花梨は好きだった。
彼が今も自分の傍にいてくれることを感じられるから。
そして安心するのだ。
これからも、ずっと一緒にいられるのだと。

(もう、大丈夫……)

しばらくして、花梨は身体を起こして泰継の顔を仰ぎ見た。じっと花梨の様子を見守っていたらしい琥珀色の瞳と目が合った。背中に回されていた手がゆっくりと離れて行く。
「もう、大丈夫です。ありがとうございました」
ふわりと柔らかな笑みを浮かべて花梨が言った。
しかし、泰継は無言のまま、心配そうな表情で花梨を見つめていた。
それを見た花梨は慌てた。彼にそんな表情をさせるつもりではなかったのだ。
「泰継さんってば、もう大丈夫ですから。……そうだ。あかねちゃんに頼み事をして、泰明さんは大丈夫だったんですか?」
気遣わしげな表情を浮かべたままの泰継に、花梨は慌てて話題を変えようとして失敗する。「しまった!」と思い口に手をやったが、口にしてしまった言葉は元には戻らない。
花梨は恐る恐る泰継の顔を見た。
しかし……。
「ああ。そう言えば、一週間ほど泰明の機嫌が悪かったな……」
返って来た泰継の言葉に、花梨は瞬きを繰り返した後、思わず吹き出してしまった。
泰明の事は、京にいた頃、泰継から何度も聞かされていた。泰継と出自を同じくし、泰継よりも強い力を持つ陰陽師で先代の地の玄武であった人だと。
どんな人なのだろうと花梨も思っていたのだが、泰継から紹介された泰明は、泰継と同じ顔をした、しかも出逢った頃の泰継と似た雰囲気を持つ人物だった。
あかねの前以外ではあまり表情に変化のない泰明が…と思うと何だか可笑しくて、花梨はくすくすと声を上げて笑った。
花梨の笑顔を見て、泰継もようやく微笑みを浮かべる。
それを見て安心したのか、花梨も笑うのを止めて彼に微笑みかけた。


「じゃあ、幸鷹さんのご両親の住所が判ったんですね」
「ああ」
訊ねる花梨に、泰継は結び文の下から一枚のメモ用紙を取り出して、彼女に手渡した。
そこにはボールペンで殴り書きされた住所が記されていた。天真の文字だろう。
その住所を見て、花梨が驚きの声を上げた。
「泰継さん、これ…!」
弾かれたように顔を上げ、手にしたメモ用紙から視線を泰継に移した花梨に、彼はゆっくりと頷いた。
メモに書かれた住所の町名から、電車に乗れば此処から五つくらい先の駅が最寄り駅だろうと花梨は推測した。花梨の学校のある町の隣町だ。
「皆、龍神の力に引き寄せられているのやも知れぬな」
ぽつりと泰継が呟く。

――そうかもしれない……。

花梨は思う。
泰明と泰継も、あかねや天真、詩紋も、そして花梨自身も、同じ市内に住んでいる。
京に、そして龍神に関わりのある者がこれほど集うというのは、偶然ではないような気がした。実際に、泰明と泰継は、龍神に導かれて此処に居を構えているわけであるし……。

かさり、と小さな音を立てて、泰継が結び文を手に取った。その音に我に返り、花梨が泰継に訊ねる。
「今から届けに行きますか?」
今日は外出する約束をしていたわけではなかったから、時間はたっぷりある。それに同じ市内であれば、郵便で送るより直接届けに行ったほうが良いような気がした。

泰継は花梨の問い掛けには応えず、無言のままじっと手にした文を見つめていた。
もし、幸鷹の両親に会って彼からの文を渡し、彼の近況を伝えたとしても、一体誰が信じるというのだろう?
あなた方の息子は異世界で幸せに暮らしているのだと……。
幸鷹の両親に会うことで、花梨が面倒な事に巻き込まれるようなことにでもなれば一大事である。そんな事は幸鷹も望んではいないだろう。
取り敢えず、文を渡しさえすれば、幸鷹との約束は果たされる。
泰継は意を決した。

「泰継さん?」
黙り込んだまま考え事をしている泰継に、花梨が呼びかけた。
それには応えず、泰継は再び文を机の上に置き、式符を取り出した。短く呪を唱えると、それは白い小鳥に変わった。泰継が手を差し出すと、小鳥の姿をした式神は彼の人差し指に止まった。
「式神さんに届けてもらうんですか?」
彼の行動の意図を察し、花梨が訊ねる。
「ああ。取り敢えず、幸鷹の文だけ届けよう。もし、それを読んだ彼らがそれを信じ、さらに詳しい事情を知りたいと思うようであれば、その時に会えば良い」
泰継の言葉を聞き、花梨は彼の言わんとする事を察した。こくりと頷く。
それを見た泰継が文に手を伸ばすのを見つめていた花梨の目が、視界の隅にある物を捉えた。
サイドテーブルに置かれたグラスに生けられた薄紅色の秋桜の花――…。
それを見た花梨の頭に、ある考えが閃いた。

「泰継さん、ちょっと待って下さい!」
文を式神に咥えさせようとした泰継を慌てて制する。
訝しげな表情を浮かべる泰継に「ちょっと待ってて下さいね」と言うと、パタパタとスリッパで軽快な音を立てながら、花梨は泰継の部屋を出てリビングへ向かった。
しばらくして再び部屋に戻って来た花梨の手には、真っ白な秋桜の花が一本だけ握られていた。
「文には、やっぱり花を添えないとね」
言いながら、花梨は泰継の手から文を受け取り、文の結び目に秋桜を挿し込んだ。それを泰継に返すと、花梨は微笑んだ。
「そうだな」
その笑顔に、泰継も微笑みを返した。

「花梨」
式神に文を託した泰継は、花梨のほうに向き直った。
「何ですか?」
「お前の力を貸して欲しい」
「えっ?」
泰継の申し出に、花梨は驚いた。彼は今「力」と言う言葉を使ったが、こちらの世界に帰って来た花梨には、既に龍神の神子としての力はない。
「でも、私…もう何の力もないですよ?」
「祈って欲しい。この文が無事に届くように……」
泰継は空いていた右手で花梨の手を取った。
「此処は龍神に所縁ある地。お前が願えば、必ず叶うはずだから」
花梨の手を軽く握り締めながら泰継が言う。
泰継の琥珀色の瞳を見つめ返した花梨は、微笑みながら頷いた。自分に力があるとは思えないけれど、少しでも彼の役に立てるのなら、嬉しい。
花梨は両手を胸の前で組み合わせて目を閉じた。

(どうか、この文が幸鷹さんの家族の元に届きますように……)

この世界を捨てて京に残った幸鷹の願いを叶えるために、花梨は一心に祈った。
目を閉じて祈る花梨を確認すると、泰継は窓に向き直り、式神を空に放った。


「花梨」
名を呼ばれ、花梨は閉じていた目を開いて泰継のほうを見た。微笑みを浮かべ、泰継がこちらを見つめていた。
「ありがとう」
礼を言われると同時に、肩を抱き寄せられた。



窓辺で二人寄り添い、空を見上げる。

青く澄み切った高い空――…。
真っ白な小鳥の姿は既にない。

「ちゃんと届くかな?」
式神が飛び去った空を眺めながら、花梨が呟く。
「案ずるな。お前が祈ったのだ。無事に届くだろう」
泰継の言葉に花梨が満面の笑みを見せた。
その笑顔を目を細めて眩しげに見た後、泰継は再び視線を空に向けた。



「私は、幸せなのだな……」

ぽつりと泰継が呟くのが聞こえて来て、花梨は彼の顔を見た。
花梨の視線を感じた泰継が、視線を空から花梨のほうに戻す。

「幸鷹が言っていたのだ。どちらの世界の家族も自分の大切な家族なのだと。京も、そしてこの世界も、自分にとっては大切な故郷なのだと……」

そのどちらかを選ぶために、どれほど彼は苦しんだことだろう。
どちらも大切だからこそ……。


「私の大切なものはお前しかないから、迷う事もない……」


――だから、私は幸せだ……。


柔らかな微笑みを浮かべた端整な顔を見つめていた花梨は、泰継の言葉に頬を紅潮させる。真っ赤になった顔を見られるのが恥ずかしくて、彼の胸に顔を埋めた。

(でも、嬉しい……)

泰継の胸にしがみ付いた花梨は、彼の腕の中で笑みを零した。背中に回された腕に強く抱き締められるのを感じ、花梨は目を閉じた。




しがみ付いて来た華奢な身体を抱き寄せながら、泰継は思う。


大切なものは花梨しかないから……。

だから、何があってもこの手は離さない。


(お前は、誰にも渡さない……)


泰継は、花梨を抱き締める腕に力を込めた。




開け放した窓から入って来た風が、そっと触れるように二人の傍を過ぎて行った。







〜了〜


あ と が き
タイトルは幸鷹さんの象徴物から戴きました。
この話は、幸鷹さんの大切な恋イベントを初めて見た時に作った、現代に帰還した花梨ちゃんが幸鷹さんの手紙を家族の元へ届ける話が元ネタとなっています。その後で障害のある恋の第三段階のイベントを見たのですが、障害のある恋だと、花梨ちゃんは幸鷹さんにまじないを施したのが泰継さんだとは知らないし、幸鷹さんから家族に元気だと伝えて欲しいとも頼まれないのですよね。こちらのほうが設定としては面白そうだったので、最終戦後に泰継さんが幸鷹さんから手紙を預かったという設定で、話を焼き直しました。その過程で、幸鷹さんサイドの話と現代に帰って来た花梨ちゃんと泰継さんの話に分かれてしまったのですが……。障害のある恋を設定として使ったのは、うちの花梨ちゃんが帝側神子の設定だということもあります。イベントとしては、個人的には大切な恋イベントのほうが好きです。なんせ泰継さんが出て来ますし(笑)。
この話は「神子のお願い」に続きます。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!

【追記:2004.1.6】
この創作のイメージイラストを芙龍紫月様が描いて下さいました。こちらからどうぞ。
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