幸せのかたち
「泰明さ〜んっ!」

あかねの明るい声が、駅前の広場に響いた。


現在時刻は大晦日の午後八時前―――。
あかねと共に現代にやって来た泰明と、初めて迎えるお正月。できれば年明け一番に、二人きりで初詣に行きたいとのあかねの願いを泰明が承諾し、あかねの家の最寄駅の前で待ち合わせをしたのだった。
これから、いつもより少し遅い夕食を外でとり、泰明のマンションに寄って時間を潰した後、午前零時に間に合うように、マンション近くの神社に出かける予定になっている。
一週間前のクリスマス・イブは、こちらの世界で初めてクリスマスを過ごす泰明のために、皆でクリスマス・パーティーをしようという天真の呼びかけで、天真、蘭、詩紋らと泰明のマンションでパーティーを催した。
それはそれで楽しかったのだが、あかねとしては、やはり大きなイベントの日は泰明と二人きりで過ごしたい。
今日はその願いが叶うというので、雪道にも拘わらず、駅に向かうあかねの足取りは軽かった。
通りを右折して、駅前広場に泰明の姿を見つけると、手を振って声を掛けたのだった。

あかねに声を掛けられる前から彼女の気を感じ取っていた泰明は、雪が降る中、手を振りながら元気良く駆け寄って来るあかねを見て微笑んでいる。
その笑顔に自分も笑顔で返したあかねだったが、次の瞬間、寒さのせいではなく顔を強張らせた。
もともと男にしておくのが惜しいほど容姿端麗な泰明は、この現代でも他人の注目を浴びることが多かったのだが、今は別の意味で非常に目立っている。

「泰明さんっ!なんて格好してるんですかぁっ!」
「……?」
叫び声を上げながら走ってくるあかねに、泰明は怪訝そうな顔を見せた。なぜあかねが慌てているのか分からなかったのだ。

泰明の元に辿り着いたあかねは、弾む息を整えながら、改めて泰明のほうを見た。
黒のロングコートを着た肩にも、京にいた頃と変わらぬ翡翠色の長い髪を首の後ろで一つに束ねた頭の上にも、いつから外で待っていたのか分からないほど雪が積もっていた。
それを払い落とすこともせず、傘も差さずにじっと待ち人が来るのを待っていた泰明は、道行く人々の注目の的であった。

「一体、いつからここで待ってたんですか?」
引き摺るように屋根のあるところまで泰明を連れて行くと、肩に降り積もった雪を払い落としてやりながら、あかねが訊ねる。
「半刻……いや、一時間ほど前からだ」
つい京にいた頃の癖が出るのを、現代の言い方に言い直す。
「一時間〜〜〜っ!?」
あかねは、思わず雪を払い落としていた手を止めた。
約束の時間は八時だったはずだ。では七時前からこの雪の中に立っていたのか、この人は。
あかねは絶句した。

正月寒波の到来のせいか、今日は朝から寒さが厳しかった。昼前から降り始めた雪は、夕方にはかなりひどい降りになっていた。あかねは今日一日、暇さえあれば窓から空を眺めていた。
――待ち合わせ時間には小降りになっていますように…。
あかねの願いが届いたのか、あかねが家を出る頃には雪は小降りになっていた。
外で待ち合わせをすると、いつも泰明が先に来て待っているので、あかねは約束の時間に遅れないように少し早めに家を出たつもりだった。
まさか一時間も待たせてしまったとは……。

「ごめんなさい。私がもっと早く来れば良かったですね」
そう言いながら、あかねは再び雪を払い始めた。泰明に少し屈んでもらい、頭の上の雪も払い落とす。
「約束の時間まで、まだ少しある。あかねのせいではない。私が早く来ただけだ」
「早く着いたのなら、電話くれればすぐに来たのに…」
泰明はあかねのされるままになっていたが、あかねの「もういいですよ」という声に、屈めていた身体を起こすと、軽く頭を振って僅かに残っていた雪を落とした。
「でも、傘も差さずにどうしてこんな外で……。待つなら、駅舎の中とか屋根のある場所で待っていてくれれば良かったのに。風邪引いちゃいますよ?」
「………?」
あかねの言葉に、泰明は不思議そうな表情を浮かべた。
「しかし、あかねがここで待っていろと言ったのではないか」
一瞬すべての動作を止めて固まったあかねは、瞬きを繰り返した後、ようやく彼の言葉の意味を悟った。
どうやら泰明は、「駅前広場の時計の前で」と言ったあかねの言葉を忠実に守っていたらしい。
訝しげに首を傾げる泰明に、あかねは思いっきり脱力した。

「あかね、どうした?」
口を開くことができないあかねに、泰明は心配そうに声を掛けた。
こういう表情をすると、泰明は外見の年齢よりも遥かに幼く見える。もっとも中身は三歳の子供も同然なのだが。
「確かに言いましたけど…。こんな寒い中、一時間も待ってるなんて、身体に毒ですよ。雨や雪が降ってるときは、建物の中か、せめて屋根のある場所で待ってて下さい」
小さな子供に諭すように言う。
あまりにも自分のことに無頓着な泰明に、あかねはすっかり母親気分である。彼の師匠であり、父親同然だった稀代の陰陽師は、こういうことを教えなかったのだろうか。
あかねは小さく溜息を吐いた。

「…寒い?」
泰明は再び首を傾げる。
「問題ない。あかねは冬の京の寒さを知らぬから、いらぬ心配をするのだ」

(―――いっ、いらぬ心配〜〜〜っ……?)

暖房器具と言えば、火桶や炭櫃くらいしかない京の冬に比べれば、確かに暖房設備の行き届いた現代は暖かいと言えるだろう。
しかし、問題はそんなことではない。
あかねの肩は、ふるふると震えていた。

「問題大有りですっ!もっと自分の身体を大切にしてくださいっ!」

ぴしゃりと言い放つあかねの勢いに、泰明は目を見開き、無言のまま頷いたのだった。




◇ ◇ ◇




マンションを後にした泰明とあかねは、寄り添いながら神社への道を歩いていた。
夜になって降ったり止んだりしていた雪は、今は止んでいたが、空はまだ雪雲に覆われているため、いつ再び降り始めるか分からない。
しかし、歩いて十分ほどの距離なので、二人は傘を持たずに外出した。

「寒くないか?」
泰明があかねに訊ねる。
「大丈夫です、これくらい」
あかねは左隣を歩く泰明の顔を見上げて微笑んだ。
待ち合わせ場所で損ねてしまったあかねの機嫌は、夕食を共にし、泰明の部屋でココアを飲みながら談笑するうちに元に戻っていて、泰明を安心させたのだった。

「ふふふ」
「どうかしたか?」
歩きながら突然笑いを漏らしたあかねに、泰明は怪訝そうに訊ねた。
「あっ、何でもないです。ただ、嬉しくて」
あかねの答えに、さらに怪訝そうな顔をする泰明。その顔に「何がそんなに嬉しいのだ」と書いてあるようだ。
こういう泰明の反応は、京にいた頃から全く変わらない。
そんな彼の様子に、あかねは小さく笑って続けた。
「だって、こっちの世界で泰明さんと二人きりで年越しや初詣ができるなんて。京にいたときは、思ってもみなかったから」

――だから嬉しいんです。

そう言って笑うあかねに、泰明は柔らかく笑いかけた。
出逢った頃の彼からは全く想像もできなかったその表情に、あかねは見惚れた。
泰明の表情を豊かにさせたのは、他ならぬ彼女自身であるのに、あかねには全くその自覚は無い。

「あかねと共に過ごせるのは、私も嬉しい」
微笑む泰明に、あかねの頬は紅潮した。
「だが、確かに京にいたならば、大晦日に二人きりというのは無理だったかもしれぬな」
「お仕事、忙しかったんですか?」
あかねは京の春と夏しか知らなかった。桜咲く頃に召喚され、夏の終わりには泰明と共にこちらの世界に帰ってきてしまったのだから。
「年の瀬から新年にかけては儀式や行事が多い。大晦日は内裏で追儺の儀式が執り行われる。私も陰陽寮に属する陰陽師として参加していた」
「追儺?」
「『鬼やらい』とも言う。簡単に言えば、悪鬼を追い払う儀式だ」
「ふうん。鬼を追い払うなんて、節分みたいですね」
「こちらの世界にも追儺のような儀式があるのか?」
あかねの言葉に、泰明が目を輝かせた。好奇心旺盛なところもちっとも変わらない。
「儀式というか……。立春の前日に豆まきをして、鬼を追い払うんです」
「豆をまくのか?」
あかねは頷いた。
「『福は内、鬼は外』と言いながら豆をまくんです。私の家でもやりますよ。あと、年齢の数より一つ多い数の福豆を食べたりとか…」

あかねの説明を興味深げに聞いていた泰明は、「来年は一緒に豆まきしましょうね」とのあかねの言葉に、こくりと頷いた。子供のように目を輝かせる泰明に、あかねは内心苦笑した。
普段は他人を寄せ付けないような雰囲気の泰明だが、あかねの前だと時々子供のような表情を見せる。
あかねには、それが嬉しかった。

「それで、こちらでの『初詣』とは、どのようなことをするのだ」
「別に、普通にお参りするだけですよ。あとはおみくじを引いたりとか。あっ、おみくじというのは占いみたいなものなんです。あとで引いてみましょうか」
泰明は再び頷いた。



二人はうっすらと雪化粧した鳥居を潜って、神社の境内に入った。
それほど大きな神社ではない上に、この天候のせいか、人影は疎らだ。


「あかねは何を願うのだ?」
「え?」
唐突に投げ掛けられた質問に、あかねは立ち止まった。
物問いたげな表情でこちらを見るあかねに、泰明も立ち止まって言った。
「あかねは以前、火之御子社で私に訊ねたことがあっただろう。『何を願ったのか』、と。だから、あかねはこの社で何を願うのかと思ったのだ」

(火之御子社――?)
あかねは記憶の糸を辿る。

「あっ!」
「思い出したか」
声を上げたあかねに、泰明は僅かに微笑んだ。

―――そう言えば、そんなことがあった。

まだ京に来て間もない頃、散策の途中で立ち寄った火之御子社で、突然泰明の姿が見当たらなくなったことがあった。
戻ってきた彼に訊ねると、参拝していただけだという返事だった。
その時すでに泰明のことが気になっていたあかねは、泰明の願い事とは何だろうと、ふと知りたくなり、何を願ったのか彼に訊ねてみたのだ。
もっとも、「力ある神仏を敬っただけだ」という答えが返ってきて、少しでも彼のことが知りたいと思っていたあかねは、非常にがっかりしたのだが。

「あの頃の私には、『願い』など無かった。だが、お前に出逢って、初めて私の中に『願い』が生まれた」
「泰明さんの『願い』?」
訊ねるあかねの瞳が泰明の瞳を見つめた。
真っ直ぐに向けられた緑色の瞳を受け止めたまま、泰明は言った。
「あの日、神泉苑でお前に話した。だから今、私はお前と共にここにいる」

――『お前の名を呼びたい……。ずっと…そばに……』

あの時の泰明の声は、今もあかねの耳に残っている。普段あまり抑揚のない彼の声が、あの時は非常に情熱的に聞こえた。
あかねはそれを思い出して、頬を赤らめた。

「それで、お前は何を願うのだ?」
「ええっと…」
泰明は、疑問に思ったことは必ず質問し、自らが納得するまで追及してくる。言葉に出して言わないと彼が納得しないのは分かっているのだが、言葉に出すのが恥ずかしくて、あかねは真っ赤になって俯いた。
「あかね?」
俯いた顔を覗き込む泰明の視線に、あかねは観念した。
「やっ、泰明さんと同じです!」
なんとか声を絞り出す。
「そうか。では、あかねも、ずっと私と共に在りたいと願ってくれているのだな」

(わ、わざわざ声に出さなくてもいいじゃないのっ、恥ずかしい〜〜っ)

あかねの答えに満足気に言う泰明には、あかねの心の中の声は全く届いていないようだった。



ふと、遠くのほうから、除夜の鐘の音が聞こえてきた。もうすぐ新しい年がやってくる。


鐘の音に聴き入るように、あかねは耳を澄まして空を仰いだ。

「あっ、雪っ!」

あかねの弾んだ声に促されるように、泰明も空を見上げた。

先程まで止んでいた雪が、次々と空から舞い降りてくる。
まるで風に舞う桜の花弁のように……。

家を出た頃降っていた雪よりも少し大きめの雪に、あかねは声もなく見惚れていた。



『あかねも、ずっと私と共に在りたいと願ってくれているのだな』


空に舞う雪を見るあかねの脳裏を、さっきの泰明の言葉が過ぎる。
今、彼と共にいられることが、とても幸せだと思う。
そして、彼もそう思っていてくれることが、あかねはとても嬉しかった。
京にいた頃は、ずっと彼と一緒にいることなど、夢のまた夢だと思っていた。
すべてが終わった時、必ず別れなければならない人だと、そう思っていたから……。
しかし、泰明は京でのすべてを捨てて、元の世界に帰るあかねと共に来てくれた。
一緒に行くと言ってくれた泰明の言葉が、どれほど嬉しかったことか。

(でも―――)

本当にそれで良かったのだろうか?

時々不安になる。

自分のために、すべてを捨てさせてしまった。
京での彼の地位も、京を守る戦いの中で、ようやく彼が手に入れた仲間たちも。
そして、泰明に最も近しく、また、最も大切に思っていたであろう人――彼の師も。
おそらく泰明にとっては、唯一の家族とも言うべき人であったのに。
あかねは、泰明にすべてを捨てさせてしまったことを、負い目に感じていた。
だからこそ、こちらの世界で二人で幸せにならなければと思うし、そうありたいとあかね自身も願っている。

(一年に一度でもいいから、京の皆に会えたらいいのに……)

せめて、京を去る前日、泰明と共に挨拶に行った時、「幸せに」と微笑んで送り出してくれた彼の師に、今とても幸せだと伝えることができたら……

叶うはずのない願いに、あかねは小さく嘆息した。


その時―――


―――…シャン……


明らかに鐘の音ではない、しかし聞き覚えのある音が、あかねの耳に入ってきた。

「え?」

あかねが驚きの声を上げるのとほぼ同時に、異変を察知した泰明が、あかねを背後に庇う姿勢を取った。
厳しい表情のまま、空を見上げている。
まるで怨霊と対峙した時のような泰明の様子に、あかねは息を呑んだ。

(今の鈴の音…。龍神様の鈴の音みたいな……)


だが、泰明はすぐに庇う姿勢を解いた。あかねを庇うように上げていた右腕を、すっと下ろす。
しかし、視線を空に向けたまま、一言も発しない。
それを見たあかねは、泰明の背後から出て、彼の隣に並んだ。
「泰明さん?」
何事が起こったのか分からないあかねは、心配そうに泰明の顔を窺った。その顔からは、すでに厳しい表情は消え失せていた。
「…………」
あかねの声も耳に入らないかのように、泰明は呆然と空の一点を見つめている。
泰明の視線の先を追うように、あかねも空を見上げた。

次々と舞い降りてくる真っ白な花弁のような雪………。
それに混じって舞う薄紅色の何か……。
それは―――

「桜っ!?」
それが何であるかを見て取ったあかねが、驚きに声を上げた。
舞い落ちてくる薄紅のそれを掌で受けてみると、それは確かに桜の花弁だった。
「どうして…。真冬に桜が……」
掌で受けた花弁に触れてみると、それは今まさに風に煽られて散ったばかりのような瑞々しさだった。


「…お師匠………」


呆然とするあかねの耳に、泰明の呟きが届いた。
慌てて泰明のほうを見ると、彼も今あかねがしていたのと同じように、掌で受けた花弁をじっと見つめていた。

(…もしかしたら……)

彼が漏らした呟きと、さっき聞こえてきた鈴の音から、あかねは推測した。

―――季節外れのこの桜の花弁は、泰明の師匠・安倍晴明と龍神の力によって、京から自分たちの元へと運ばれてきたものではないか―――と。


「泰明さん…。これ、晴明様が?」
泰明の顔を覗き込みながら、あかねは言った。
その声にはっとしたようにあかねのほうに顔を向けると、泰明は頷いた。
「…おそらく……」
もう一度、掌の上の桜の花弁に目を遣ると、ゆっくりと空を仰いだ。
今はもう雪は止み、花弁だけが雪のように降り注いでいるようだ。地面にうっすらと積もった雪の上に落ちた薄紅色の花弁は、まるで地に落ちた雪が解けるように、その中に吸い込まれていく。
「お師匠の気を感じる……」
泰明は目を閉じて、全身で彼の人の気を探った。
胸の内に、温かいものが込み上げてくる。

私を作ってくれた人――。
作り物の私を、まるで自分の息子のように愛し、育んでくれた。
そして、神子と共に京を後にする時、幸せであれと快く見送ってくれた……大切な、懐かしい人……。

「…お師匠……」
もう一度呟くと、泰明はゆっくりと目を開いてあかねのほうを見た。
「お師匠と、それから龍神の仕業のようだ」
微笑みを浮かべて、泰明が告げた。嬉しそうなその笑顔に、あかねも微笑む。
「やっぱり。龍神様の鈴の音が聞こえたから、もしかしたらって思ったの」
二人は同時に空を見上げた。空は一面の桜吹雪となっていた。

薄紅色の花弁の舞を眺めながら、泰明はあかねに言った。
「お師匠の声が聞こえたのだ」
あかねは視線を、桜舞う空から、呟くように語る泰明の横顔に移した。
「『神子と幸せに』と……そう仰っていた…」

――龍神が届けてくれたのだ…。

そう言って、泰明はあかねのほうに視線を向けた。

「ありがとう、あかね」
「えっ?」
あかねは驚いて泰明の顔を見た。礼を言われる覚えはなかった。
「私、何もしていませんよ?」
瞬きを繰り返すあかねに、泰明は再び微笑みかけた。
「龍神は、神子の願いを叶えただけだと言っていた。あかねが願ったから、お師匠に私の言葉を伝えてくれたのだ。本来であれば、もう二度と伝えることができなかったであろう言葉を…」

(ああ、そう言えば、さっき考え事をしていた時に鈴の音が聞こえて……)

「じゃあ、私が叶えばいいのにと思ったから、龍神様が?」
「おそらく、そうだろう」
確かにさっき、「今、幸せだ」と彼の師に伝えられればいいのにと思っていた。

―――もう二度と伝えることができなかったであろう言葉……

泰明は、晴明に何を伝えたのだろうか。

「晴明様に、なんて伝えたんですか?」

あかねの問いに、泰明はもう一度空を仰いで答えた。


「『今、とても幸せだ』、と……」


その言葉を聞いて、あかねは驚きに目を瞠った。
さっき、あかねが彼の師に伝えられたらと思っていた言葉。
そして……。

――『泰明は幸せを知らぬ男じゃ』

空を見上げる泰明の端整な横顔を見ながら、かつて北山の天狗が言っていた言葉を、あかねは思い出す。
あの頃は、幸せが分からない、人の心も幸せも必要ないと言う、泰明の苦しげな顔を見るのがとても悲しかった。何もしてあげられない自分がもどかしくて……。
だから、「幸せだ」と自然に口にするようになった泰明が、とても嬉しく思う。
自分は、泰明に何かを与えることができただろうか。
彼からすべてを奪っただけではなく、大切な何かを――…。


自分の顔をじっと見つめているあかねに気付いて、泰明が優しく微笑みかける。それに微笑を返したあかねの肩を、泰明はそっと抱き寄せた。お互いのぬくもりを確かめ合うように寄り添う。


除夜の鐘の音が聞こえる――…。


二人は、もう一度空を見上げた。
さっきまで舞い落ちていた桜の花弁の姿はもうどこにもなく、ただもとの雪が降っているだけだった。
掌を見てみると、さっきは確かにそこに薄紅色の花弁があったはずなのに、まるで幻のように消え失せて、綺麗な雪の結晶があるばかりだった。

「あかねのおかげで、私は『幸せ』の本当の意味を知った」
あかねの肩を抱いたまま、泰明が呟く。
「お前と出逢うまでの私が見過ごしていた大切なものを、お前が私に教えてくれたのだ」

彼女がいなければ、今の自分は存在しない。
だからこそ、すべてを捨てて、彼女と共に在ることを選んだ。
彼女と引き換えに捨てたものを、惜しいと思ったことなどなかった。
あかねこそが、今の泰明にとって、すべてなのだから……。


「――…ありがとう……」


言葉では表現し難い、身の内の溢れんばかりの思いを、その一言に込める。

泰明は、あかねの大きく見開かれた緑色の瞳を、じっと見つめた。

私を選んでくれて
私と共にいてくれて
そして、これからもずっと一緒にいたいと願ってくれて……

(…ありがとう……)

もう一度、心の中で呟く。
少し頬を赤らめて見つめ返すあかねが愛しくて、泰明はあかねを抱きしめた。


大粒の雪が二人を包む――…。


泰明は腕の力を緩めて、ゆっくりと身体を離した。見つめ合ったまま、どちらからともなく微笑み合った。
まもなく、午前零時――

「そろそろお参りしましょうか」
泰明の右腕に自身の左腕を絡めながら、あかねが言った。
「ああ。お前の願いを叶えねばならぬからな」
「泰明さんの願いもですよ。だって、どっちも独りじゃ叶わないもの」
ふふふ、とあかねが小さく笑う。
その笑顔を、泰明は眩しそうに見つめた。
「行きましょう!」
あかねは泰明の腕を引いた。あかねに引っ張られて、泰明も参道に歩を進める。



ふと、何かの気配を感じたような気がして、泰明は後ろを振り返った。
降り積もった雪の重みに耐え切れなくなった参道脇の木々の細枝が、ぱさりと乾いた音を立てて、大地に雪を降らせた。



―――幸せに……



その音の狭間に、師の声が聞こえた気がした。







〜了〜


あ と が き
「そらのお城」様の60000HITのキリ番をGETして、柊様に描いて頂いたイラストのお礼代わりに差し上げたものです。(無理矢理押し付けたとも言う……)
描いて頂いたイラストがお師匠と泰明さんだったので、泰明さんの幸せを祈るお師匠をテーマに、しっとり系のお話にしようと思って作り始めました。ところが、二人に会話させるとなぜかギャグになってしまうので、泰明さんがあかねちゃんと現代にやって来た後のお話になりました。二人を京と現代に別れさせればギャグにはならないだろうという、実に安直な設定です(笑)。
お師匠はたぶん愛弟子としてだけではなく、自分の息子のように泰明さんのことを愛してたんじゃないかなと思います。京に居た頃、泰明さんはそんなお師匠の気持ちに気付いていなかったかもしれません。でも現代EDの彼のモノローグを聴いていると、泰明さんがちゃんとお師匠の想いを感じとっていることが判りますよね。このお話では、お師匠と泰明さんの心の絆を書いてみたつもりですが、ちゃんと書けているでしょうか。ちょっと心配……。
このお話には、京が舞台のお師匠サイドのお話もあります。そのうち書いてみたいと思っています。
最後になりましたが、柊さん、こんな拙いものを快く貰って下さってありがとうございました!

頂いたキリリクイラストはこちら
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