六花の伝言
桜―――……



京の町に、また桜の季節がやって来た。

昨年、貴族も庶民も花を楽しむ余裕など無かった京は、今年はいつにも増して明るい春を迎えていた。宮中ではすでに花宴が催され、一般の貴族たちも花見のために、次々と宇治などの桜の名所に繰り出している。

京には以前と変わらぬ、いや、これまで以上の平和が取り戻されていた。
それは、龍神の神子と八葉が、危機に瀕していた京を救ったからだ。

だが、そのことについて詳しく知るものは少なかった。

鬼の一族によって齎された京の危機を救うべく、異世界より龍神の神子が召喚されたのが、ちょうど昨年の桜の咲く季節のことであったことも―――。





◇ ◇ ◇





穏やかに晴れた春の日の午後―――


左大臣家の渡殿を渡って行く二つの人影があった。
昨年、龍神の神子と共に京を救った八葉のうち、白虎の加護を受けし者――天の白虎、藤原鷹通と地の白虎、橘友雅である。

「早いものだね。あれから、もう一年になるのか」
「ええ、本当に……」

桜の花を見ると思い出す。
あの朱鷺色の髪の少女――。

二人は、どちらからともなく立ち止まり、庭の桜の木々に目を遣った。
左大臣家の庭は、星の一族の血を引く愛らしい姫君の名前の由来ともなった、その見事な藤棚の所為か、藤の名所として知られているが、桜も捨てたものではない。
ちょうど満開の時期を迎えた桜の花は、穏やかな春風に煽られて、一枚、また一枚と、五弁の花弁を散らせていた。
鷹通と友雅は、言葉もなくその様を眺めていた。


龍神の神子、元宮あかねが、その友人であり彼女を守る八葉でもあった森村天真と流山詩紋と共に、この京に召喚されたのは、昨年の今日のことであった。
龍神の神子としての役目を果たす間に、あかねは自分を守護する八葉の一人と心を通わせるようになった。
―――地の玄武、安倍泰明である。
鬼を退け、京を守りきった後、泰明は自分の世界に帰るあかねと共に、異世界へと旅立っていった。行方不明となっていた妹を取り戻した天真、詩紋も共に。
昨年の夏の終わりのことであった。

役目を終えた八葉たちは、元の生活に戻っていった。それに伴って、それまで通い詰めていたこの邸からも足は遠退き、八葉同士が会うことも稀になっていた。特に庶民であるイノリなどは、あれ以来、貴族である友雅たちとはほとんど会っていない。
しかし、今日は久しぶりに八葉が此処、左大臣邸で一堂に会することになっている。
折角の桜の花開く時期である。ちょうど一年前の桜の季節に京にやって来た龍神の神子を偲んで、京にいる八葉全員で花宴でも開こうという藤姫の呼びかけに、元八葉たちが応えたのだ。

――ほとんど一年ぶりに会う人物もいる。近況を伝え合うのもいいだろう。

そう思った友雅は、午前中に出仕を終え、同じく大内裏に出仕していた鷹通と連れ立って、この邸にやって来たのだった。


近頃ようやく暖かくなってきた風が、庭を眺める二人の髪を優しく梳くように靡かせた。
風が木々を揺らして立てる音に紛れて、釣殿の辺りから花宴の準備に勤しむ女房たちの声が聞こえて来る。
その声を辿るように、風上に視線を向けようとした友雅の視界に、庭の片隅に立つ狩衣を纏った一人の男の姿が映った。その男は満開の桜の木の下に佇み、じっと桜の花を見上げている。遠目ではあったが、彼は桜の花を観賞しながら、物思いに沈んでいるように見えた。
(おや? あれは、もしや……)
男は友雅たちが立っている場所からかなり離れた場所に背を向けて立っているため、顔を確認することは出来なかった。しかし、友雅は背筋を真っ直ぐに伸ばしたその立ち姿に見覚えがあったのだ。それに、八葉の務めでこの邸に出入りしていた頃は、此処で彼の姿を見かけたことはなかったが、左大臣が以前から彼を重用していることは、周知の事実であった。
「鷹通……」
傍らに立つ鷹通に声を掛け、庭の別方向に向けられていた彼の視線を自分に向けさせると、男が立っている方に無言のまま顔を向ける。すると、男の姿を確認した鷹通が「あっ」という表情を見せた。恐らく、鷹通も友雅と同じ人物を思い浮かべたのだろう。
友雅が目配せすると、それだけで彼の意図は鷹通に通じたようだ。
二人は互いに頷き合うと、男が立っている庭に向けて歩を進め始めた。




「これは、左近衛権中将殿に治部大丞殿ではございませぬか」

男が立っている位置から真正面に当たる場所で二人が立ち止ると、既に気配を感じていたらしい男が振り返り、簀子上から自分を見つめる二人に、そう声を掛けて来た。

「やはり、貴方でしたか。安倍晴明殿」

友雅がそう応じると、晴明は微かに笑ったようだ。
彼の背後で、桜の木が風に揺さぶられて、薄紅色の花弁を舞わせている。
はらはらと舞い落ちる花弁の下で、春の陽光を浴びながら微笑みを浮かべる稀代の陰陽師の姿は、この世のものならぬ美しいものに思えた。

(相変わらず不思議な方だ……)

友雅はそう思う。
陰陽師という生業の所為か、どことなく神秘的な雰囲気を纏っているのは、彼の愛弟子であった男も同様であった。しかし、晴明の場合、また別の神秘性が備わっているように思えるのだ。
それは、彼が持つ人並み外れた能力が醸し出す雰囲気だけではなく、彼の見かけの若さにあった。既に老年に達していると思われる年齢でありながら、不思議な事にまだ壮齢にしか見えないのである。
口さがない人々の中には、晴明が左大臣に重用されていることに対する妬みからか、晴明のことを狐の子と噂する者もいるくらいである。しかし、そうした噂も、稀代の陰陽師の神秘性を際立たせる要因の一つにしかならないのであった。


「晴明殿も、本日の花宴に招かれておいでだったのですか?」
鷹通が訊ねた。
晴明は、神子と共に彼女の世界に旅立った泰明の師であり、父親代わりとも言うべき人物である。八葉が集う花宴に、泰明の代理で左大臣に重用されている彼が招待されていてもおかしくないように思えたのだ。
しかし、鷹通の問い掛けに、晴明は首を横に振った。
「いいえ。私は左大臣様の御用で土御門に参ったのです」
どうやら晴明は仕事で此処に来たらしい。
「用が済んだので、帰ろうかと思ったのですが……」
そう話しながら、晴明は背後の桜の木を振り返った。

「――桜に、呼ばれたのです」

晴明の言葉に、友雅と鷹通は揃って目を瞠った。

「桜に……?」
「ええ」

桜の木を見上げながら、晴明は短く答えを返した。

(“桜に呼ばれた”とは、どういうことなのか――…)
(なんと不思議な……。そう言えば、泰明殿も木と話が出来ると神子殿が仰っていた。彼の師であれば、当然の事か……)

友雅と鷹通は、それぞれに心の中で、晴明の不可思議な言葉について考えた。得られた結論は、共に、『稀代の陰陽師であれば、その様な事もあり得るのだろう』というものだったのだが――。

「この屋敷も、龍神の神子が滞在したことがある所為か、神泉苑の如く、龍神に所縁ある場所のようですな」

二人の沈黙をどう受け取ったのか、晴明は視線を桜に向けたまま、独り言のように呟いた。
確かにこの庭は、龍神の神子、元宮あかねが京にいた頃、彼女にあてがわれていた室が在った、東対に付属する庭である。龍神の神子が京を去った後も、此処にはまだ龍神の力の名残でもあるということなのだろうか。
訝しげな表情を見せた白虎の加護を受ける八葉二人の目の前で、晴明が桜の幹に掌を当てる。

その瞬間――…


―――…シャン……


何処からか、鈴の音が聞こえた。

「今の鈴の音は……」
「君にも聞こえたかい? どうやら、龍神の鈴の音のようだね」

もう聞くことはないと思っていた鈴の音に驚き、また、訝しみながら、鷹通と友雅は言葉を交わした。
一年前のあの日、神子は役目を終えて元の世界に帰り、同じく役目を終えた八葉たちも以前の生活に戻っている。今更、何のために龍神が降臨して来たのかが判らなかったのだ。
ただ、先程の晴明の言葉から、龍神が用があるのは恐らく晴明なのであろうことが推測出来た。晴明は雨乞いの儀式である五龍祭を執り行ったことがある。そして、雨を司るのは京の守護神である龍神だ。神子や八葉とは別の意味で、晴明と龍神に接点があってもおかしくはないと思われた。
互いに顔を見合わせた友雅と鷹通は、相手の表情から自分と同じ事を考えていることを悟り、視線を桜の木の前の晴明に戻した。

吹き抜ける風が、薄紅色の花弁を散らせた。





◇ ◇ ◇





木の幹に掌を当て、自分を呼び止めた桜に語り掛けようとした晴明は、予想通りの声を聞くこととなった。


―――晴明――…。

その声は耳で捉えているものではなく、頭に直接響くものであった。

(やはり、私を呼んだのは貴方でしたか、龍神……)

呼び掛けて来た声に、声には出さず思念という形で応えた晴明は、口端に薄っすらと笑みを浮かべた。
左大臣の呼び出しを受けてこの土御門殿を訪れることが多い晴明だが、いつも寝殿の庇に通されるため、この東対に足を運ぶことはなかった。しかし、寝殿の簀子縁から遠く眺めることが出来るこの庭には、以前から何かを感じていたのだ。悪いものではないようだったので、それを今まで左大臣に告げたことはなかった。
それが、今日、土御門殿を辞そうとした晴明の目の前に一枚の桜の花弁が舞い落ちて来たのだが、その花弁に違和感を覚えた晴明が掌で受け止めたところ、花弁を通して東対の庭に植えられた桜の木に宿る木霊が「此方に来るように…」と語り掛けて来たのである。
東対の庭に初めて足を踏み入れた晴明の目には、この桜の木が周囲の桜とは明らかに違っているように見えていた。常人の目には、恐らく周囲の木々と何等違いはないように見えただろう。しかし、陰陽師として常人に見えざるものを視る目を養っている晴明には、この木に宿る木霊の存在が見えていた。通常であれば、樹齢数百年を経た古木にしか宿ることのない、強い力を持つ木霊が、この桜の木には宿っていたのだ。
神子という、この世界との媒介を失った龍神は、どうやらこの木霊の力を借りて、晴明に話し掛けて来たらしい。

(それで、私に何用でしょうか)

晴明が問う。
一年前の今日、龍神の神子がこの京に召喚された。その特別な日にわざわざ媒介を使ってまで声を掛けて来たのだから、恐らく龍神の神子に関する事か、それとも、彼女と共に異世界へと旅立った愛弟子に関する事か――…。
ふっ、と晴明が笑みを漏らす。

――泰明は息災でいるのだろうか。

神子と想いを交わし、見知らぬ世界へと旅立った愛弟子の事を思う。
その特異な出生故に、感情を持たなかった泰明。そんな彼が神子と出逢い、想い、想われるということを知った。幸せを知らぬ泰明に、神子が幸せを齎してくれたのだ。
異世界へと旅立つ日の前日、神子と共に晴明の元に別れの挨拶に訪れた泰明は、彼が生まれてからずっと見守って来た晴明が終ぞ見たことのなかった、幸せそうな微笑みを浮かべていた。

――神子殿と二人、幸せでおれば良いのだが……。

まだ人の心の機微に疎い泰明の事だから、神子と些細な喧嘩はするかも知れない。しかし、彼らが龍神でさえ引き裂くことの出来なかった強い絆で結ばれていることを、晴明は知っていた。大丈夫と思いつつ、余計な心配をしてしまうのは、晴明が泰明を実の息子同然に慈しんできたからだった。


晴明の問い掛けに、龍神は一言だけの短い答えを返した。


―――我が神子の願いだ――…。


(神子殿の願い……?)

訝しむ晴明の脳裏に、突然、此処ではない、何処かの光景が映し出された。一瞬、目が眩んだ晴明は、思わず目を閉じていた。幹に当てた手に力を込め、身体がふら付かないよう支える。
そこは、ある神社の境内のようだった。その場所を、俯瞰する形で見ている。
これは恐らく、龍神の視点なのだろう。
神域の木々に薄っすらと雪が積もっていることから考えると、季節は冬――。此処は少なくとも現在の京ではないようだ。


『――せめて、晴明様に、“今とても幸せだ”って、伝えられたら良いのに……』


不意に、晴明の脳裏に誰かの声が響いた。その声に、晴明は聞き覚えがあった。

(今のは、神子殿の声……?)

突然聞こえて来た声に驚いた晴明は、参道を進んだ先に、小さな人影を確認する。
それは、一組の男女の後ろ姿だった。彼らが着ている衣から、やはり此処は京ではないことが判る。

(これは、神子殿の世界、か――?)

晴明がそう推測した時――…


―――…シャン……


再び、龍神の鈴の音が鳴り響く。

それと同時に、映像が急速に境内の人影に近付いて行く。
男が振り向き、傍らの少女を背後に庇う仕草を見せた。険しい表情で、此方を睨んでいる。

(――泰明――…!)

鋭い視線を此方に向けているのは、紛れも無く、あの日、神子と共に異世界へと渡った愛弟子の泰明だった。
晴明の気配に気付いた泰明が、大きく目を見開いた。ゆっくりとした動作で、神子を庇う姿勢を解く。
神子が隣に並び声を掛けるが、その事にも気が付かないように、泰明は呆然と此方を見つめている。

――嗚呼、泰明は幸せなのだな……。

晴明はそう確信する。
言葉を交わさずとも、泰明が異世界で神子と共に幸せに過ごしていることが伝わって来る。

(――龍神…。そして、桜よ…。暫し力を貸してくれ……)

幹に触れた掌を通じて桜の木に宿る木霊に呼び掛けながら、晴明は空いた左手で印を結び、呪を唱え始めた。


神子の声に応え、龍神が繋いだ時空――。
今のうちに、もう一度、泰明に伝えたいと思った。

自分が、この京から、いつも二人の幸せを祈っていることを――。





◇ ◇ ◇





風に乗って、薄紅色の花弁が空を舞っている。


桜の幹に手を当てたまま目を閉じた晴明を、鷹通と友雅は簀子縁の上からじっと見つめていた。

――と、そこに、バタバタと元気な足音を立てながら、二人に近付いて来る者があった。

「おーい! 鷹通、友雅! そんな所で何やってんだ? 宴の場所はあっちだろ?」

声の主は、その姿を確かめるまでもない。天の朱雀、イノリである。
簀子縁を走って来るイノリを同時に見遣った白虎の八葉は、揃って口元に人差し指を当て、無言のまま静かにするようにと告げる。
「なんだぁ?」、と聞こえて来そうな表情を浮かべたイノリに苦笑した鷹通と友雅は、イノリの背後から静かに近付いて来た人物に軽く会釈をした。
「お久しゅうございます、鷹通殿。友雅殿とは先月内裏でお会いしましたが、一月ぶりになるでしょうか。お二人ともご健勝のようで何よりです」
丁寧な口調で話し掛けて来たのは、永泉だ。
鷹通と永泉が互いに挨拶し合っている間に、武士団の方から頼久が庭を横切り此方にやって来る。
「お久しぶりでございます」
簀子縁に居並ぶ四人の八葉に丁寧に頭を下げると、頼久は桜の木の下に佇む人物に目を遣った。彼の視線を追うように、全員がその人物に注目する。
「あちらにいらっしゃるのは、安倍晴明殿ですね…」
「安倍晴明っていうと、泰明の師匠の…か?」
永泉の呟きにイノリが反応する。稀代の陰陽師、安倍晴明の名は、大内裏に勤める貴族の間だけではなく、京の庶民の間にも広く知れ渡っている。
それだけでなく、同じ八葉であった泰明の師匠に当たる人物だ。鍛冶師見習いとして鍛冶師である師匠の元で修業しているイノリには、会ったことがない人物でありながら何故か親しみを覚える人物であった。恐らく、泰明が晴明を思う気持ちは、自分が師匠に対して持っているものと同じなのだろう――そう思えたからである。

「何をしていらっしゃるのでしょう……」

永泉の疑問に鷹通と友雅が口を開こうとした、その時――…


―――…シャン……


再び、龍神の鈴の音が鳴り響く。

「これは、龍神の……」
気に敏い永泉が、龍神の神気を感じ取って呟いた。
五人の八葉が互いに顔を見合わせ、呪を唱え始めた晴明に視線を戻すと、そこには信じられない光景があった。

晴明が掌を触れた桜の木――。
風に煽られ、その木の枝から舞い落ちた花弁が、地面に辿り着くことなく、次々と空に吸い込まれるように消えて行くのだ。

「な…っ…」

声にならない声を上げて、イノリが息を呑んだ。
八葉の務めの間に、随分と奇怪な現象にも慣れたつもりでいたが、鬼の一族を退けて以来、このような不可思議な現象を目の当たりにすることはなくなっていたのである。

「これは、晴明殿のお力か。それとも龍神が……?」
「恐らく、そのどちらでもあるのでしょう」
頼久が思わず漏らした言葉に、鷹通が答えた。

「おい、あれっ! 見ろよ!」

イノリが声を上げる。
そこにいる全員が目撃したもの――。
それは、空から舞い落ちる、白銀に輝く花弁のような雪だったのだ。

――どうして、桜の季節を迎えた京に、雪が……。

誰もがそう考えた時、永泉が口を開いた。

「これは、泰明殿の気…。泰明殿なのですね!?」

小さな呟きが、彼にしては珍しく、次第に叫び声に近い大きな声となっていた。
八葉たちの視線が永泉に集まった。
「永泉様。今、泰明殿の気と仰いましたか?」
「はい。間違いありません。泰明殿は私と共に玄武の加護を受けし八葉――。龍神の神気の他に、確かにあの方の気を感じるのです」
永泉は、稀代の陰陽師、安倍晴明の愛弟子であった泰明をも凌ぐ、八葉随一の霊力を持つ。その永泉が自分の対であった泰明の気を読み違えるはずがない。
「それでは、この雪は、神子殿の世界のものなのでしょうか」
「そうかもしれないね。龍神が、晴明殿と泰明殿の――いや、もしかしたら神子殿の願いを叶え、京と向こうの世界を一時的に繋いだ、というところだろうか」
友雅の推測に、全員が頷いた。
「じゃあ、こっちの桜の花弁を、向こうの世界で、今、あかねと泰明も見ているってことなのか?」
「恐らくね……」
イノリの疑問にそう答え、ふふ、と友雅が笑う。
恐らく、晴明と泰明の師弟に龍神が力を貸し、晴明が京の桜を神子の世界に、それに応えて泰明が神子の世界に降る雪を京に、それぞれに送ったのだろう。

「まさか、花の季節に氷の華が見られるとは、思いもよらなかったよ。泰明殿も、雅というものを解するようになったのかな」

――だとしたら、神子殿のおかげかな?

そう言って友雅は笑った。


「なんと美しいのでしょう……」

感嘆の声を上げた永泉の言葉を最後に、京に生きる八葉たちは暫し無言のまま、薄紅と白銀の二種類の花弁が織り成すその美しい光景を眺めていた。
そして、異世界で暮らす神子と泰明の幸せを祈った。
頼久とイノリは、それぞれに対の八葉であった天真と詩紋のことを思いながら、彼らの幸せも祈る。
生きる世界が分かたれても、自分たちはいつまでも仲間だ。
神子と共に京を救った、かけがえのない――…。


やがて、二種類の花弁の競演にも終幕が訪れる。
八葉たちが見守る中、晴明が桜の幹から手を離し、両手で印を組み替える。
すると、それまで桜の花弁と共に舞い落ちていた雪の姿がどんどん薄くなっていく。そして、呪を紡ぐ晴明の声が途絶えた時には、すでに空を舞っているのは薄紅色の桜の花弁だけとなっていた。

暫くの間、誰も言葉を発しなかった。
ただ、先程の得も言われぬ程に美しい情景の余韻に浸っていた。

晴明は、鷹通と友雅が渡殿から彼の姿を見かけた時と同様に、無言のまま満開の桜を見上げている。
その横顔には優しく、そして満足げな表情が浮かんでいる。
しかし、その表情には少しの淋しさが混じっていることも見て取れた。
恐らく、異世界で暮らす愛弟子に思いを馳せているのだろう。

それを悟った友雅は、晴明を一人にした方が良いと考え、皆を促した。

「さあ、藤姫が待ちかねているだろう。行こうか」
「そうですね。参りましょう」
友雅の意図を察した永泉が同意する。


「――八葉の皆様――…」

踵を返し、釣殿に足を向けた五人の背中に、声が掛けられた。
五人が振り返ると、晴明がこちらを向いていた。彼の背後では、穏やかな風を受けて桜が花弁を散らせている。

「有難うございました」

五人に向かって晴明が頭を下げる。
何故彼が礼を言うのか解らなかった八葉たちは、互いの顔を見合わせている。
そんな愛弟子の仲間たちを見た晴明は、微笑みを浮かべた。

「皆様が神子殿と泰明の幸せを祈って下さったこと、きっと向こうの世界にも伝わっておりましょう」

言いながら、晴明は空を見上げた。先程まで舞っていた白銀の雪花の姿はそこにはない。

「――泰明は、良い仲間を持ったのですな。あれは、果報者です」

そう話す晴明の顔には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
それは、子の幸せを願う親そのものの、優しい表情のように思われた。


「あの、もしよろしければ、晴明殿もご一緒に如何ですか? 今日は、神子が京に降臨されてちょうど一年となる記念の日。神子と泰明殿を偲んで、八葉皆で花宴を催すことになっているのです」
控え目に永泉が誘う。
空に向けられていた晴明の視線が永泉に移る。優しげな笑みを崩さないまま、晴明は永泉に告げた。
「いえ、折角のお誘いですが、遠慮しておきましょう」
永泉の誘いを丁重に断ると、晴明は再び桜に視線を向けた。

「――もう一人、幸せを祈ってやらねばならない……いや、祈ってやりたい者がいるのです」

「えっ…」と小さく声を漏らした永泉だったが、再び桜に向き直った晴明の、何処か遠くを見るような表情を見て、それ以上声を掛けることを諦めた。晴明は永泉の疑問を感じ取ったはずだが、それについては何も答えようとしなかったのだ。
視線を仲間たちに戻すと、友雅が微笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「では、参りましょうか」
鷹通の促す声に、皆が再び歩き始める。

(もう一人、とは、誰のことなのでしょうか……)

後ろ髪を引かれる思いがして永泉が庭を振り返ると、桜の木を見上げる稀代の陰陽師の姿があった。彼の視線は、先程と同様に、此処ではない何処か遠くに向けられているようだ。

「――永泉様…」

頼久の呼ぶ声に、一瞬の間だけ躊躇った後、「今、参ります」と答え、永泉は仲間たちの元へと歩み出した。





◇ ◇ ◇





春を象徴する木気が巡り、微風を起こしている。
その風に乗り、はらはらと薄紅色の花弁が舞い落ちる様を、晴明は一人桜の木の下に佇んで見つめていた。


『――お師匠…。私は、今、とても幸せだ……』


龍神が六花と共に届けてくれた、愛弟子の声――…。
一年近くの間、聞くことのなかったその声は、京にいた頃とは違い、彼の感情が明確に伝わって来るものとなっていた。
それを、嬉しく思う。

(感謝しますぞ、龍神……)

呪を唱え終え、結んでいた印を解いた瞬間、空を舞っていた雪の姿は完全に消えた。
背後では、泰明の仲間たちが言葉を発することなく、静かに余韻に浸るように佇んでいる。
晴明自身も、二度と伝えることは叶わないと考えていた愛弟子への思いを再び伝えることが出来たことに、万感の思いを抱いていた。

――幸せであれ――…。

彼が生まれてから、晴明がずっと願っていたことである。


物思いに沈んでしまった自分を気遣ってか、立ち去ろうとする八葉たちを呼び止め、礼を言う。彼らの祈りは、龍神の力を通じて、晴明にも伝わって来たのだ。恐らく、異世界にいる泰明にも伝わったことだろう。

――本当に、泰明は良い仲間を得られたのだな……。

神子と出逢い人となったことだけでなく、八葉の務めは泰明にとって、二度とないであろう得難いものを齎してくれたようだ。

そう考えた時、ふと、泰明と同じモノのことを思った。
泰明と、晴明の陰の気を分け合って生まれし者――。
未だ人型を与えられず、精髄のまま保管されている『彼』は、晴明が張った結界に護られた安倍本家の奥深くで、その封印を解かれる日を待っている。
京に再び危機が訪れ、龍神の神子が召喚された時、神子の力となれるように――…。
次に神子が現れるのが何年後かということは、晴明には判らない。だが、平和が取り戻されたばかりの現在の京に、直ぐに危機が訪れるようには思えなかった。
しかし、晴明亡き後、息子の吉平が『彼』の封印を解くであろうことは予想出来た。
そうなれば、人型を得て二年余りで八葉の任を与えられた泰明とは違い、『彼』は長い年月、神子の降臨を待ち続けることになるだろう。その間、『彼』を見守り、支えることは、人の身では叶わない。それが出来るのは、晴明の知る限り、北山の天狗しかいなかった。

「――もう一人、幸せを祈ってやらねばならない……いや、祈ってやりたい者がいるのです」

宴に誘ってくれた法親王にそう答えたのは、晴明の本心からであった。





―――晴明――…。


八葉たちが去った後も一人物思いに耽る晴明に、龍神が声を掛けて来た。

(何でしょうか?)

―――そなた、まだ我に用があるのであろう?

龍神の言葉に、晴明は笑みを浮かべる。やはり、京の守護神には何もかもお見通しのようである。
表情を改めた晴明は、龍神に自らの望みを告げた。

(八葉の務めを終えた『彼』に、私の声を届けて頂きたいのです。――お判りでしょう。泰明と同じモノの事です)

龍神が「やはり」と言わんばかりに嘆息したらしいことが伝わって来る。
晴明の願いが未来に声を届けよというものだったからだ。時空を司る龍神には可能な事ではあったが、必要以上に未来に干渉することがあってはならない。
もちろん、晴明はそんな事は百も承知であった。龍神も、彼が未来の出来事を変えてしまうような行動を起こすような人間ではないことを知っている。それ故、直接人に関わることのない龍神が、晴明とだけは懇意にしているのだ。

(“貴方の”京を護るために、愛し子を二人も遣わせるのですぞ。その程度の我儘、聞いて下さっても良いでしょう)

晴明は悪びれる様子もなく言う。京の守護神を半ば脅すように自分の願いを叶えよと迫ることは、京広しと言えども晴明にしか出来ないことだろう。
だが、実際、晴明はそれだけの事をして来たのだ。今まで龍神に協力して来たのだから、一つぐらい願いを叶えてくれても良いだろうというのが、晴明の本音であった。
痛いところを突かれた龍神が、とうとう折れた。京を護るため、晴明の力を継ぐ者を所望したのは、他ならぬ龍神だったからである。

―――短い時間で良いのなら……。

(有り難く存じます)

くすりと笑いながら晴明が答えた時、桜の木がざわざわと枝を揺らせた。
それは、明らかに吹く風によるものではなかった。この木に宿る木霊が語り掛けているのだ。
――自分も手を貸そう、と――…。

それに気付いた晴明が、再び幹に手を触れる。

「そなた、私の屋敷に来ぬか?」

龍神に対する時とは違い、声に出して木霊に語り掛ける。
この邸に、この桜に宿る木霊の力に気付いている者がいるとは思えない。町中では滅多に見ることの出来ない強い力を持つ精霊に、晴明は敬意を払いつつ、また興味を抱いていた。

「この木が良いのであれば、左大臣様にお願いして、木ごと貰い受けるように手配するが……」

左大臣は晴明の力を頼みとし、重用している。政敵が多い左大臣には、呪詛など呪術的な罠が仕掛けられることも多かったからだ。次に何かの仕事を請け負うこととなった際、報酬代わりに桜の木を望めば、左大臣ならば否とは言うまい。「何故そのようなものを望むのか」と不思議に思うかもしれないが、晴明が意外なものを報酬に望むのは、初めての事ではない。

桜の枝が再びざわざわと揺れる。木霊が晴明の言葉に同意を示しているのだ。

「では、決まりだな」

枝の揺れと共に舞い落ちて来た花弁を受け止め、晴明は微笑んだ。


後に、左大臣家の門前に仕掛けられた呪詛を祓った晴明は、その報酬としてこの桜の木を左大臣に望んでいる。晴明の願いが左大臣に受け入れられ、木霊が宿る桜の木が左大臣家の庭から安倍家の離れの庭に移植されるのは、この年の晩秋のことであった。




(――ところで、龍神…)

桜の木と約束を交わした晴明は、再び龍神に話し掛けた。

(『彼』の名は、何と言うのでしょう?)

泰明の名付け親は、晴明自身であった。しかし、精髄のまま保管された『彼』の名は、まだ付けられていなかった。『彼』が人型を得る時、同時に名を得るのだ。
未来を知る龍神は、当然知っているはず――。そう思っての問い掛けであった。
当然の事ながら、龍神は答えを渋る。

(名を知らねば、話し掛けることも出来ぬでしょう。――『彼』の名は、何と言うのです?)

言葉遣いは丁寧だが、それはほとんど脅しに近い。
暫くの間沈黙した龍神は、観念したように呟いた。

―――……『安倍泰継』――…。

「――泰継……」

晴明はその名を反芻するように呟いた。

(吉平がそう名付けましたか…)

『彼』に人型を与えるのは、恐らく吉平であろうと予測しての問い掛けであったが、龍神は無言のまま答えなかった。

(――泰継…か…)

その名が、『泰明を継ぐ者』という意味であることは、明らかであろう。

――泰明の事を知った時、『彼』自身はその名をどのように感じるのだろうか。
   自分は泰明の代用品なのだと、気に病むことにならなければ良いが……。

そう思うからこそ、晴明は『彼』に伝えなければならないと思うのだ。
自分が常に、彼らに対して抱いている思いを――…。


(では、龍神。頼みますぞ)


―――…シャン……


晴明の声に応えるように、龍神の鈴の音が鳴り響く。


晴明は一度目を閉じ、深呼吸した。
ゆっくりと目を開くと、目の前に広がっていたのは、見慣れた自邸の離れの庭の風景だった。
どうやら今度は庭の木に視点があるらしく、突然の龍神の鈴の音に驚いたのか、幹に手を触れたまま辺りを見回している少女の姿が眼下に見えた。
そして、異変に気付いて、彼女の元に駆け付けて来た青年の姿も――…。

(嗚呼、やはり、泰明によく似ている……)

初めて見る、人型を得た、いや、人となった『彼』の姿を、晴明は目を細めて見つめていた。
その面には、自然と優しい笑みが浮かぶ。



―――泰継……。



直接相見えることの叶わぬ彼に、晴明は話し掛ける。




―――自分がいつも、彼と泰明の幸せを願っていることを伝えるために――……。







〜了〜


あ と が き
「幸せのかたち」のお師匠サイドの話として作ったお話です。そして、泰継×花梨の「雪花」に繋がる話でもあります。「幸せのかたち」の元ネタを作った頃(つまり、サイト開設前ですね)からあった話にもかかわらず、形にするのに随分と時間がかかってしまいました。
これは、元々は晴明様と龍神様と白虎組のみが登場するお話で、他の八葉は登場する予定ではなかったのです。でも、最近地玄武×神子カップルを見守る周囲の人々というシチュエーションに嵌っていたので、書いているうちにいつの間にか京側八葉勢揃いの話になっていました。
お師匠に声を掛けた桜の木は、実は「雪花」に出て来た安倍家の離れの庭の桜と同じ木です。そんな訳で、最後のシーンの晴明様は、離れの庭の桜にシンクロしているのです。後に晴明様が左大臣から譲り受けた桜は、安倍家の離れの庭で百年間過ごした後、泰継さんと花梨ちゃんが暮らす三条の屋敷の庭に移植されるのでした。晴明様はこの木霊を式神として使っていそうな気がします。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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